すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ウナギ教師、上れたか

2016年04月11日 | 教育ノート
1985.4~1991.3

 かなり以前のことであるが、上條晴夫氏(東北福祉大学)がいわゆる学級崩壊の現象が始まったのは85年くらいからと語ったことを覚えている。
 もちろん、まだ田舎の小学校で目立った動きはなかったように思う。]
 しかし、正確な年月は忘れたが、中学年の子どもと接したときに今までとは明らかに違う感じをうけたのが、この学校、仙道小に勤めていた時期だった。

 例えば、何か全体で活動する場でサボっている子に「やらないなら帰れ」ときつく叱っても「じゃあ帰る」というような表情や雰囲気を感じるようになった。
 今までだったら小学生からそんなイメージを受け取ることはなかったのに、と妙に記憶に残っている。

 子どもたちが変わりつつあることへ、その時の自分は意識的であったのか。
 五十代が近くなった頃から、時々その点についてぽっと思い出し、振り返ることがあった。


 さて、6年間もお世話になった学校。
 しかし担任したのは2学級のみだった。
 最初は5,6年の持ち上がり14名。
 その後、19名の3年生を持ち、その単級学年を卒業まで4年間も担任した。初任の学校で3年間持ち上がったときはさほど感じなかったが、4年目はさすがにきつかった。
 自分の短所や弱い部分がもろに反映されていくようで、それがつらいと思うこともあった。

 
 実践には一番力が入った時期だったことは確かだろう。
 サークル活動も軌道にのり、それ自体は忙しくあっても非常に楽しかった。
 ただ冷静に見れば、授業も学級経営も「攻め」の指導が中心になり、もう一つ俯瞰した見方もできなかった。
 それが、様々な面でボロが出たことにつながったのではないか。

 研究授業も率先してやったし、授業研究の仕方にビデオを取り入れたり、協議方法に新提案を入れてみたりした。
 教育技術の法則化運動に興味を持ち、その後授業づくりネットワーク運動に参加するなかで、インプットもアウトプットも量的に一番多かった
 今思うと、その頃の毎日が大きな財産となって、それ以降の教職の土台を作ったことは間違いない。

 それを前提と残してある資料を見ると、また感慨深いような気がする。

 学級通信の発行回数を見ても如実にわかる。

 1年目「雪標」71     2年目「雪標」71
 3年目「タッチ」101    4年目「タッチⅡ」129
 5年目「タッチⅢ」133  6年目「タッチⅣ」154

 仙道小に変わる前年度、三輪小で3年を受け持っていたときに「日刊通信」に挑戦し、200を超えたことがある。それはB5版で日記が中心だった。これをクリアできて「少しのんびりと」と格好つけた言い方をしながら、B4版で書き連ねてみた数である。

 中身については、次稿で。

イノシシ教師、うまく回れず

2016年04月09日 | 教育ノート
1982.4~1985.3

 初任校である軽井沢小から次の三輪小へ異動が決まったときに、かけられた言葉で忘れられないことが二つある。

 一つは同僚のある先輩から言われた。

 「死ぬなよ」

 これは冗談めいてはいるが、実はその数年前に同じ異動ルートをたどり自死した男性教員がいたという事実がもとになっている。

 もう一つは、祖母が涙を見せながらつぶやいた一言。

 「ナンデ、三輪サ、オマエガ行カネバイゲニャナヨ」
 (どうして、三輪へお前がいかなくてはいけないのか)

 私の住んでいる西馬音内地区と隣接する三輪地区が、昔ながらに対立する住民感情があり、当時はまだそれを引きずっている年寄りもいたということだ。

 新しく担任したのは、5年2組。たしか27名だったように記憶している。
 同じ町内とはいえ、山間部の子たちとは明らかに違っていて、それもかなり問題がある学年であることが、周囲に聞こえていた。

 名誉なことに(笑)それを受け持たせてもらうことになった。
 予想通りにエピソードには事欠かず、何度となく、様々な場で書た記憶がある。
 特に「心を通わせるために」と題して教育雑誌に執筆した、親を巻き込んだ女の子たちのトラブルが忘れられない。

 先日、一緒に退職した友人と語り合っていたとき、「一番つらかったことは何か」と家人に振られて、自分が真っ先に思い出したのは、その頃の夜の電話攻撃だった。
 それから数年以上、夜間電話に反応する過敏さが残ったことも確かだ。
 

 酷い不登校もあったし、限りなくネタがある生徒指導事案をさておき、教科実践としては何があったのかと振り返ってみる。

 異動初年度に三度目となる公開研究会に当たっていて、そこでは算数が割り当てられた。前任校から、いわゆる水道方式を中心に指導していて、ストーリー性を盛り込んだプリントづくりなど結構頑張った気がする。
 しかし、楽しさはあったが学力定着はどうなのか、いろいろと疑問も湧きだし、やや手詰まり感を覚えていた時期のような気がする。

