山のcafe Marutaでの休憩が終わると、次の景勝地に行きました。漢陽寺です。徳佐方面にはこれまで行ったことがないので、漢陽寺に行ったのは初めてです。紅葉の時期でしたので、漢陽寺のモミジが燃えるように映えていました。空は真っ青、モミジは真っ赤!一番良いシーズンに来たものだと思いました。モミジで有名なお寺なのでしょう。
真っ青な空と漢陽寺の門 漢陽寺に植えられたモミジ
漢陽寺の駐車場に車を停めると、お寺の周りに植えられたモミジが見ごろでした。モミジを見ながら門を入りました。この寺は建物や庭がとても良く手入れされていました。近年経営が困難なお寺が少なくありません。これだけ綺麗に手入れするためには相当かかると思います。経営が健全なのではないでしょうか。門徒が多いか多角経営に成功しているに違いありません。
屋根も綺麗に手入れされている漢陽寺の本堂
このお寺で一番感心したのは、お寺の内と外を水が流れていることです。裏山の洞穴から出た水が、いくつか分かれた水路を流れているのです。その一部の流れが、庭の池として流されています。流れる水を見ているだけで、気持ちが洗われるような気がします。不思議なのは、勢いのある流れなのに音がしないのです。静かに流れるように設計してあるようです。
漢陽寺の白砂の庭 白砂の間を水が流れる
一年ほど前に京都に行きました。京都で見た南禅寺の門を小さくしたものが、漢陽寺の門のように思えました。京都の大工が山口県に来て作ったか、同じような設計図を基に建てたのではないかと思います。室町時代に山口県を領国にしていた大内氏時代、京都を模して山口市の街並みが造られました。似ていても不思議ではありません。
漢陽寺内外の水路 もう一つの白砂の庭 落ち着いた屋内
長門峡終点からの帰り道(復路)、すでに日が傾き始めていました。そのため、往路時には谷底に日が当たっていたのに、復路時には谷底にあまり日が当たらなくっていました。また、復路時には太陽の位置が逆行となりました。そのため、逆光で紅葉が眩しいほどに見事でした。自然を撮る写真家にとって、長門峡は一日中歩き回りたい渓谷ではないかと思います。
なんとか日が当たる谷底 高島洞門の出口から見た渓谷
往路は2時間ほどかかりましたが、復路は1時間半ほどで長門峡始点の洗心橋に着き、続いて道の駅長門峡に着きました。道の駅では婆さんのお土産のために梨を購入しました。巨大な梨2包、中型の梨1籠を購入しました。もう少し時間があればすべての露店を見ることができたのですが、時間がなくできませんでした。道の駅の駐車場から出ると、徳佐方面に向かいました。
長門峡始点の洗心橋 道の駅で買物 お土産の梨を購入
徳佐方面の道路を走っていると、両サイドにリンゴ畑が続いていました。徳佐はリンゴの産地なのです。リンゴと言うと、青森などの東北地方を思い出します。私が子供の頃、青森リンゴと銘打ったオート三輪車が来ていました。昭和30年代の頃です。その三輪車にはリンゴが詰められた木箱がたくさん載っていました。緩衝材として籾殻が使われていたのを覚えていました。その籾殻に手を突っ込み、中に埋まったリンゴを取り出していました。
素晴らしい紅葉に囲まれた 山のcafe Maruta
徳佐の十字路を右折して、山のCafe Marutaに入りました。丸太を組み合わせて建てたログハウスを喫茶店に改装したお店です。屋内でも良かったのですが、周りは素晴らしい紅葉の林に囲まれています。その紅葉を鑑賞できる屋外で飲物などを注文しました。私はアイスコーヒーとロールケーキを頼みました。そして、周りの紅葉を鑑賞しつつ談笑し、長門峡往復ウォーキングで疲れた体を癒しました。
紅葉に囲まれた野外テーブル 頼んだ飲物とロールケーキ
