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自分の国の言語で語るということ

2007年10月20日 | 読書
 先週の研修会で、「中国の若者事情」と題した講演を聞いた。
 地元の高校教師を退職なさった先生が、2年間中国の河北大学大学院に客員教授として招かれ、日本語専攻の学生を教えられた。今年で任期を終えられたのでお話を聞こうということになったわけである。

 日本語を専攻する中国人学生の弁論大会のことが興味深かった。
 自由題で弁論する、つまりしっかりと日本語原稿を書き準備できる弁論の他に、その場で与えられる題について語り、その両方で審査されるということだ。
 大学院の学生の日本語のレベルがどの程度かわからないが、その課題弁論については一言、二言で口ごもってしまう学生もいたらしい。当然のことだろう。
 英語をはじめ外国語に関して全く駄目な自分でさえ、その難しさは想像できる。

 内田樹氏の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川文庫)の中にこんな文章がある。

英語で「それじゃ、日本の文化について語ろう」ということになったとき、こちらの口から出るのは、結局ストックフレーズなわけです。
 
 これは中国人もしかりであろう。課題弁論をうまくこなしたのは、おそらくストックフレーズを多く持っていた学生だと考えられる。そこにきっと個人の独自の主張は語れないのではないか。
 内田氏はこうも書いている。

英語で語るということは、英語話者たちの思考のマナーや生き方を承認し、それを受け容れるということなのです。
 
 これは日本語に置き換えても同様ではないか。仮に外国人学生から日本語による日本批判が出たとしても、それは日本批判をする日本語話者の論理の承認から出ている可能性が大きい気がする。
 ある言語で思考したり表現したりすることは、一面では考え方の枠組みが決まってしまうとも言える。

 「自分の英語があまりに滑らかだったのでびっくり」と記述している箇所があった。
 それは「まず怒鳴る」という場面だったそうである。自分が正しくて権利があって、相手に非があり義務があるというようなことを言う場合には、実にスムーズに語れる言語が、英語なのだという。
 感覚的ではあるが、米国映画のシーンを想像してみてもそうなのかもしれない。

 それと比べると、日本語はどうなるのか。
 日常的に表現しやすい感情や思考の言葉を集めてみれば、そのパターンが見えてくることは確かであろう。

 謝りか、説得か、迎合か…そんな言葉ばかり浮かんできてしまう。