『復活の日(角川文庫)』(電子版)
好んで読んでいたSF作家は、もちろん小松左京、星新一、筒井康隆で、SFファンの中でも平凡な読者だったろう。小松左京の作品では、わたしは、『日本アパッチ族』とか『明日泥棒』、『ゴエモンの日本日記』が好みだった。子供の頃、大阪環状線の森ノ宮から京橋にかけての大阪城よりのところの廃墟(砲兵工廠跡)が記憶に残っていたので、『日本アパッチ族』にはリアリティがあった。鉄を喰らって生きていた「日本アパッチ族」という設定やスラップスティックな展開は、子供ながらに面白かった。宇宙人ゴエモンのキャラクタもすきだった。むしろ、小松左京のシリアスな筆致の『日本沈没』や『果しなき流れの果に』(たぶん、「SFマガジン」の連載で読んだ)とか、この『復活の日』は、どちらかといえば、あまり好みではなかったのではなかったか。2006年9月8日の『SF魂』の書評に同じようなことを書いている。その中では、『日本アパッチ族』よりも開高健の『日本三文オペラ』のほうが面白かったと書いている。
私の家では、両親が書籍や雑誌などを購入している駅前の書店で、子どもたち(妹と私)にも、つけで購入することを許してもらっていた。別に言われていたわけではなかったと思うのだが、単価の安い文庫や新書、雑誌(「SFマガジン」、「少年サンデー」(1959-))を買っていて、単行本には手を出さなかった。漫画は、近所の友人が「少年マガジン」(1959-)を購入し、交換して読んでいた。単行本で出版された『復活の日』には手を出さなかった理由」、それはひょっよしたら、子供なりの倹約意識がその理由であったかもしれないのだが。
2019年以来のコロナ禍たけなわの頃に、『アンドロメダ病原体』は読んだのに、本書を読まなかったのはなぜかわからない。でもまあ、今回改めて読んでみて、たけなわの頃に読まなくてよかったかも。宇宙で採取されたMM菌から生物兵器として開発されたMM-88と名付けられた「核酸兵器」は偶発的な事故により南極にいた各国の探検隊を除き、「人類絶滅」寸前にまで追い込むのだが、この蔓延の記述は本書の半ば頃だが、おそらく、コロナ禍たけなわの頃に読んでいたら、この部分できっとげんなりして読み進めることができなかったかもしれない。エピソードが多すぎて、テンポが悪すぎると感じた。
本書では後半になると当時の東西冷戦下の核戦略にトピックが展開して、ソ連が開発した中性子爆弾による中性子によってMM-88菌は無毒化され、かろうじて、南米南端へ上陸をはたした生き残った1万人の南極探検隊の一部のエピソードでエピローグを迎える。当時は、生物兵器というよりも、原子核兵器のほうが、インパクトがあったので、エピローグにこっちを持ってきたのだろう。
『考える親鸞:「私は間違っている」から始まる思想』
しかし、本書をこの間手にとって、デスクサイドに置いていたものの、読みすすめることはなかった。ふとしたことで読み始めたのは、本書の帯に鶴見俊輔の名を見つけたからである。鶴見俊輔については、先日も『日米交換船』を読了し、現在は『鶴見俊輔伝』を読んでいるところだ。
本書で鶴見が登場するのは、最末尾であるが本書の副題「私は間違っている」は鶴見の言葉であることがわかる。鶴見は子供の頃、母からの暴力を受けていたが、キョウダイで唯一人受けていたのでそれは自分が間違っているから受ける母からの愛であると思っていたという。
本書のタイトルは、宗教者である親鸞の思想をについて述べたり紹介するのではなく、親鸞を手がかりに、親鸞の思想を考えた人々に焦点が当てられることから来ている。明治以降の近代化日本の中で、欧化やキリスト教の影響を受けつつ日本とはなにか日本人とは何かについて考え他人々の考えであり、結果的には近代化の進行の中で親鸞を再読する(再考する)事になっている。
親鸞の残した言葉や行動、「非僧非俗」「悪人正機」「弟子一人も持たず」「絶対他力」「法難」「自然法爾」「I am wrong」などについて考察を加えている。私が気になっているのは、こうした考え方が、明治以降の近代と関連付けられていることだ。というのは、親鸞は中世の殺伐とした世界、殺人や裏切り(其々には正当性がある)に溢れ、生きるために他人の命や財産を奪うといった、ある種呵責ない世界に生きていたはずだ。また、中世的政治権力や平安仏教の権威の中で、叡山を降り、流配されるといった生を全うしたのが親鸞だ。そうした彼自身の生きた歴史を背景なくして語れないと思うのだ。