今年の田布施町少年少女発明クラブ、嬉しいことにチャレンジコンテスト全国大会に出場することが決まりました。チャレンジコンテストとは、小学生版ロボコンのようなものでしょうか。11月25日、東京工業大学体育館で朝から行われます。田布施町が出場したのは10年ぶりのことです。一昨年・去年ときわどかったので、去年よりは力を入れて子供達を指導しました。その成果でしょうか、出場することができました。
保護者も参加して練習 スタート前の調整 ゴール後の練習
今回、郷土館の廊下をコースに見立てて本番さながらの練習しました。本番よりコースをわずかに難しく設定しました。また田布施を知ってもらう意味で、田布施町マークが入ったライム色のジャケットも用意しました。全員本番でもこのジャケットを着ます。今回の練習で、装飾が回転しなかったり、トナカイが跳ねなかったり、旋回がうまくいかなかったりと問題点がいくつか見つかりました。本番ではどうなることでしょう。
田布施マークの入ったライム色ジャケットを着て練習
9月末に球根を植えたサフランが咲き始めました。サフランの花は一見クロッカスの花に似ています。しかし、クロッカスが春に咲くのに対して、サフランは晩秋から冬にかけて花を咲かせます。また、クロッカスの雄しべと比べてとても赤く長いのが特長です。今回、このサフランの雄しべを染料にするため収穫しました。食品の染料としても使えますが、布の染料としても使えないかと考えての収穫です。
咲き始めたサフラン、逐次雄しべを取る
雄しべはとても小さいのため、収穫と言うよりも摘み取ると言った方がいいかも知れません。一つの花びらで三つ位の雄しべを取ることができます。真っ赤な雄しべをよく見ると、黄色の粒のような花粉が付いています。2割位のサフランが咲いています。今後次々に咲くので、逐次雄しべを取ろうと思います。
サフランの花と赤く長い雄しべ 摘み取った雄しべ3本
10年位前にもサフランの雄しべを収穫したことがあります。その雄しべを乾燥させた後、水の中に入れました。すると、赤い染料が溶けたのでしょうサーっと水が黄赤色になりました。紅花を溶かした色に似ています。水に溶けるので、紫外線などで退色するのかも知れません。サフランの雄しべは収穫量がとてもわずかなため、とても高価だと聞いています。収穫した雄しべを乾燥した後、どの程度染料として使えるのかテストしようと思っています。
今回収穫した、ほんのわずかな量のサフラン雄しべ
赤い鉄橋を過ぎるとすぐに、岩を掘りぬいた二つ目のトンネル北海洞門が現れました。その洞門を過ぎてしばらく歩くと、岩の間を滑り落ちる小さな滝がありました。白糸の滝とのこと。富士山麓の白糸の滝との間には雲泥の差があります。どうして白糸の滝と命名したのでしょうか。大雨時に岩のあちこちに滝が出現して白糸の滝の姿になるのかも知れません。
中から見た北海洞門 白糸の滝 渓谷を覆う紅葉
さらに歩くと、舐め床のような川が出てきました。ちょっとした流れる滑り台のような川です。その舐め床川をどんどん歩いていると建物が見えてきました。長門峡の終点に着いたようです。その終点には食べ物屋さんが並んでいました。その手前に「長門峡」と大きな金文字で書かれた石碑が置かれていました。もしかして、長門峡の本当の入口はこちらなのかも知れません。
舐め床のような水の流れと岩
10時に道の駅長門峡を歩き始めて、終点に着いたのが12時頃でした。あちこち眺めながら,写真を撮りながら,また何度も休憩しながら歩いたので、片道5.8kmにしては時間がかかりました。終点についてお腹がすいてきたため食事をすることにしました。歩き始めた頃、やたらお団子が食べたいと思っていました。そのお団子がまさに終点で売っていたのです。
終点の建物が見える 鮎の塩焼きとお団子 しし鍋を販売
売っていたお団子2串購入しました。ついでにその隣で売っていたしし鍋も購入しました。Nちゃんはおにぎりとしし鍋を、Eさんはお団子1串と鮎の塩焼きを購入しました。このお団子、おにぎり、しし鍋、鮎の塩焼きを購入時のハプニングについては、長門峡の話題が出るたびに話が盛り上がりそうです。
