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「個性を伸ばす教育」の先

2007年10月10日 | 読書
 「個性は、いいものか」と問われたら何と答えるだろう。

 現実にはそんな唐突な問い立てがあるわけもないのだろうが、多くの人は「いい」と口にするだろう。
 「個性的」という形容詞は、ユニークとか独創的という価値のある響きにつながっている。
 私たち現場の教員であっても、やや揶揄めいた言辞の場合もあるが、普通であれば「個性的」は肯定的な評価となるだろう。

 『いま私たちが考えるべきこと』(橋本治著 新潮文庫)の第11章は、このように見出しがつけられている。

 「個性」とは哀しいものである。

 橋本氏は次のようにも書いている。

 個性とは傷である。

 「一般的なものからはみ出したもの」という考えからすると、その表現は誤りとは言えない。
 「ブス」という言葉を例に文章が続いているのだが、まさしくその通りという論理が展開されている。

 「個性」に対して幻想を抱いていることを、ずばりと指摘されたような文章である。
 辞書的な意味はともかく、橋本氏の次の文に対しても確かに納得がいくではないか。

 人間の出合う個性とは、「自分とは違う質の他人が持っている、自分には理解できないへんな部分」である。

 「へんな」という箇所は、「りっばな」とか「秀でた」とはならない。そう言換えられる人を「個性的」とは普通言わないからだ。
 ここに一般性が「達成」するのか、「破綻」するのかの分かれ道があるようだ。

 何を言いたいのか。
 「個性を伸ばす教育」のことである。学校(文科省?)は一般性の設定を緩くすることによって、個性が育つような考えで進んでいる傾向があるが、一般性を強くすることによって「傷」が生じるわけだし、その破綻が個性となるわけだからどうしてもそこには矛盾が生じる。
 今進んでいる道は、結局差異は生じさせても個性には結びつかないということになる。

 どこまでも、ユルユルの道ではないか。
 そこで育った「差異化」を、橋本氏はこんなふうに斬りすてる。

 ただ「いい加減に育った結果のいびつ」ばかりが増える。