だから、苦しい世の中に生を受けた人々に、弥陀の本願を信じさえすれば悪人善人を問わず、往生したときにあの世で阿彌陀佛の救済(成仏)が待っていると解いたのだ。この世の中での行いの善悪の判断ではなく、弥陀の本願を信じることが救済の鍵となるのだと。名号を称えることがその証というわけだろう。
とはいえ、明治以降、現代に至る社会にもし親鸞が生きていたら、彼の思考が何を契機としてどのように深まったか、とても興味がある。それゆえ、本書の「考える親鸞」というタイトルが意味を持つのだが。本書に取り上げられた人々(親鸞に準拠して近現代を考えた人々)は、生きていた時代に矛盾を感じ、その生を考察するために呵責ない時代に生きた親鸞に依拠しようとしたに違いない。とはいえ、歴史的な背景や「個人」や人間についての考え方も大きく異なっていたはずだ。とはいえ、可能なら、蘇った今生きる親鸞に聞いてみたいとおもうのだ。
「蘇り親鸞」がもし目の前に現れたとしたら、聞いてみたい。
別のところにも書いたことだが、2011年10月末に亡くなった父と2012年2月初めに亡くなった母は、ともに、毎朝二人で経を読み、名号をしょっちゅう唱えていた。大谷派の寺でのお説法にも通っていたし、お寺さんや檀家の皆さんとも仲良くしていただいていた。しかし、父は入院先でせん妄に陥り(ぶりかえした戦争神経症によるとでも言うべきものだっただろう)、入院中は念仏を唱えることもなかった。いっぽう、母は入院したもののその日のうちに突然に意識を失いこの世を去った。かれらは、毎朝の習慣のようになっていた「南無阿弥陀仏」の名号をすら意識のあるうちに唱えることもなく逝った。
両親は成仏できたかどうか、おそらく、親鸞は何も答えてくれないだろう。というか、自明のことだからだ。弥陀の本願は善人悪人を問わず救済することだと親鸞は述べているのだから当たり前に弥陀の救済を期待できるだろう。人々の信仰は、それがその人々にとっての救済の願いとすれば、それはそれで良い。とはいえ、もちろん、信仰が深ければ成仏できるというわけでもない。じつは、信仰の有無は関係がないとすらいえるはずだ。両親は念仏を唱える暇もなくこの世から去ったが、生前十分に名号を唱え、経を読み、おかげ(かどうかわからないが)をもって、予定通り空に消え去ったのだろう。
両親の没後、私がしたことは、位牌を寺に預け、檀家であることを継続した。また、父が墓を京都の東大谷に新たに建てて(朝鮮戦争のときの好景気でボーナスがいつもより多く支給されその金で建てたという)、そこには祖父母が眠っていた。両親がなくなったので、私は、墓地を承継し両親の遺骨を納骨した。そして、ときには墓参をしている。こうした一連の行為は、じつは私が納得すること以上でも以下でもない。おそらく、親鸞はこうした行動についても「おまえの好きにしろ」といったに違いない。
今の我々からすれば殺伐とした中世に生きた親鸞は、おそらく、人々の心の平安のために、様々語り聞かせたということだったのではないだろうか。人々は彼に問いかける。どのようにすれば成仏できるのかと。彼は聖人(法然)様の言葉に従ったのであって、たとえ聖人に騙されたとしても良い、自分はただ聖人を信じるだけだといったという。聖人は弥陀の本願、信ずるものは死後の世界において成仏できるとのべた。とはいえ、教団をつくり、真理(弥陀の本願)を教え、それに従う人々を生み出すこと(たとえば、浄土真宗中興の祖、蓮如のように)、それは、絶対他力とは矛盾してしまうのではないだろうか。教えとそれに対する従順は「自力そのもの」なのだから。親鸞は弟子一人も持たずといったのは、絶対他力からすれば自明のことであったはずだと考えるのだが、どうだろうか。
『日没』
『順列都市(上)(下)』
『バウルを探して(完全版)』
『56日間』
『やんごとなき読者』
やがて女王は読書ノートに読後の感想を含め様々なことを書き記すようになる。ノーマンはあいにく、女王の個人秘書のサー・ケヴィンのはからい(女王の読書が様々な女王の業務に支障があることを見つけた首相が自身の最高顧問をつうじてサー・ケヴィンにノーマンの追放を助言したから)によって、大学で文学を学んではどうか(女王のはからいであると偽って伝えた)と助言され、ノーマンは女王の前から姿を消した。