昼食にしたお団子2串としし鍋 苔むした長門峡の遊歩道
食事を済ませると、すぐに道の駅長門峡に戻りました。長門峡以外にも寄ってみることにしたため、急ぎ足で戻りました。ところで、長門峡そのものや遊歩道はとても良いので、観光地としてより品質を上げてリピーターを増やせることができれば、さらに良い長門峡になると思いました。
長門峡の往復路
今年も麻郷公民館祭りで販売する焼き芋用のサツマイモを収穫しました。一昨年は大豊作、去年は不作でした。今年はまあまあの出来で、焼き芋用100個を選別することができました。規格外の大きな芋、反対に小さな芋は各人が持ち帰って食べることにしました。
最初芋畑周辺を草刈り サツマイモの蔓を取る 綺麗になった芋畑
朝9時頃私が一番最初にサツマイモ畑に来ました。そして、草刈機を使って芋畑の周辺の雑草を刈り取りました。それが終わると、鎌でサツマイモの蔓を刈り取りました。蔓を刈っていると、Nちゃんがやって来ました。その後、二人でサツマイモの蔓を綺麗に取り除きました。次に、黒マルチを取り除いてからサツマイモの収穫を始めました。
たくさんのサツマイモが顔を出す 時々誤ってサツマイモを傷つける
サツマイモを収穫していると、Eさん姉妹など次々に助っ人が現れました。そして、4畝のサツマイモを次々に収穫して並べました。ざっとみて200個以上は収穫できたでしょうか。小さい芋、焼き芋にちょうど良い芋、大きすぎた芋、虫跡がある芋、サトイモも一株ありました。すべてのサツマイモを掘り上げると昼食休憩にしました。ビーフン、焼きそば、飲み物、干し柿、お菓子などをテーブルに並べて歓談しながら楽しく食べました。
サツマイモの収穫に来ていただいた方々
楽しい昼食が終わると、一時的に並べていたサツマイモを選り分けました。そして、焼き芋用に選んだ100個のサツマイモを袋に入れました。小さな芋、大きすぎた芋は各人が持って帰りました。私も持って帰りました。なお、枝豆も収穫しました。サツマイモの蔓の刈り取り、サツマイモの収穫、そして選別など、お手伝いしていただいた方々ありがとうございました。
このサツマイモ畑を含む綿畑,枝豆畑,藍畑は今月末までに綺麗に耕します。そして小麦の種を蒔く予定でいます。
サツマイモを大中小に選別中 焼き芋用に選んだサツマイモ
榧ヶ淵を過ぎると、それまでの浅い流れが深くそして速くなります。深くなっているのが分かるのは、水の色が濃くなるからです。おそらく深さは3m以上はあるのではないかと思います。その位の深さなら、飛び込んでも頭を打ちそうにありません。遊歩道から見えませんが、魚もいるのではないかと思います。岩の間に潜んでいるため見えないのでしょう。
紅葉が映える渓谷 水深が深い場所は濃い青 立ち休憩した鈴ヶ茶屋
渓谷の景観を楽しみながらどんどん歩いていると、建物が見えてきました。鈴ヶ茶屋です。休憩できるようにテーブルや椅子が並んでいました。そして、アユでしょうか、水槽内にたくさん泳いでいました。注文すれば食べることができそうです。また、ここには支流が流れ込んでいました。その支流に沿って上の方に山道が続いていました。この山道を通ってお店の資材を運んでいるのではないかと思います。
鈴ヶ茶屋の前に広がる、おだやかな流れと渓谷
鈴ヶ茶屋前の渓谷は、広々しており茶屋から渓谷側に降りることができます。岩ばかりの広場になっており、定期的に草を刈り取っているようです。鈴ヶ茶屋を過ぎてしばらく歩くと洞窟のようなトンネルが見えてきました。高島洞門です。言われや、どのようにして掘った洞門なのが記載してあると良いのですが。
鈴ヶ茶屋を背に歩き続ける 岩肌そのままの高島洞門
高島洞門を過ぎた頃から渓谷がさらに狭くなります。渓谷が狭くなると谷が深くなるため、遊歩道から川に降りることができません。この付近から小さな滝がたくさん現れるようになります。またこの付近の大岩は、大雨の濁流で小石などがしく当たるのでしょう、岩肌が丸くなっています。そして、小滝の音が渓谷をこだまのように響きます。
