すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

表現を考え、高めていく現場

2007年10月29日 | 教育ノート
 喩えとしてではなく「身体で受けとめる」ということを強調したいと考えるのは、やはり便利さに対する危機感のようなものか。ひっきりなしに語ることで、身体能力を鈍らせないように…

------------
 縷述「つながる授業」27

 19日のセミナーで講師の京野先生が話した一つのエピソードが忘れられません。
 ある年の表現活動集会で、「その場での実際の活動と、それを撮影したビデオ映像」の差異について語ったことです。集会の場であまり良く見えなかったある学年の活動が、ビデオで視聴したらとても格好よく見えた…こういうことは実際にあるでしょう。もちろんその逆もよくあることです。
 それは何故でしょう。

 ビデオカメラの情報量はかなりのものです。私たちがその場で見聞きしたことを正確に伝えているはずですから、実際とそんなに違っていたら変ではないか、とも思います。
 授業研究などにおいてもビデオ映像の活用が図られていますし、発表練習のために子どもたちに見せて反省させるなど、有効に使っている方も多いはずです。何がそんなに問題なのか、という気もします。

 しかしもう少し突っ込んで考えると、やはり人間が受けとる情報量は、ビデオとは断然の差があることに気づきます。
それは「空気感」という漠然な言い方にも近いのですが、表現の場の環境に関わる受けとめの違いなのです。
例えば、広さや高さの感覚、窓からの光の入り具合、床の感触、それから例えば出番の待つ子の雰囲気さえ、指導者であれば感じ取っているはずです。表現者そのものを見ているときでも、カメラワーク的な見方ではなく、表情や身体の動き全体を視野に入れた受けとめ方をしているはずなのです。
 脳科学的に分析してもおそらくその量的な差は明らかではないでしょうか。

 それは、言うなれば指導者であるからこその見方、または子どもに寄り添うことを常としているからこその見え方とも言えます。受けとめようとする者が圧倒的な量に支えられて、初めて質の評価ができるということです。「現場」という重みはここにもあります。
 もちろん、ビデオ等の機器は存分に有効活用するべきでしょう。それを踏まえながら、今自分がフル回転して見聞きしたこと、心に感じたことを、一番に目の前の子どもたちに伝えることが、「表現」を考え、高めていく現場と呼べるのだと思います。
 発表会まであと数日。(現場に事件はつきものですが、それもまた表現です。)
(10/29)
-------------