読書に目覚めた女王は、やがて、読書は書くことにも通じることを見出す。自身は長い統治の間、様々な出来事を経験し、世界各地を訪問し、各国の首脳はじめ様々な有名人たちと出会ってきたそうした経験をもとに、自身の経験を分析し本に書き残してみたいと思うようになる(必ずしも、小説を書くということではなく)。
わたしは、本書をとても興味深く読んだのだが、読後、解説を読んで少し疑問を深めた。この解説によると、イギリスの上流階級(貴族や王族も含む)たちは、パブリックスクールを出てオックスブリッジを卒業しているというような教養あふれる人々と見えるが、実はそうではないという。少なくとも本書の女王の読書を始める以前の彼女および彼女を取り巻く上流階級の人々は、シェークスピアなどの引用をふくむ様々な教養溢れた会話や行動とは無縁の人々であるという。
じつは、わたしは、イギリスにはトランジットでヒースロー空港で往復で数時間滞在しただけだ。とはいえ、わたしは、オーストラリアやニュージーランドで長く仕事をしてきたので、イギリス出身(もしくは、イギリス連邦出身)の知り合いや友人が少なからずいる。そうした人々との何気ない会話には、ほとほと自分自身の教養の無さに辟易とした経験が少なからずある。私自身、おそらく、世間並みには読書家と言ってよく、しかも、様々なジャンルを渉猟している。加えて、研究者の末席を汚している。研究分野は文学ではないし、過去の文献を踏まえることは当然のこととして学んできたものの、むしろ経験を元にして記述することが、私にとっての主要な「書く」という行為ではあるのだが。
ところが、友人たちとの何気ない会話(研究に関わるものではない)では、ついていけないことに悩んできた。もちろん、知るべき(読んでいるべき)対象がイギリスの教養人とは異なっているから、やむを得ないともいえるということは言うまでものないのだが。したがって、日本のことを話すときには会話の主導権を握る事ができることはいうまでもない。とはいえ、会話はイギリス人およびイギリス連邦人が多数の中に交じるので、当然のことながら、話題の多くは彼らの教養のジャンルに集中することになってしまう。こうした経験を踏まえて、本書の解説を読んでわかったことは、私がオーストラリアやニュージーランドで会話してきた人々は、上流階級の人ではなく中産階級の人々であったということのようだ。
さて、本書が描く女王は、読書に目覚め、あろうことか自身の経験を踏まえて分析し何事かを書き記すことにも目覚めたのだ。「君臨すれど統治せず」というのがイギリスの統治者のモットーとはいうものの、読書を踏まえて経験を分析し書きとどめ、それをもって、為政者に賢明な助言を与える可能性に気がついた女王は、本書の中でも退位後本を執筆することを匂わしている。本書の最後のシーンは、女王の80歳の誕生日を祝う食事会におけるシーンであった。実際には、女王は昨2022年9月に96歳で薨去するまで退位することなく君臨し続けたわけで、本書はあくまでもフィクションとしての地位を保ったことになる。
我が国の政治家や高級官僚たち、彼らは我が国の上流階級(イギリスのそれと匹敵する)と言えるのであろうか。つまり、イギリスの上流階級のような「知的でないことの重要性」を担保されるべき人々なのだろうか。いや、決してそうは思わない。彼らこそは日本的中産階級の上辺の存在として、あくまでも教養を高めるための多様な領域の読書をふまえ、収集した事実や自己の経験を分析する能力を持ち、業務を遂行すべきだと思う。かれらには、本書を読んで読書をしそれを踏まえて上で自身の経験を分析し客観的に(主観的にであってもよいが、独善的ではないことを理解し、それを踏まえて自己分析のできるという意味)事態を認識できる教養をもつべきだといいたい。そうしたかれらには、ぜひ、読書の出発点として本書を読むことを薦めたい。
『ブタとサツマイモ:自然の中に生きるしくみ』
『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく(電子書籍)』