渓谷が狭くなり小さな滝も増え、滝の音が渓谷に響く
深い渓谷を下流に向かってどんどん進んでいると、渓谷を横切る赤い鉄橋が見えてきました。最初この鉄橋を渡って長門峡の終点に着くのかと思っていました。しかし、この鉄橋は別の遊歩道に向うための鉄橋だと分かりました。ただし、その別の遊歩道は土砂崩れか何かで遊歩禁止となっていました。
渓谷を覆う見事な紅葉 渓谷を渡る赤い鉄橋
鉄橋を渡ることはできますが、その向こう側の遊歩道を歩くことはできません。しかし、鉄橋の中央まで歩いて渓谷を見渡すことができます。真下を流れる川や両サイドの岩肌を間近に見ることができます。なお、人が渡ると橋が少し揺れます。この鉄橋を過ぎると長門峡の終点はもうすぐです。
長門峡の往復路
日曜日、山口県阿東町の長門峡に行ってきました。たまたまその日が空いていました。そんな数日前、Nちゃんからのお誘いの上、やはりその日が空いていたEさんと3人で行くことになりました。その他の方々は予定が入っているようでした。往路は、高速道路を使って長門峡がある阿東町に向かいました。快晴、絶好のウォーキング日和でした。
道の駅 長門峡に駐車 長門峡遊歩道入口 真っ赤なモミジ
日曜日のため混んでいるかと思っていたら、思いもかけず混雑はしていませんでした。道の駅 長門峡に到着すると、ラッキーなことに駐車スペースが1台分空いていました。体を軽くすると、すぐに長門峡遊歩道を歩き始めました。片道5.8kmの遊歩道です。そのコースを往復したので11.6km歩いたことになります。渓谷を下流に向かって歩きました。
深い渓谷と紅葉を楽しみながらウォーキング
歩き始めにある石碑に気が付きました。中原中也の石碑です。彼の詩が刻んでありました。しばらく歩くと、渓谷を鑑賞できる東屋が頭上にありました。そこから少しの距離に桜橋がありました。さらに行くと、渓谷が曲がった場所に、巨岩が階段のように見える榧ヶ淵を見下ろすことができました。
ハートに見える岩棚 紅葉に覆われた渓谷 遊歩道には手すり
遊歩道はもともとは、村と村とを結ぶ秘境の道だったのではないでしょうか。2ヵ所ほど岩をくりぬいたトンネルがありました。また、猟師などが行き来する細い道でもあったようです。遊歩道の数ヵ所に、炭焼き小屋か猟師が泊まったと思われる跡がありました。修行のための道でもあったのかも知れません。
巨岩が階段のように見える榧ヶ淵 深く清らかな渓谷の流れ
長門峡はもともとは長門耶馬渓と呼ばれ、大正年間に正式に長門峡と命名されたそうです。ちなみに、大分県の耶馬渓は最も有名な渓谷で、小学生時にF教頭先生から「青の洞門」の話を聞いたことでとても印象があります。長門峡は、歩き始めて終点まで次々に景勝が出てくるので飽きることがありません。
田布施町から阿東町長門峡までの往復路
時々小麦を製粉してパンなどにして食べています。使っている製粉機は、餅つきやみそ作り兼用の機械です。家庭用のため、市販されている小麦粉のような超微細粉にするには時間がかかります。また、製粉後に糠などを選別していない全粒粉のため、市販の小麦粉のように白くはありません。やや茶色の全粒粉です。今回、東田布施公民館からお願いされた小麦の製粉を始めました。
築70年位の農作業兼製粉小屋
預かった小麦は、プロ農家が作った小麦ではないようです。地元の有志の方々が作った小麦のようです。小麦を手に取って見ると、皮が取れていない麦、虫食い麦、未熟麦、雑草の種などのゴミが混じっていました。ただし、砂のような致命的なゴミは無いようでした。そのまま製粉すると、それらのゴミが混じってしまいます。唐箕で風選してゴミを取りました。それでもすべてのゴミは取り切れませんでした。
