今年も、田布施町観光協会主催ののろしリレーの催しがありました。私は去年と同じようにのろしを含む通信の歴史について子供達にお話しをしました。通信というと敷居が高いようですが、お互いの意思疎通の方法と考えれば分かりやすいと思います。最初に昆虫の通信方法について考えてもらいましたが、ピンとこないようでした。今の子供はアリやダンゴムシをじっくり観察することはないのでしょう。私は子供の頃、たくさんのアリを飼ったり戦わせたことがあります。
主催の観光協会挨拶 通信について説明 いよいよほら貝
距離が遠くなった場合の通信についても説明しました。距離が遠い場合の通信の一つとしてほら貝があります。去年、ほら貝がなかったためサザエで代用しました。しかし、今年はファームランドのTさんに本物のほら貝を持ってきていただきました。ありがとうございました。最初、子供達にほら貝を吹いてもらいました。しかし、フューフュー吐いている音しか聞こえません。素人には難しいのです。最後にTさんに吹いて鳴らしてもらいました。
一生懸命吹いても吐く息だけの音 ほら貝を大きな音で鳴らすTさん
ほら貝はせいぜい数kmしか伝わりません。次にさらに遠い数百kmの通信について説明しました。ここまで遠くなると、子供達には想像できないようでした。そこで、伝書鳩を使った通信について説明しました。伝書鳩を飼っているYさんに、伝書鳩を連れてきていただきました。ありがとうございました。
伝書鳩を説明するYさん 伝書鳩を触る,暖かい 鳩の通信文を書く
子供達に伝書鳩を触ってもらいました。鳥は一般的に体温が暖かく、鳩の場合は40度だそうです。確かニワトリは42度だったように思います。伝書鳩を放つ前に、届ける通信文を子供達に書いてもらいました。そして、その通信文を通信管を入れ、その通信管を伝書鳩の足に取り付けました。他の10羽位の伝書鳩と一緒に空に放ちました。
通信管を取りつけ、他の伝書鳩と一緒に空に一斉に放つ
伝書鳩が空に舞うと、通信のお話は終わりです。次は、のろしを上げるための火おこしです。ボーイスカウトの方々が摩擦による火おこしを始めました。ろくろ状の火おこし器を動かすと、熱くなるのでしょう煙があがってきました。その小さな火をだんだん大きくして炎にすれば、火おこし成功です。ドラム管に火を入れてさらに大きな火にします。
ろくろ状の火おこし器 火おこし体験する子供達 煙が立ち込める
ドラム管で火が大きくなるまでの間、子供達は火おこし体験をしました。しかし、往復運動するろくろ状の火おこし器は難しいようです。軸がなかなか回転しません。しかし、子供達にとって今回失敗であったとしても、その体験はいつか役に役に立つはずです。
けむりがたくさん出るように杉の生葉を入れる
今回はのろしを中心とする通信について学びました。その他の催しとして、ポン菓子作りや手作り風車(かざぐるま)作りをしました。ポン菓子はとても大きな爆発音が出ますので、みんな耳をふさぎました。お土産にポン菓子をいただきました。ありがとうございました。
のろしリレーの催しに参加した、ボーイガールスカウト、ファームランドなどの方々
手作り風車作りですが、今では見かけることが無くなった風車です。子供達は思い思いにシールを貼ったり、絵や文などを書いたりして作りました。風が吹いて来たり、風に向かった走ると勢いよく回りました。
爆発するポン菓子 手作り風車作り 風車に思い思いのシール
そのほか、のろしで使った残り火でポップコーンを作りました。はぜてパチパチ言い始めると完成まぢかです。その他、手作り運搬車に子供達が乗って楽しみました。また、焼いたマシュマロをビスケットで挟んで食べました。いろんな遊びで思いっきり楽しみました。あっと言う間の2時間でした。設営および片付けの方々、お疲れさまでした。とても楽しいのろしリレーの催しでした。
膨らむポップコーン 楽しい運搬車 最後に終わりのご挨拶