両作品ともに視覚障害者の白鳥さんが「アートを見に行く」というという点だけに焦点が当てられているわけではなく、おそらく晴眼者にたいする視覚障害者の日常についても伝えようとしている。また、書籍版では、視覚障害者にとっての障害とは何かとか、差別や偏見の問題についても触れられている。
私が両作品に関心を持った理由は、視覚障害者の白鳥さんが他者との共同作業(他者との会話)を通じて、対象(芸術作品)を理解しようとしていると思ったからだ。人間は、見るといっても、視野に入る視覚情報をすべて把握しているわけではない。見えていることと、理解することはことなる。さらには、見えていることを言語化するにしても、言語化する人の認識の焦点によっても異なっているはずだ。晴眼者が見たことを視覚障害者に言語を通して伝えるとしても、視覚障害がどのレベルかや晴眼者が何を伝えようと考えるか、一概にはいえない。とすると、視覚障害者の白鳥さんとのやり取りはどのようなものだろうか。
どのように伝えるのか、どのような言葉をつかえば伝わるのか、また伝える内容は何であるのか、なんとも漠然としている。たとえば、対象(両作品の場合は現代アート)について、晴眼者どうしでもおそらく、見ている対象のどの部分に焦点が当てるかによって、異なる言葉が出てくると思う。
学校教育における美術という科目には、作品を作るだけでなく、美術史や作家について学び、さらには美術館において作品鑑賞を行うというカリキュラムが含まれているはずだ。白鳥さんの行動は、最初は付き合っていた女性が美術館に行こうといった経験があったことをきっかけにしたものだったというがが、様々な障害を持つ人々が美術館において作品鑑賞をするということを可能にするという昨今の流れにも即している。
盲人にもちろん、盲目と言っても個人差が存在する。つまり、生まれてから視覚経験を持たない盲目の人から、白鳥さんのように片目は全盲だがもう片目も弱視だったが20歳ごろまで光が見えていた人のように、途中までは視覚情報を認識していた人、さらには、何らかの理由で途中で全盲となった人(もちろん、それまでの視野認識や全盲となった年齢も関連するだろう)などなど、様々な盲人がいる。そうした人々を十把一絡げにすることはもちろん困難ではある。また、晴眼者であったとしても、「見える」といった視野に入る情報を認識するうことと、「見るということ」は経験などに照らし、注視して記憶に留めるといった行為とは異なるはずだ。
トークショーでは、白鳥さんはこれまでの鑑賞教育と彼がかかわる鑑賞会は違うという。では、美術についての鑑賞教育とは何だったのだろうか。
ここで思い出したのが、昨年の対話型鑑賞教育を目指した?「あいち2022」の一宮での経験だった。わたしは、その時「どう思いますか」を連発したボランティアの女性に腹を立てたのだけれど、ファッシリテータはどのようにすればよいのだろう。映画会終了後でのステージでの白鳥さんによれば、ファッシリテーションなしの鑑賞会がありうるというのだけれど、どうなんだろう。本書を読んだり、映画をみたりすると白鳥さんのキャラクターそのものが参加した人の言葉を引き出しているような気がする。ドキュメンタリー映画の中のかれのいう鑑賞会は、白鳥さんはみなさんの発言を最小限のかかわり、笑う、うなづく、そうそうというという言葉程度のリアクションだが、参加者はそれなりに感想を漏らして、会話になっている。
映画をみて興味深く思ったのは白鳥さんの「読み返さない日記」で、読み返すも何もカメラで取った画像、全盲の彼は見直すことができないわけだ。しかし、これまで40万枚以上も毎日摂り続けているという。かれは、美術鑑賞家であると同時に写真家でもあると自称する。
まあ、結論づける必要はないのだけれど、本書も映画もツッコミどころが多い。とはいえ、目の見えない白鳥さんが美術鑑賞家だったり、写真家だったりするというのは多様な視点、多様な理解をもたらす。とはいえ、このことは、多様性そのものの理解の困難さでもあるとも思えるのだが。
『ギャンブラーが多すぎる(新潮文庫)』
『「色の不思議」と不思議な社会:2020年代の「色覚」原論』
本書について先立ち、個人的な振り返りから始めたいと思う。