 前任校では3年間日記指導を継続した。
 児童数が倍以上になると難しいと考えながら、それでも続けたいと思い、朝自習の時間を利用して毎日書かせた2年間だった。
 昨日のトピックを三つ挙げ、その中から一つについて詳しく書いていく。学力差が目立つ学級だったが、中学に行っても「書くこと」だけはすんなりと出来ると中学の先生に言われたこともある。
 まだ野口芳宏先生とは出合っていなかったが「歩くように、呼吸するように書けるようになろう」という先生の呼びかけに、ぴったりはまる素地があったようだ。

 体育学習の思い出は多い。
 陸上競技でのリレーや持久走指導、ドル平をつかった水泳、身体意識を大事にしたマットや跳び箱運動、さらに冬場のスキー…体育同志会の考え方に影響された点もあった。
 様々な技の習得や上達に関して、今考えても結構レベルが高かったと思う。

 そうした指導を続けるなかで、同年代の仲間たちとのサークル結成に動き「全員ができる」をキーワードに、月例会を開くに至った。
 職場の先輩や、親しい仲間たちから実践上の刺激を多く受け始めた時期だった。


 ハリネズミ教師のイメージはいつしか消えて…ところが今度はイノシシ的に、向かう矛先がある程度決まっているのだった。
 猛進に近かったかもしれない。方向転換もどこか直線的だった。
 それは教育実践においてもそうだったし、仕事をめぐっての職場のやり取りもそうだった。
 某校長と某教諭には、ずいぶんと盾突いた記憶がある。そんな自分を心配して夜に電話をくれる先輩教師もいた。

 今風に言うならば本当に「面倒」な奴そのもので、よく付き合ってくれたものだと感嘆する。

 しかしそのイノシシは、再び山へ追われることになった。

ハリネズミ教師、かなり小さめ

2016年04月07日 | 教育ノート
1979.4~1982.3(続)

 教諭として初めて発行した学級通信のタイトルは「青い空へ」。
 3年間持ち上がったので、最終は144号だった。平均週1というところか。
 私以外の担任は全部50代だったし、それほど通信活動には力が入っていないようで、週1回でも保護者の方々には驚かれ、喜んでもらった(と思う)。

 しかし、その中身たるや、読み返すのも辛いほどだ。
 ただ初年度から眺めていくと、その進歩はわかる。

 サイズはB4版で同一だが、一年目は縦にしたり、横にしたり、まったく一定感がない。それが2年目になると縦形で統一してある。
 内容も初年度はどこか思いつきのように雑多なものを入れているが、3年目になると統一感が出てきて、さらに無駄なスペースなどなく書き込まれている印象だ。

 読み手の評価を予想してみると、当初の10点から45点程度まではアップしているかもしれない。少なくとも、続けた成果はほんの少し表れたようだ。
 6年生の5月には「100号記念」と銘打って、7,8枚綴りでミニ文集的に作ってあった。
 そこで13名の子どもたち一人一人が祝福の文章を書いてくれたことも、読み返すと嬉しく思い返される。


 さて、その頃は学校の対外行事として各種大会が催され、その準備や練習?をしていくと体育の授業の大半が終わるという時代だった。
 一学期は学校の運動会以外にそれほどなかったが、二学期になると陸上競技、バスケットボール、体操と続く。そして三学期はスキー。平場の学校であれば、これに水泳も加わることだろう。
 その繰り返しに忙しくなるのが、高学年担任であった。

 6年生の時である。
 地区の陸上競技大会が終わると、ほどなく開催される郡市の大会があった。
 地区大会のように全員出場ではなく、入賞の可能性を持つ数人が参加する形となるのが常だった。

 「今年は、郡市大会に選手を出しません」
と校長に宣言して、取り組みを止めた。
 陸上競技に堪能な方もいらして、他の学年がどうだったか覚えていないが、とにかく自分の学級からは出さなかった。

 受け持った4年5年の2年間同じ子が続けて出場していた。入賞に手が届くか届かないか、ぎりぎりの線だったと思う。
 そうした子が出場する意義はいったいどういうことなのか。体験であるならば、もう十分ではないか。そのために事前練習に時間を割き、大会当日に学級を自習にして出かけることは、教員として本当にふさわしいのか…そうした考えに囚われてしまった自分がいた。

