すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

根の存在に気づく日まで

2007年10月26日 | 教育ノート
 見えないものを見ようとする心が本当に美しい時がある。少女らの作文に触発された。
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 先日、隣町より依頼されて「青少年の主張作文」の審査をする機会がありました。中学生の担当となり十数編に目を通しましたが、どれも力作揃いでした。
 中でも惹かれたのが、特選になったAさんの「祖父へ」、そして入選したSさんの「見えなかったもの」という作品でした。どちらも中学校3年の女子です。主張作文というと、交友関係、いじめ問題、福祉やボランティア、環境問題などが想像されますが、この両者はどちらも家族をテーマにしたものでした。

 Aさんは急逝した祖父との暮らしを思い起こし、成長するにつれ優しく接することができなくなった自分の言動を悔い、生きるという意味について考えていました。
 Sさんは遠方から秋田に嫁いできた母親から様々な思い出を聞き、たくましさや明るさ、そして家族を思う気持ちに感動し、自分の中に共通する心を芽生えさせていました。
 内容や文章のタッチは対照的な二つの作品でしたが、どちらにも瑞々しい感性が表われていました。読み終えてから、ふとこの二人を突き動かしたものは何だろうと考えさせられました。
                 
 独特の書と詩で著名な相田みつをさんは、多くの方が知っておられるでしょう。こんな作品があります。

 花を支える枝
 枝を支える幹
 幹を支える根
 根はみえねんだなあ


 これを植物でなく人間にたとえた時、目に見えない「根」とはいったい何だろうと考えるときがあります。
 人が生き、暮らしていることは、その親がいて、親にもまた親がいてそしてまた…というように命のつながりがあるから成り立ちます。そう考えると、親や祖先はまさしく根であるという言い方ができます。
 ふだんは意識しなくても、ある時ふと根の存在を思う…固い土、強い雨風等さまざまな歴史を抱え込みながら、今自分がここにいることを支えてくれているのだと理解するのです。

 二人の中学生は、まさしくその根の存在に気づいたのでした。
 子どもによってその気づきがいつ訪れるかは違いがあるでしょう。しかし家族や近隣の方々との暮らしの密度が濃ければ濃いほど、その機会に得るものは大きく深いと考えられます。
 幹を太くし、枝を伸ばし花を咲かせようと努める日々にあっても、根を思う気持ちを、まず私たち大人が失いたくないものです。
 それは知らず知らずのうちに子どもにも伝わっていくはずですから…
(11/1予定)
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