わたしは、45年以上にわたる大学での講義経験があるが、毎年の成績評価のときにはいつも悩みを抱えていた。たとえば、成績を素点でつけるとしよう。連続的な素点の何処かで、合格と不合格の線引をしなければならない。分布をみるというのもまた線引の一助となる学生の得点は理想的には正規分布するはずとみなすことだ。
とはいえ、問題は、合否という二分法でふたつの集団に分けなければならない。これが、悩ましいのである。過去10年ほどは、素点を偏差値に変換して標準化しようとしたが、それでも、どこかで線引して合格と不合格を決めなくてはならないことにはかわりはない。くわえて、大学ではSABC が合格、Dが不合格という具合に、同じ合格でも成績ごと線引をしなければならない。かつては、科目の受講生全員をA評価(当時はS評価はなかった)に付けていた太っ腹の同僚もいるにはいたが、最近ではそうした偏りは許されず、成績分布が分散するように求められる。ますます厄介なことだ。
さらに、思い出してみると自分自身が生徒であったころまで遡って考えてみるとこんな事があった。中学高校のときには素点で成績が明らかにされ、通知簿に記載されていた。さらに、中学1−2年には廊下に張り出され、順位付けも明らかにされたこともあった。中学3年以降そんなことにはならなかったが、学期の中間と期末には、通知簿には素点が記入され、基準点の30点以下だと「欠点」(通知簿に赤点で素点で表記される)が書きこまれた。
私は、英語と数学が苦手で、中間試験には赤点ゲットの常連で、期末試験の際になんとか黒字が記載されるべく、少なくとも中間試験と期末試験の平均で「欠点」を超えるように期末試験を「ほどほど」に頑張ることをモットーとしていた。手抜きではあるが、すくなくとも、赤点をゲットするよりましと考えていたからにちがいない。これもまた、正規分布の世界での生存戦略といえるだろう。すなわち、上位5%でも下位5%でもなく中間的なゾーンで埋没すること、これこそが平凡に生きる道とも言えるだろう。
正規分布以外に、世の中にはべき乗分布をするものも存在する。進化の途上で起きた網膜上の色覚を司る遺伝子のバラエティ、これは表現型としてべき乗分布をしている。べき乗分布するものであれ、閾値で分類しようとすると問題が生じる。というか、一般にはこうした連続性が存在することは理解しにくく、人間の最もシンプルな理解の方法は二分法であるからだ。白でなければ黒、善でなければ悪、合でなければ不可、というわけである。ところが、こうした二分法による認識は、単に分類の世界にとどまっていればよいのだが、価値観と絡むと厄介なことになる。
本書の目的は、色覚異常の「異常」をどのように捉えるのが望ましいかという点についてその詳細を明らかにすることにある。「文筆家」である著者は、生物学者、疫学者、認知心理学者などなど、色彩および色彩の認識に関わる様々な領域の専門家を尋ねて本書をまとめた。動機となったのは、著者自身が小学生のおり「赤緑色盲」と判別されたこと、それにもかかわらず生活上何ら疼痛を感じることもなかったこと、その理由を探るという点にあった。
我々の色彩の認識は物体の色彩を直接認識することではなく、照明体からの光をうけた物体の反射光を網膜で情報として受容して、その信号が脳に送られるという複数の間接的な認識過程を経由した情報を脳が判断するのだ。さらに、他者とのコミュニケーションでは、其々の言語の色彩語の表現として相互の認知情報の共有をおこなうという、さらにもう一つの間接的な認識を経ることになる。色彩を巡っては物理的な現象を網膜という受容器官で情報をうけとり、電気信号として脳に送られ、脳が判別するという過程と認識したものの言語化という複雑な過程すべてが色覚にかかわるということをまず前提として理解する必要があるだろう。さらに、認知心理学と視覚研究者の下條信輔の「色覚は健全な錯覚である(Color vision is a healthy illusion)」(p. 180)という記述も記憶すべきだろう。くわえて、石原表のような、印刷されたもので反射光を判別するものとコンピュータのモニタ(反射光ではなく、発色している)を利用して判別するものとでは当然反応が異なることも知っておく必要があるだろう。
