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全てが手段という落とし穴

2018年11月24日 | 読書
 昔の有名な?笑い話にこんな母と子の会話があった。

(居間で寝そべりながらまんがを見てゲラゲラ笑っている息子を見て)
母「いつまでもそんなことしていないで、勉強しなさい」
子「勉強して、何になるんだよ」
母「決まっているじゃない、いい学校へ入れるわよ」
子「いい学校へ行って、何になるんだよ」
母「決まっているじゃない、いい会社へ入ることができるわよ」
子「いい会社へ入ったら、どうなるんだよ」
母「お金をいっぱいもらって、ラクできるから幸せでしょ」
子「だから、今 ラクしているんだよ」

 突っ込みどころ満載、現在の社会状況にはマッチしない会話かもしれないが、結構本質をとらえている。
 「目的と手段」ということについても考えさせてくれる。



 映画監督是枝裕和が「手段と目的」というエッセイで、新幹線移動と駅弁のことなどを書いているなかに、こんな一節がある。

Volume.131
 「最近、あらゆるものを『手段』としか考えなくなる傾向が顕著だなと思っているのだけれど、これはよっぽど意識的に抵抗しないと、いつのまにか生活の全てが手段になってしまいかねない。」

 一日の行動すべてが目的になることなど、現実には考えられないが、その逆に手段であることもない。
 端的にどちらに重きを置けばいいか考えると、それは目的の方かなという気がしてくる。

 「食事」を取り上げれば、空腹を満たす手段というより、美味しさを感じる目的のためにあった方がいい。
 「通勤」とは手段そのものに違いないのだが、その動きの中に別の目的、例えば音楽を楽しむ、定点観察行為を続けるなどがあってもいいはずだ。

 もちろん、そんな単純な区別や区分で人は暮らしていないだろう。
 ただ、全てが効率優先、スキマやアソビを少なくする傾向が進んでいく中では、「意識的に抵抗しないと」、心のカサカサ度も同時進行していくに違いない。

 目的の細分化や行為そのものを楽しむ極意など、もっと抵抗「手段」を考えてみよう。
 えっ、…考えること自体を楽しみながらね。

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