混じっていた雑草種や皮など 唐箕で風選してゴミを取る
製粉に入る前にいったん製粉機を分解しました。そして、湿らせた布で外側や内側を綺麗に拭き掃除しました。製粉機は、製粉するたびに掃除しなければなりません。特に春や夏、製粉機内に残った小麦粒や小麦粉に虫が湧くのです。すると、機械の内部が腐食したり錆が出ることがあるのです。
分解中の製粉機 回転する外臼と内臼 回転軸も掃除
麦の製粉はほとんどの場合、1度(1次製粉)ではできません。最初に荒く粉砕し、次により細かく粉砕し・・と繰り返して4度目か5度目にようやく粉になるのです。けっこう手間がかかるのです。また、家庭用の製粉機ですので何十kgの麦を1度で製粉できません。今回預かった小麦は30kg位でしょうか。10kg位ずつに分けて製粉しようと思います。そもそも30kgも入る受箱がありませんので。
製粉を開始した小麦、上のホッパーに入れると、右下に粉砕されて出る
製粉機に負荷をかけないように、10kg位の小麦を1次製粉してみました。1次製粉のため、小麦は粉ではなく粉砕された状態です。1次製粉が完了した頃夕方になり暗くなりました。2次、3次、4次製粉は明日か明後日しようと思います。4次製粉まで終われば、東公民館に持って行こうと思います。仕事などの合間をぬって、すべての小麦を4次製粉し終わるのは12月中頃になりそうです。
1次製粉(荒製粉)進行中 1次製粉の小麦
園芸店でタマネギの苗が出そろうようになりました。同時にソラマメや各種エンドウ豆の種も見かけるようになりました。畑でタマネギの苗を育ててていますが、この機会にタマネギの苗を植え付けることにしました。購入したタマネギ苗と育苗したタマネギ苗の両方を植え付けました。
タマネギの苗を植え付ける畝を耕耘 耕耘後、タマネギの畝を鞍型に整形
タマネギの苗を植え付ける前に、耕耘機などを使って苗を植え付ける畝を作りました。耕耘後、クワやレーキを使って畝を鞍型に整形しました。そして、その畝を穴あき黒マルチで覆いました。次にその黒マルチの両サイドを土で止めました。それが終わると、ようやくタマネギの苗を植えることができます。
黒マルチを畝に敷く 両サイドを土で止める タマネギ苗を植え付け
最初購入してきた苗を植え付けました。それが終わると、今度は苗床から苗を取ってきて植え付けました。育苗した苗は購入した苗より少し細かったのですが、春までには同じように育つと思います。植え付けが完了すると、根が活着するようにジョロで水をまきました。順調に育てば初夏には美味しいタマネギを収穫できると思います。タマネギは、根本が膨らみ始める頃に収穫して食べることもできます。
タマネギの苗を植え付け終わった畑、200本ほど植え付け
私が着く5~10分前、皆さんは嘉納山に着いたようです。ちょうど、山頂からの眺めを楽しんでいる時に私が着きました。田布施の我家を正午に出てから昼食を取っていませんでした。そのため、嘉納山に着くと簡単に昼食を取りました。飲物を車に置き忘れたため、恥ずかしながら水を分けていただきました。ありがとうございました。
嘉納山から東、久賀を見下ろして 嘉納山から西、平郡島を見下ろして
私が簡単に昼食を取り終わると、全員の集合写真を撮影しました。そして、すぐ近くの鉄塔まで行きました。この鉄塔から東へ1時間ばかり尾根を歩くと嵩山です。一方、南への尾根をやはり1時間ばかり歩くと源明山です。今回、下見と同様に嘉納山から文殊堂に戻りました。
ウォーキングに参加された方々、嘉納山山頂にて
鉄塔傍に鮮やかなマユミの実がなっていました。歩きながら周りの草木を見ていると、いろいろな秋の花や実に気が付きます。いったん嘉納山山頂に戻ると、元来た文殊堂への道を歩きました。今度はほとんどが下り坂のため楽に歩くことができます。ただし、深い杉林が続くので展望がないのだけは残念です。
鮮やかなマユミの実 下り坂を軽快に歩く 深い杉林の小道