次に、戎ヶ下地区の白石氏前に向かいました。国道188号線と交わる場所で、信号手前でお祓いがありました。かつては海に面していましたが、戦後国道188号線の位置が変わってから周りの様子が変わりました。元々はここから渡船場前までを国道が通っていましたが、戦後に山側を国道が通るようになりました。かつては牡蠣の養殖場が、その後塩田や水田になり、今は工場が目の前にあります。
14.戎ヶ下立石氏前 15.天満宮前 16.山本氏前
続いて、国道188号線を跨いで天満宮前に行きました。この天満宮境内には、戎ヶ下の名前の由来になったのではないかと思われる戎様の祠があります。また、天満宮拝殿横にタイムカプセルがあります。埋めた当時小学生だった子供が、60歳になった時に掘り出すとの事。今から15年後に掘り出すようです。続いて、山本氏前に行きました。江戸時代この近くに刑場があったそうで、その記録が残っています。そして、その御霊を弔うお地蔵様が今も近くにあります。
17.見田団地に着いた御神輿
戎ヶ下を出ると、見田団地に行きました。住吉神社のお祭り時には見田団地前の広場でお祓いがありますが、高松八幡宮のお祭り神幸時には団地内でお祓いがあります。次に麻里府尾津東の御旅所に行きました。続いて、麻里府公民館前に行き、さらに殿明商店前でお祓いがありました。
14.尾津東御旅所 15.麻里府公民館 16.殿明商店横
殿明商店横でのお祓いが住むと、次は立石です。立石地区は麻里府の最西端にあります。住宅がありますが、近年は住む人が少なくなったのでしょう、2名の方がお祓いに来られました。ここは瀬戸内海に面している眺めの良い地区です。目の前に馬島が見えます。
17.馬島を目の前にした立石
立石地区の裏山に、麻里府尾津地区などの方々の墓地が広がっています。その墓地の中に、幕末の麻里府で起きた加徳丸事件で惨殺された薩摩藩の方が葬られています。この麻里府で幕末に大事件が起きたことを知っている人は少なくなりました。この事件の一部が幕末の大阪で瓦版になっています。
高松八幡宮夏祭り御神幸のコース
このところ紅花の花が次々に咲いています。こんなに次々に咲く花だとは思っていなかったため、収穫が後手になってしまいました。梅雨の間に咲いたらしく、いくつかの花は萎んでいました。咲いている花だけでもと、次々に収穫しています。
次々に花が咲く紅花
かつて、私が紅花収穫を初めて体験した時は次のようでした。どこかの紅花畑で、花だけをハサミか何かで切り取るのでしょう。その大量の花がどっさり入った大袋が運び込まれました。それを長テーブルの上に広げます。すると、そのテーブルの周りに各人が陣取って、花から次々に花びらを千切り取るのです。作業は単純です。ただし、花には棘があるので注意深く千切ります。
花から花びらだけ千切り取る 千切り取った後の花、膨らんで種ができる
みんなが取った花びらを集めてどこにか出荷するようでした。その後、糸や布の染色に使うのでしょう。私は、紅花の種も取りたいのでハサミで花を切るようなことはしません。咲いた花から花びらだけを千切り取ります。棘が指に刺さらないように注意しながら取りました。取った花びらは広げて天日干ししました。干している時の花は鮮やかな黄色や赤色をしています。今年中に染色に使いたいと思っています。
天日干ししている紅花の花びら、鮮やかな紅色
続いて蓮輪の志熊氏下に行きました。この地区では大正時代に神舞が盛んでした。隣近所の方々が神舞のそれぞれの役を担当したとのこと。例えば、当時の志熊氏は舞手だったそうで、倉氏は剣の舞が上手だったとの話が残っています。それぞれ明治後半生まれだったでしょうから、大正時代は若者だったに違いありません。おそらく、神事時にも舞われたのではないかと思います。
5.志熊氏下 6.矢村氏下 7.米出
次に同じ蓮輪の矢村氏下に行きました。そして、その次に米出に行きました。米出地区は江戸時代後半に、名前の通り麻郷地区で生産されたお米を出荷していました。米蔵がたくさんあったそうです。また、代官所に相当する上関宰判勘場がありました。明治時代にも、二階建ての呉服屋があるほど賑わっていたそうです。
