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不自由な顔で腑に落ちる

2023年03月31日 | 雑記帳
 吉田拓郎の「知識」という曲がある。『今はまだ人生を語らず』というアルバムに入っている。その発売は1974年だ。引退もあってか昨年末に復刻されていた。その歌詞に「自由を語るな、不自由な顔で」という一節がある。今どき「自由とは…」と声高に言う者は多くないだろうし、やはり昭和だなあと感じてしまう。


 「自由」は時代が変わっても頻出する語だ。そもそも明治期に翻訳されたことは有名であり(当然、古典文学にはない語だ)、それが脈々と活躍していることは下衆にいえば見栄えがいいし使い勝手が良い、組織の名づけ等にはぴったりだろう。それゆえ「自由とは何か」と青臭い質問は、今でも十分に通用しそうだ。


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 髪を伸ばしていた頃(笑)は、ただ漠然と「自由になりたい」と思っていただけのようだ。様々な事情を身に纏い膨らんでいっても、直接口にしないものの「自由」ということを求めていたのか。思うに例えば「自在」や「許容範囲」や「選択の幅」などと置き換えて表現してきたようだ。それが果たして自由だったのか。


 ウチダ教授は著書に「『日本には自由はない』と言っていいと思います」と書く。ここで語られる「自由」とはヨーロッパ的な意味、端的に言えば「周りを気にしない」ということだ。田舎者から見れば、某TVバラエティに出てくる都会の方々の服装など自由に見えるが、それは矮小化された自己アピールに過ぎない。


 そうかあ、自分も周りを気にして自由を言い替えてきたのか。しかし、教授は「日本には『その代わりになるもの』がある」と文を続ける。ヨーロッパ人は「自由」のうちに安らぐことを求め、「日本人は『調和』のうちに安らぐこと」を求めていると語る。髪が薄く乏しくなった今、あまりに腑に落ちる言葉だった。