今回歩いた周防大島の山道や尾根道は、幕末の大島戦争時に第二奇兵隊が何度となく往復した道の一つではないかと思います。第二奇兵隊の陣は小松方面にありました。幕府方に占領されたのは、今の久賀と橘です。そのため、地元の人しか知らない山道や尾根道を通って久賀と橘に戦いに行ったのではないでしょうか。戦いが終わると陣に戻り、次の朝また戦いに向かったのでしょう。私の母の祖母の祖母の息子がこの大島の戦いに参加したそうです。そのため、大島から大砲の音が聞こえてくるたびに、その祖母は「息子の事が心配でいけん。」と言っていたそうです。
嘉納山から戻る途中、西方面(ダムの方角)を見下ろして
嘉納山から40分位でしょうか、下っていると舗装された林道に着きました。立ったまま休憩すると、その林道をもくもくと歩きました。下見時と比べて紅葉が進んでいました。そして、台風の影響で道路にはたくさんの落ち葉が敷き詰められていました。風で無理やり飛ばされたのか緑の葉が少なくありませんでした。
林道で立ったまま休憩 道を流れる水を飛び越え 文殊堂に置いた車に到着
40分位林道を下っていると、文殊堂下に着きました。皆さんは文殊堂下の駐車場に車を停めていましたが、私は文殊堂に止めていました。そのため、石階段を登って文殊堂に直行しました。そして、皆さんが待っている文殊堂下駐車場に車で戻りました。そして、二人を乗せて周防大島を離れました。初めての周防大島ウォーキングでした。皆さんお疲れ様でした。次回は、平生町の佐賀地区をスタートして尾国地区までの山間や海辺をウォーキングします。
今回歩いた、周防大島の文殊堂~文殊山~嘉納山~林道
数ヶ月ぶりに、いつもの親しい仲間と平生町のとあるお店で会いました。そして、お酒や美味しい料理を味わいながら談笑しました。お酒論、教育論、政治論などさまざまな分野の話題を餌にして歓談しました。各人これまで生きてきた豊富な経験をもとに、一種の人生論についても談笑しました。お酒に美味しい肉料理、あっと言う間に時間が過ぎていきました。いつもながら、ありがとうございました。
平生町のとあるお店で談笑したいつもの仲間たち
ウォーキングしていると、実を収穫しない柿の木をよく見かけます。かつて柿は庶民のささやかな自給果実だったように思います。私が子供の頃、祖母の住む庭に美味しい柿がなる木がありました。祖母の家に行っては竹竿で柿を取っていました。当時はなかなかお菓子を買うことができなかったため、柿のような甘いものに目がなかったのです。近年柿を食べる人が少なくなったようです。誰も実を収穫しない柿の木を見ると、その木がとても寂しげに思えます。
今回収穫した我家の渋柿 左:渋柿,右:甘柿
我家の甘柿は残り少なくなりました。一方、渋柿は熟していないためまだたくさんあります。渋柿は熟してくるととカラスや小鳥に食べられます。よく見ると、渋柿一つが野鳥に食べられて形が崩れていました。このまま放置していると、みんな野鳥に食べられてしまいます。大切な渋柿です。食べられないように渋柿をすべて収穫しました。そして、干し柿(吊るし柿)にしました。
渋柿を枝ごと収穫 T型になるよう枝を加工 収穫したたくさんの渋柿
田布施町は瀬戸内海に面している暖かい地域です。そのため、干し柿づくりにはあまり適していないようです。東北地方や関東地方などと比べて、軒下で干し柿を作っている光景を見かけることがあまりありません。干し柿にするよりも、壺に渋柿を詰めてアルコールなどで脱渋して「ずくし」と呼ばれる柔らかいトロトロの柿を作るのでしょう。干し柿もできるのでしょうが、最近は温暖化のためかカビが生えたり腐ってしまうと聞きます。
なお、田布施町は江戸から明治にかけて大波野柿と呼ばれる干し柿を生産していたとの記録があります。かつては田布施町は干し柿の名産地だったのです。その柿の古木が大波野地区にまだ残っています。名産復活は無理でしょうか?