8.蓮輪集会所横、蓮輪,米出,鳥越,浜城を結ぶ十字路
次に、蓮輪集会所前に行きました。かつて蓮輪集会所近くの山の上に金毘羅社のお社がありました。しかし、あまりに急な石段のためお年寄りが登れません。そのため、今は集会所でお祭りをしているそうです。ここ最近、山の上にあるお堂やお社を麓に移すケースが増えています。小子高齢化の顕著な表れだと思います。
9.藤森商店前 10.伊藤作業所横 11.加藤氏前
蓮輪集会所を過ぎると、浜城地区に入り藤森商店前に行きました。江戸時代、この近くで漢学者亘理南山が塾を開いていました。明治時代になって、教え子が立派な石碑を建てています。平生町からも教え子が通っていたとのこと。続いて、同じ浜城内の伊藤作業所に行きました。
12.泊団地1 13.泊団地2
次に国道188号線に出ました。南周防大橋近くの加藤氏前に着きました。次に、道を渡って泊団地に行きました。この団地は私が子供の頃には無かった団地です。城山の麓に作られた団地です。かつては城山が西側にそびえていましたが、山腹が削られかつての城山の威容はありません。泊団地の二ヶ所の御旅所を回った後、次に戎ヶ下地区に向かいました。
高松八幡宮夏祭り御神幸のコース
田布施町の陶土で土琴ができないか試作をしてみました。ドレミの音が出るように細長い土棒を固有周波数に合わせて焼いてみました。おそらく音は出るにしても、とてもドレミの音は出ないだろうと思っていました。やはりその通りでした。
焼きあがったものの、大幅に縮小変形
焼きあがった土琴は、1~2割小さくなっていました。そして、炎の当たり具合で縮小にむらがあるようです。当然音も予定よりも高い音が出ました。さらに、小さな土琴は音が曇っているのです。ある大きさ以上でないと、音が出にくいようです。
土琴をぶら下げる糸 ドの土琴を糸で結ぶ 次々に土琴を糸で結ぶ
ドとレのつもりの土琴は音が高い方に大幅にずれていましたが鳴りました。ミは音が大幅に高くなっており、叩いても音が小さいです。その他は音が曇っていました。焼きによる縮小を予測して、大き目に作ると良い音が出るようです。また焼く温度を高くした方が良いようです。ベル型にして試作した土琴は、小さくても良い音が出ます。土琴への道は険しいです。やれやれ!
焼きあがった土琴、左三つは音が出るもののずれた音、他は残念
7月9日(日)、田布施町の高松八幡宮の夏祭りに行きました。去年の同じ日、田布施町城南の石の口八幡宮に行って夏祭りの御神幸に付き添って記録しました。高松八幡宮は御神幸に加えてお迎え提灯があります。そのため、早朝7時から夜の8時頃まで夏祭りに付き添いました。蒸し暑い時期の夏祭りでしたが、すべての御旅所を回ることができました。また、昔の夏祭りの面影を残すお迎え提灯も調査できたことは収穫でした。
早朝の御神幸準備 5分前に先導者出発 7時半出発の御神幸
朝7時頃に高松八幡宮に着いた時、すでに御神輿へのお祓いは済んでいたようです。お神輿が軽トラックに載せられていました。7時25分に太鼓や笛が鳴る先導者が出立しました。そして、7時半に予定通り御神幸が始まりました。私は、写真を撮ったりしやすいように身軽なバイクでその後を追いかけました。
最初の御旅所である上野氏前
最初の御旅所は、井神の上野氏邸前です。到着すると笛や太鼓の中で、総代さん達がお清めなどをてきぱきとこなしていました。この近くには麻里府に通じる伊座利ヶ峠があります。かつては、この峠を越えて麻里府の方々が高松八幡宮のお祭りに来ていたそうです。また、麻里府や竹尾に住んでいた私の同級生達は、峠を越えてここのため池に釣りに来ていたそうです。
2.江良氏横 御神幸をサポートする車 3.垰氏横
上野氏前を過ぎると、次に江良氏横に着きました。江良壁松邸横です。江良壁松がご存命の時も、そのもっと昔もこの場所に御神輿がやって来ていたのだと思います。私の同級生のお兄さんが来ておられたので声をかけました。1年ほど前、生前の江良壁松についてお聞きしたことがあります。
