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器からの妄想は…

2022年05月21日 | 雑記帳
 先日『人間の器』を読みながら、つらつらと思い浮かべた。いわゆる「器の大きい」人には、なりたくてなれるものでもないし、ほぼ青年期から壮年期で見通しがつくのではないかと予想する。自分がそう称されることはなかったし、これからも有り得ない。それにしても、人間の精神を入れ物に喩えるのは面白い。


 ただ、器とは容量の大小が決定的だったのは昔の話ではないか、と少しイチャモンをつけてみよう。まずは「」。丸や四角といった単純なものから様々に派生する。入れ口があり、溜まっていくという要素を満たせばいいわけだ。そして「」も無限に考えられる。いや、その前に器を作る「材質」が問題ではないか。


 金属製のがっちりしたもの、樹木で出来た素朴なもの、ガラスということもある。ゴム、シリコンなど最近の素材も考えられるか。もちろん、ここでイメージしているのは現実にある容器としての「器」だが、人間の精神の喩えとして、そろそろ大小だけでなく、多様な器を当てはめてもいい時代ではないかと妄想する。



 歴史上の著名な人物を勝手に当てはめれば、土を素材にした巨大な焼き物は西郷隆盛だ。ギラギラと光るスチール製の棘棘しい斬新な容器は織田信長、しっかり編み込まれたわら細工で柔軟な丸い形をした入れ物は小林一茶…受け入れる量よりも、どんなふうに入れてもらえるのか、最終的にどんな生き方に通ずるか。


 じゃあオマエは…と妄想を内に向けると、カバン好きで安物を結構持っているから、複数の袋を心に下げているイメージか(なんだそりゃ?)。あっ、もっと好きなのは焼き物だ。備前がいい。素焼き系が好みだ。飾らず人に接していくか…格好つけすぎだな、ぐい呑み程度のコレクターが。小っちゃいことだけは確かだ。