ピラーで渋柿の皮を剥ぐ ほぼ皮を剥ぎ終わった渋柿
干し柿を作る場合、乾燥しやすい軒下に吊るします。しかし、雨や霧が当たってカビが生えて腐るリスクがあります。今回、私は皮をむいた渋柿にアルコール度が高いお酒を噴霧して除菌しました。そして、吊るした後に表面が早く乾くように扇風機で風を送っています。東京にいる時、農場小屋でささやかに干し柿を作っていました。田布施で作るのは初めてです。美味しい干し柿ができるでしょうか。
除菌後、一つ一つ離して扇風機で乾燥中の渋柿
11月から12月中旬にかけて田布施町郷土館では「田布施町の幕末からの明治にかけて」展示会を開催します。これまで、その展示会の準備をしてきました。ハード面での大仕事は、郷土館の2階にあるガラスケースを展示会場である1階に降ろすことでした。外せるガラスなどを予め取り外しました。そして、一番大変な階段をゆっくりと降ろしました。役場の方に手伝っていただき無事降ろすことができました。ありがとうございました。
無事降ろすことができたガラスケース まず展示品の配置を検討
ガラスケースを降ろし終わると、次にソフト面での苦労がありました。今回は、幕末から明治時代にかけての年表を中心にした展示です。主な展示品は、偉人や史跡などの写真,幕末期に使われた銃弾,志士の一人の溜魂録,明治時代に使われた教科書などです。また、岸信介・佐藤栄作元総理が生まれ育った時代背景も分かります。それらの配置を考えあぐねました。
4m以上ある年表を中心に、田布施町の幕末から明治の歴史を展示
4m以上ある長い年表を幕末から明治にかけて見ていただきながら、田布施町の歴史,史跡,遺物などを学ぶことができます。なお「田布施町の幕末からの明治にかけて」に併設して、田布施地方史研究会50周年記念も展示しています。県及び町からいただいた表彰状と楯を展示しました。そして、田布施地方史研究会報200号記念誌も併せて展示及び販売します。今回展示の経験を元に、来年の「仮称:田布施町 明治百五十年の歩み」を大々的に考えていこうと思っています。
幕末期の偉人や史跡 明治期の教科書など 田布施地方史研究会展示
この月曜日、周防大島の文殊山をいつもの仲間達とウォーキングしました。なお、私は婆さんの通院日のため遅れて出発しました。通院が終わったのが正午でした。そのため、我家を出発したのが正午でした。皆さんがちょうど文殊山でお昼ご飯をべている頃に出発したことになります。正確な時刻は覚えていないのですが、12時半頃に周防大島の文殊堂に着きました。
駐車場に着いた皆さん 文殊堂に到着 文殊山への登り始め
当初バイクで行くつもりでしたが、1分でも早く着きたいため車で行きました。結果的に車は正解でした。皆さんは文殊堂下の広い駐車場に車を停めていましたが、私は文殊堂前に車を停めました。文殊堂に着いたその頃、皆さんが文殊山を出発したことをLINEで知りました。皆さんを追いかけるように文殊山に向かいました。
文殊山に向かってどんどん登っている皆さん
文殊堂から文殊山までずっと急こう配の登りです。わき目もふらず、休みもせずひたすら登り続けました。1度ゆっくり歩きながら休憩しました。1日前と比べて、道が硬くなっていたため登りやすかったです。文殊山に着いたのが13時頃だったでしょうか。ところで、文殊堂付近で1名の方が体調不良でリタイアされたとのことを後で知りました。
展望台を前に昼食中の皆さん 文殊山頂上の石柱前で昼食
文殊山に着くと、展望台の長椅子に座って少し休憩しました。しかし、休憩時にとんでもない失態を知りました。それは、せっかく直前に購入していた飲物を車に置き忘れてしまったことです。のどが渇いて唾がゼリーのように粘るのには困りました。その時、下見時に水道の蛇口があったことを思い出しました。蛇口をひねると水が出てきました。救われました。急いでその水を飲みました。
文殊山を出発する直前の笑顔の皆さん、この頃に私は文殊堂に到着か
水道の水を飲んでいる時、似たような状況に陥ったことがあった40年前のことを思い出しました。その時は、溝に溜まった濁り水を飲みました。文殊山で数分程度休憩したでしょうか。早く皆さんに追いつかなければと、すぐに嘉納山に向けて出立しました。文殊山と嘉納山の間は登り降りがいくつかあり、降りている時と平坦な道を歩いている時、歩きながら疲れを飛ばしました。そして、13時半過ぎだったでしょうか、嘉納山にいる皆さんにやっと追いつきました。こんなに速足で歩いたのは久しぶりのことです。
嘉納山に向かう皆さん あと0.4km位で嘉納山 嘉納山に到着した皆さん