4.尾迫をいったん通り過ぎて蓮輪吉中氏前
今回、御神幸に付いて行きましたが、御旅所に来ていた方々とお話しに夢中になったり、通り過ぎている映像を撮影したりしたため、時々御神輿とはぐれてしまいそうなことがありました。予想される御神幸コースを予め下見していたためはぐれずに済みました。下見が大切であることが身に沁みました。
高松八幡宮夏祭り御神幸のコース
私が素焼きをしている間、女性陣は楽しそうに素焼き済みの土器などに釉を塗っていました。大まかに二種類の塗り方があるようです。一つは土器をドボンと浸す方法、もう一つは筆で丁寧に塗る方法です。皿や器類は前者の方法が効率的だと思います。ブローチやボタンなどは後者がいいようです。
紡錘子を浸すTaさん 談笑する女性陣 釉を塗った素焼き土器
ところで、Taさんが面白いものを見つけました。それは釉の代わりになる釉シートです。このシートには模様になった釉が張ってあるようです。水で浸したシートを素焼きした土器に張るのです。そして、シートを剥がして模様を土器に転写するのです。その後、乾かして焼くと模様が浮き上がるようです。
見つけた釉シート シートの模様を転写 見つけた釉クレパス
もう一ついいものを見つけました。今度はクレパス状の釉です。クレパスのように色分けしてあるのです。焼いた時、描いたとおりに色が出るのではないかと思います。釉もいろんな方法があることを初めて知りました。とは言え、あまり凝っても仕方ありません。今回と次回は、どんな色が出るか試すだけにしようと思います。
今回、素焼きしたり釉を塗った方々
今回、七輪で人型土製品を二度素焼きしました。最初は見事に失敗しました。余熱から高温に移る時、空気を一気に入れ過ぎたようでなのです。そのため、温度が急カーブで上がったため耐えきれず破裂したようです。三度破裂音がしました。火を落とした後、確認すると、元の形が分からないほど人型土製品は大きく割れていました。小さな土製品は安定して素焼きできました。
タブセの文字を刻んだ土駒 釉がわずかにガラス状に溶けた素焼き
二度目の七輪は、人型土製品を破裂させないように約1時間かけてゆっくりと温度を上昇させてみました。これが大成功でした。三度目にして人型土製品の素焼きが完成しました。ただ、時間をかけ過ぎたためか炭が早く燃え尽きてしまいました。そのため、温度が上がらず素焼き程度の温度にしか上昇しなかったようです。そのため、釉を塗った素焼きは焼けませんでした。次の機会に挑戦しようと思います。七輪による焼き物はなかなか難しく、炭の量,送風量,そして空気穴の開け閉めと温度の関係をまだ習得できていません。
出来上がった人型土製品やイノシシなどの素焼き、釉は失敗
先日焼き終えた土器などに釉を塗る工程に入りました。焼くことなら子供の頃に野焼きや風呂焚きで土器を作ったことがあります。しかし、釉を塗るのは初めてです。今回もYさんに来ていただいて釉の塗り方を教わりました。ありがとうございました。使ったのは二色の釉です。白と透明です。どちらも同じような色をしているため、私にはどちらが白でどちらが透明かは分かりません。
水分が抜けた釉 水分を入れて溶かす ご指導いただいたYさん
釉にはいろいろな色があるとの事ですが、今回は釉初体験のため二色だけを使いました。しばらく使っていなかった釉のようで、水分が抜けていました。そのため、水分を補充しながら溶かしていきました。乳鉢でこするようにして溶かしました。溶けたことを確認すると、素焼きした土器に釉を塗りました。
溶けた釉薬にドボンと浸して釉を塗る
釉を塗るのは女性陣にお願いしても、私は先日作った土器の残りを素焼きすることにしました。前回と同じように、炭に火をつけて七輪に入れました。そして、火がついた炭の上に土器を入れました。ところが、焼いている途中に三回の破裂音が出ました。火を消すと、やはり厚手の人型土製品が壊れていました。厚手の土製品はゆっくり焼かないとダメのようです。