人類をふくむ霊長類は3色覚をもっているとされるが(この出発点からして大きな問題点がある)、もともと、爬虫類、恐竜、鳥類は3色覚を持っていた。進化の過程で哺乳類は、夜行性の生活様式への適応のなかで2色覚になってしまった。だから、我々の身近にいるイヌやネコは2色覚なのでかれらと霊長類は異なる色彩世界に生きていることになる。霊長類は樹上生活の中で、あらたに1色覚を獲得して3色覚となったのだという。
あらたに加わった色覚は緑の森のなかで、赤く熟した果実を見つけることに貢献したはずだが、霊長類の遺伝的多様性ではすべての個体がそうした色覚を有してはおらず、種によって一定の割合の色覚「異常」の個体が存在するという。もちろんそうした個体は生存上不利益をこうむり、淘汰されていくはずだが、一定数の「異常」が存在できているということは適応上、色覚「異常」は遺伝的に中立であることを意味して良いだろう。本書で紹介されているように、単に色彩だけで判別しているのではなく、匂いや仲間個体の行動から、何らかのインデックスを見出して識別している可能性があるということになる。だから、色覚「異常」が生存に関わることはない。つまり、生存上不利益を被らないはずの色覚「異常」が現代社会における、就職差別や偏見に結びつくことの不合理について理解を深めることの重要性が本書で繰り返し指摘される。
色覚検査にもちいる石原表は小学校の健康診断で受けたことを記憶する。とはいえ、職業的に色覚に付いての認識の違いが障害となるケースは数少ないだろう。パイロットはそうした職業のひとつだが、本書によれば、空軍のパイロットと民間航空のパイロットでは異なる基準であるという。とすれば、学校で検査して予めスクリーンにかけてしまうというのはいかがであろう。色覚だけがパイロットという職業の適性ではないだろう。私は子供の頃パイロットになりたいと思ったことがあるが、ならなかったのは色覚検査で引っかかってアドバイスを受けたり(わたしは、色覚「異常」とは伝えられなかった)、色覚について考えての結論ではない。あとで、なりたいものが現れたからだ。はたして、小学校の頃にスクリーンをかけてしまうことは果たして必要なのだろうか。
また、正常か異常かといった2分法が適応可能であるのかどうか。この点については、自閉症や発達障害についてもべき乗分布しており、一定の閾値で正常/異常(該当/非該当)と区分するすることは困難な事象であるという。また、性染色体、外性器、性自認、さらには、当該社会の性に関する文化(ジェンダー)や歴史的な変化(経緯)によって、男女の性差・性別といった二分法では解決できないジェンダーの問題にも共通するものといえるだろう。
われわれは、これまで様々な分野で閾値による判別をしてきたことは事実である。とはいえ、本書の指摘する色覚のみならず、様々な領域で、多様性の重要性が重視される現在において、連続的な現象を区分する必要(あるいは要請)はどの程度あるのだろう。むしろ、連続している、弁別することの困難さについての理解を深めることが重要だと思われる。
個人的に講義で使ったことのあるネタのひとつとして興味のあった記述を取り上げてみよう。色覚についての多様性について探求するなかでとりあげられた、バーリン&ケイのbasic color termsやサピア&ウォーフの言語相対主義とも直結する課題、色彩カテゴリー(指示された色彩カードをどの言語でカテゴライズするか)に関連する記述が興味深かった。
どの言葉を使うかは同じ言語話者であったとしても個人差が出てくるので同一の名称を当てられた色彩をグループとしてまとめると、30年前と比べて日本語話者の中で基本語として青色から水色が析出されてきた(新たなカテゴリーと指定誕生したようだという。The modern Japanese color lexiconがその研究である)という。言語からのアプローチだと、バーリン&ケイのように基本色彩語彙の定義で論争が出てしまうが、色彩認識の側から、少なくともインフォーマントが同一の色彩語(形容詞付きの色彩語や複数の色彩語の組み合わせを用いないという条件)を用いてカテゴライズした色彩をひとまとめとみなすというほうがゆらぎが少ないように思える。先の研究では、白、赤、黄、緑、青、茶、紫の7色が(57/57、57人のインフォーマントのうち全員が合致するということ)、オレンジ、(56/57)、水、ピンク(55/57)、黒(53/57)、灰(52/57)(以上が90%以上のインフォーマントの回答が一致)だという。