炭を火をつける 炭の上に土器 焼けた土器を取り出す
心配した土琴はちゃんと焼けていましたが、だいぶ縮んでいました。そのためか、叩いても良い音が出ませんでした。縮んだ後の長さを考慮して作る必要があるようです。残りの小物はどれもちゃんと焼けていました。続いて、釉を塗った土器を焼くことにしました。
焼きあがった土器など、2割位縮小か
千歳橋からさらに島田川の河口に向かってしばらく歩くと新千歳橋に着きます。江戸時代は千歳橋が一番河口側の橋だったのでしようが、今は新千歳橋が一番河口側です。その新千歳橋左岸の河口側数mの場所に立石孫一郎の石碑が建っています。彼は幕末、第二奇兵隊を脱走したのです。
新千歳橋左岸の河口側に建つ立石孫一郎石碑
彼は元々は岡山県出身のようで、どういう経由か第二奇兵隊に入隊しました。岡山県に何らかの遺恨があったのか、又は水戸藩天狗党や戸津川村天誅組に誘発されたのか、岡山県の代官所を襲いました。しかし、脱走時に第二奇兵隊の上司であり参謀であった楢崎剛十郎を惨殺してしまいました。岡山から戻った所を千歳橋で待ち伏せされました。当時の奇兵隊は、隊員に軍規を守らせるのが大変だったようです。
幕府側で京都の治安を任されていた新選組も規律は絶対でした。そのため、規律を守らない隊員は同志でもあっても即座に切腹か斬首など過酷でした。第二奇兵隊も新選組ほどではないにしても、駐屯地であった石城山に刑場がありました。
島田川河口の住吉社 周防灘を眺める 河口から上流を見て
第二奇兵隊は血気ばやる若者が多かったようで様々な事件を起こしています。立石孫一郎の脱走前にも、未遂の脱走事件がありました。この事件は隊員の説得で収まったようです。戊辰戦争後、今度は脱退事件がありました。平生町などでも騒動がありました。これらの事件に関わった若者の多くが斬首されました。田布施川にもその刑場がありました。その刑場近くにお地蔵様が安置されています。
波と風の音だけが聞こえる穏やかな海岸
島田川河口近くにある住吉社をお参りした後、島田川河口に出ました。河口の右岸側は広々として砂浜が続いていました。その砂浜を歩いて、はるか向こうに見える虹ケ浜に向かって歩きました。虹ケ浜は夏場海水浴客でごった返しますが、今の時期は波の音だけが聞こえる静かな海岸でした。
喫茶店に入って疲れを癒す JR光駅から電車でJR田布施駅に
虹ケ浜に着くと、松林に入りました。そして、JR光駅に向かってのんびりと歩きました。途中喫茶店に入ってなごみました。私はアイスコーヒーとアイスクリームを頼みました。40分位談笑したでしょうか。休憩が終わるとJR光駅に行き、電車でJR田布施駅に戻りました。下見、お疲れ様でした。
島田駅から島田川沿いにウォーキングした下見コース
数年前から、田布施町各地のお祭りなどを調査し記録しています。去年の第2日曜日、城南の石の口八幡宮夏祭り調査のため神幸に同行しました。今年は高松八幡宮の夏祭り調査のため神幸に同行しようと思います。ただし、神幸の開始時刻は朝7:30です。終了時刻は20:00頃です。そのため、長時間にわたって神幸に同行するのは、夏でしかも梅雨の時期のため大変です。今回、神幸が行く御旅所を下見として訪ねてみました。下見とは言え疲れました。
夏祭りの準備が整う高松八幡宮
まずは、神幸がスタートする高松八幡宮に行きました。たまたま宮司さんがおられたため、夏祭り当日神幸に同行することをご了解いただきました。ありがとうございました。総代さんには夏祭り当日ご挨拶しようと思います。夏祭り当日、高松八幡宮を出た神幸は麻郷と麻里府のほぼすべてを回ります。途中、福祉会館でお昼休憩、麻郷公民館が夕方休憩があります。延々と12時間近く続く神幸です。
麻郷鳥越近くのお知らせ掲示板 麻里府中郷の御旅所
高松八幡宮の夏祭り当日は、田布施町のクリーン作戦日です。クリーン作戦に出ると夏祭りの神幸スタートに間に合いません。そのため、周りの草刈りを早めに済ませて、申し訳なくも夏祭り神幸調査の方に出ることにしました。今回の夏祭り神幸を記録として残しますが、100年後の高松八幡宮の夏祭りはどう変わっているでしょうか。軽トラックなど無かった100年前の夏祭り、記録によると今とはずいぶん違っていました。
今回下見として走り回った高松八幡宮夏祭り神幸ルート約30km
苗を作っていた雑穀(ヒエ,シコクビエ)を畑に移植しました。移植した時期がやや遅れたため、シコクビエは小さな穂が出かけていました。また、ヒエは移植するにしては葉が大きくなり過ぎていたため葉を切りました。これらの雑穀は、今のところ主食するほど多く栽培していません。来年か、その次の年に大量に栽培して調理して食べてみたいと思っています。
移植した雑穀 葉先を取ったヒエ 育つサトウモロコシ
ヒエとシコクビエは苗を取って移植しましたが、毎年栽培するサトウモロコシは直接畝に種を蒔いたため、移植し直しことはしませんでした。間引きして苗と苗の間隔を調整しました。間引いた苗は、郷土館かどこかに移植してみようかと思っています。サトウモロコシは茎が甘いので夏のちょっとした飲み物に最適です。とは言え、口が切れないように茎をかじるには工夫が必要です。
移植したヒエ 移植したシコクビエ
私が育てている雑穀の中で、アマランサスが一大きく番育っています。また、穂が出ておりもう少しすれば種が収穫できそうです。アマランサスの種は極小のため、これまた極細の網を使って選別します。この種はポップコーンのように熱するとはじけます。はじけた後、みそ汁などに入れるとおいしく食べることができます。
大きく育って赤い穂が出てきたアマランサス
岡の宮稲荷神社は山の上にあり、急な坂道を登らなければなりません。また道が輻輳するため、本番のウォーキングでは歩かないことにしました。いったんその坂を降りて、島田三尊種子板碑に行くことにしました。平生町の板碑は山の中腹にありますが、ここの板碑は道端にあります。遠目にはただの石柱にしか見えませんが、表面刻まれた模様や梵字から板碑であることが分かります。
岡の宮稲荷神社横の大師堂 島田三尊種子板碑 静かな島田中学校
板碑を見終わると、島田中学校横の道を歩いて中島田コミュニティーセンターに行きました。ドアを開けて中に入りましたが、屋内には誰もいませんでした。トイレをお借りして広場でお昼休憩にしました。その後、島田川に出て左岸側の道をてくてく歩きました。歩いている途中、原下自治会の花壇横を通りました。
中島田コミュニティーセンター 原下自治会の花壇 見事な樹勢
この原下自治会が管理している花壇は、光市の花壇コンクールで最優秀とのこと。色とりどりの花が綺麗に配置されていました。一番の見ものは、花壇傍で育てられている巨大なカボチャです。とても巨大なため、持ち上げて移動している時に壊れてしまうことがあるそうです。鑑賞用のカボチャであるため、美味しくないそうです。でも、どんな味か一口食べてみたいのです。
花壇傍で育てられている巨大なカボチャ
巨大なカボチャを見終わると、線路下をくぐってしばらく歩きました。そして、ここまでくると、島田川の川幅は100m以上になります。干潮のためか流れている水が少なく、せっかくなのでへいせい橋から川に降りてみました。そして、川底の砂浜を歩いてみました。川から上がると千歳橋の傍にあるお地蔵様を見学しました。
へいせい橋から島田川に降りる 千歳橋袂のお地蔵様
ちなみに千歳橋は幕末期、第二奇兵隊を脱走して今の岡山県にあった代官所を襲った立石孫一郎がこの橋で暗殺されました。当時は木造の橋だったのではないかと思います。暗殺に気が付いて切りあいの末、橋から飛び降りて逃げようとしました。しかし、落下時の負傷などが致命傷になって殺されたそうです。次に向かう、新千歳橋袂に彼の慰霊碑が建てられています。
島田駅から島田川沿いにウォーキングした下見コース