Russian blues reveal effects of language on color discriminationの論文でははロシア語話者と英語話者の3枚の「青」(ただし、2色は同一で1色を異なるものとし、ロシア語の「明るい青」と「暗い青」(両者は、ロシア語で2つの異なる色彩語がある)を異なる1色として加えると、ロシア語話者は弁別できるが、英語話者は弁別できず、これは、サピア&ウォーフの言語によって、思考が規定されるという言語相対主義の例証となるという。
本書は色覚を巡ってたようなアプローチから明らかにしていて、とくに、小学校の教師は本書を紐解き問題点はどこにあるのかしっかり理解して教育に従事スべきだろう。また、大学でも、とくに教員養成課程をもつ大学においては、色覚を巡る問題が多様性の理解に関わり、差別や偏見とも結びつく重要な教育課題であることを認識スべきだろう。
『お雇い外人の見た近代日本』
『バディドッグ コミック 全11巻セット(ただし、電子版)』
本作品の主人公はバドこと超AIの端末である犬型ロボットと預けられた相沢との物語。相沢は、家電メーカー・ジンムの営業だったが左遷されて、かつて製作販売していたペットロボの「バディドッグ」の回収補修を担当するセクションの「バド研究室」の室長に追いやられている。室員は同じく左遷された3人の中年エンジニアとこれまた左遷された女性ロボット研究職ひとりである。本作品の底流には本業の目的ではなく、社内の人間関係における勝敗を目的としているサラリーマン社会の悲哀、実現したいと思っていたもともとの動機付けではなく、社内の人間関係に由来する権力闘争を動機として行動する社員とそうでない社員との葛藤というのも本作品のテーマのひとつだ。本作品の主人公のバドはソニーのペットロボのAiboを思わせるが、こちらのほうは、まだ製作販売が続いているようだ(1999~)が、会社内の複雑なつまらない人間関係はソニーをふまえているわけではもちろんないだろう。
作品の主人公「バド」は、元々はアメリカの軍事目的の暴走AIであった「ゴーレム」の端末であることははじめに明かされる。「ゴーレム」は後半、なぜ暴走したのかそのナゾが明かされるが、危機一髪核戦争寸前までいったもののアメリカ国防省の管理下を脱走してクラウドに逃亡していた。
テキストで会話できるChatGPTに代表される生成AIはインタフェースを置き換えれば、本作品の主人公のバドのように人間との多様なコミュニケーションを可能にするだろう。とはいえ、2022年末から始まった一連の騒ぎのAIは幸か不幸か本作品の主人公のような能力を持ってはいない。本作品は、人類の危機を救うAIという視点で様々なストーリーが展開されて入るものの、そもそも、「人類の危機を救う」という価値観をAIが自動的に導き出す必然性はない。本作品では、「ゴーレム」の暴走に関わった「カノン」(規範という意味)という名前の天才的なAI開発者がチェルノブイリの原発事故の解決に向けて立ち向かうウクライナ人という設定となっているから、「ゴーレム」およびその端末である「バド」が人類の危機を救う救世主のような役割を担わされるわけだが、現実にはそれはあまりに楽観的にすぎるだろう。
暴走する(つまりは、人類を滅ぼしかねない、さらに地球を滅ぼしかねない、もちろん、AIが悪いのではなく、それを開発した人類が悪いのだが)AIが誕生するかどうか、現時点では一切の歯止めはない。結果的には、いかにプラグアウト(電源を止める)するという最終的な担保、そのことは、人類が一切の電源を用いない社会を再構築することができるかどうか、というある種の究極的な選択しか、暴走AIを止めることができないと思うのだが・・・。
まま、結果的には本作品は昨今のAIの動向についていち早く(でもないが)注意を向けることになった作品のひとつとして、記憶されてもいいかもしれない。
『ムラブリ:文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと(集英社インターナショナル)』
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