春に種まきをして育てていた紅花、花を咲かせ始めましたが小さな花ばかりです。私が東京にいたころ、ある作業所で紅花の花摘み作業をしたことがあります。もっと花が大きかったように思います。そもそも初めての栽培なので、気候が合わなかったのか,土地が合わなかったのか,あるいは肥料が少なかったのかも知れません。
ようやく花が咲き始めた紅花、黄色がとても綺麗
私が紅花を初めて触った時、花(がく)にとげがあったことを覚えています。そのため、軍手か皮手袋で花をむしったように思います。今回収穫した紅花の花びらはとても小さかったのですが、硬いとげはちゃんとありました。紅花は秋に種をまくと株が大きくなるとのこと。秋にも種まきしようと思います。すべてが初めての紅花栽培です。
少ししおれた紅花の花 収穫した微量の花びら
草刈機や鎌などを持ってサツマイモ畑に行きました。梅雨の間に草刈りをさぼっていたら、雑草が生い茂っていたのです。さらに茂って手遅れにならように雑草を刈り取りました。サツマイモもこの頃になるとだいぶ蔓が伸びてきました。その蔓を片側に寄せて雑草を刈り取りました。そして、今度は反対側に蔓を寄せて同じように雑草を刈り取りました。刈り取り終わると、蔓全体に日が当たるように蔓直しをしました。
蔓を片側に寄せて除草 左右の除草をした後に蔓直し
伸びたサツマイモの蔓を10本選んで切り取りました。そして、その蔓を先日掘ったジャガイモ跡に植え付けしました。ちゃんと根が着けば、秋にはサツマイモが収穫できると思います。今の時期、サツマイモ蔓はもう園芸店では売っていません。私は、このようにして春に植え付けたサツマイモから蔓を切り取って植え付けます。
切り取ったサツマイモの蔓 サツマイモの蔓を植え付け
作業していると汗が滝のように流れてきます。時々木陰で休憩しながらペットボトルに入れてきた水を飲みました。今回、除草,蔓直し,蔓を植え付けしたサツマイモは、秋の麻郷公民館祭りの一週間位前に芋を100個ほど収穫します。芋は、お祭り当日に焼芋にされて販売されます。私は毎年仕事でお祭りに参加できないのですが、今年も友達に頼んで二,三個の焼芋を買う予定でいます。今年も美味しいサツマイモが収穫できるでしょうか。
除草,蔓直し,蔓を植え付けしたサツマイモ畑
先日田布施町の陶土を使って、土器,箸置き,ミニ動物などを制作しました。そして、焼いてみました。失敗もありましたが成功もありました。できた器をはじいてみると意外にいい音が出ました。せっかくなので、陶土で風鈴や土琴ができないか試作することにしました。
陶土を既定の厚さに 音階に合わせてカット 糸でぶら下げる穴
土製の風鈴はどこかで見たことがありますが、土製の土琴は見たことがありません。木琴や鉄琴はありふれた楽器ですが、土琴はそもそも世の中にあるのでしょうか。陶土は乾燥したり焼くと体積が変わります。そして、いったん焼くと調律ができません。さらに、強く叩くと壊れてしまいます。つまり楽器として成り立ちません。同じような理由で、石琴も聞いたことがありません。
左から「ド」「レ」「ミ」と鳴るはず?の土琴
音の高さは、音を出す物体の固有振動数と関係があります。そして、その固有振動数は物体の長さなどと関係します。土琴を作ろうとすると、厚みや幅を同じにして、音程に合った長さの土器を作ればよいことになります。実際、木琴や鉄琴は音階に合わせた長さの木片や金属片が並んでいます。今回、音階に合わせた長さの土片を作ってみることにしました。
音階に合わせて型取り 音階ごとに土を切り出す
土器は手で持つと音が出にくくなります。そのため、上部に穴を開けて紐で吊るせるようにしました。土は乾燥したり焼いたりすると、長さや体積が変化します。そのため、ちゃんとした音階は出ないと思います。今回の試作でうまく音さえ出るようならば、今後縮む体積や長さを予測して作れば良いのではないかと思っています。さて、うまく音階が出るでしょうか。それとも無謀だったでしょうか。ついで土風鈴も作ってみました。吊るせる小さな穴を開けておきました。さて、どうなることやら。
乾燥中の土琴や土風鈴など