 その視野の偏狭さについては、程なく気づいた。
 これは大会の参加不参加という一つの選択ではなく、教育方針やトータルな学級経営に関わることであり、位置づけで語られるべき問題なのだ。
 しかしそれでもなお、あの時にそう思い、考えを曲げなかった自分に一分の魂のようなものを感じてしまう。

 このように断行した出来事が他にもあり、M校長、S教頭が去った後の1年間、新しい管理職二人にとっては、まさに目の上のタンコブ(懐かしい表現だ)のような教師に映ったに違いない。
 
 時代状況がよくわかるエピソードを挙げる。

 夏休みに、地区()ごとに行われる「親子海水浴」に、担当職員は同行しないように管理職に止められたが、それを無視して一緒に出掛けた。親と一緒に海の家で飲むのが楽しかった。

 卒業式をめぐって紛糾した職員会議後に、まだ組合員に入っていなかった自分が「何をやっているんだ、組合は」と毒舌めいたことも妙に記憶にある。
 
 まさに、ハリネズミ教師だったなあ。ただし、かなり小さめ。

学級会への取り組み、表と裏

2016年04月06日 | 教育ノート
1979.4~1982.3

 羽後町には当時、小学校が13(うち分校が2)、中学校が5つあった。
 単独の市町村では秋田市に次いで2番目という時もあったらしい。それだけの面積もあり、峠も多く交通不便だったという証左でもあろう。
 なかでも一番の僻地とされた学校、軽井沢小学校が初任地だった。僻地2級の小中併設校であり、3級の分校も抱えていた。


 そこで4年生の担任となり3年間を過ごすのだが、誰しもそうであるように初任地の思い出は限りなくあり、どこまでも書けそうな気がする。
  無能教師が少しは成長するマシな思い出を取り上げるとすれば、やはりそこで出会った管理職二人の影響は大きい。
 M校長、S教頭…今振り返っても度量の大きな方たちだった。

 エピソードはさておき、学習指導という面で語れば、中心はなんと特別活動、それも学級会活動だった。
 S教頭は特別活動の実践者だった。そのもとで2年次に公開研究会をすることになり、ずいぶんと学級会に関して時間を割いたように思う。

 「教師の出番をいかに少なくするか」が、当時の(今も?)学級会活動の評価、最大の観点とも言えよう。
 ということは、それまでの準備期間、あまりいい言葉ではないが、いかに「仕込む」かがポイントの一つにもなる。進行等のシナリオだけなら容易だが、要は「話し合い」の質なのだ。

 その意味では、議題選定や話し合う事項の絞り込みなど、結構熱心にやったのだと思う。
 公開当日の出来はあまり記憶にないが、「誰もここまでやれない」と知り合いの先輩教師に言われたこと、また翌年赴任した新校長が、ふだんの代表委員会を見て感嘆したことを考えると、かなりのレベルだったと予想される。

 いずれ、学級会を授業研究の対象としたことで、いかに準備、布石といったことが大事なのか意識できたのかもしれない。


 実は、この公開研究会に関してもう一つ忘れられない思い出がある。
 通常どこでもそうであると思うが、研究会一週間前に指導案が完成し、諸機関や町内の参加校に配られる。それが終わり、あとは当日の準備と心が高まっていた時期だったろう。たしか3日ほど前ではなかったか。

 6年生担任で教務主任をなさっていたA先生が、突然転任することになった。
 教頭への栄進であった。それは個人的に喜ぶべきことであろうが、町主催の研究会を目前に控え、当日の指導案も出来ている状態で、その人事は待たれないものなのか、という憤りを感じたことを覚えている。

 明日から着任するという講師の方が来校するなかで行われた突然の離任式。
 何も聞かされてない子どもたちの泣き声が響く体育館。顔に悔しさを滲ませたA先生。
 行政というのはここまで杓子定規なものか、ということをしみじみ感じた。

 公開当日、自分の5年生の授業より、隣の6年教室がひたすら自習で静まりかえっていた姿も目に焼き付いている。


 あっ、もう一つどうしても書いておきたいことがあった…明日に。

無能教師、春を待つ

2016年04月04日 | 教育ノート
1978.10~1979.3

 次の中学校での講師は、なんと教頭先生の病休代替ということであった。

 もちろん教頭職(当時は事務的なこともかなり請け負っていた)の替わりが務まるわけがなく、その分授業を担当せよということだった。
 受け持たせられたのは、たしか1年の国語、2年の理科Ⅱ分野(生物など)、それに女子の体育だったと思う。

 今だから書けるが、実は私には中学の免許がない。学生時代に実習に行き、あまりに酷かったので一日で辞め、その単位を取っていない過去がある。(後年、この学校が校内暴力で新聞を賑わしたことがあった)。
 それにしても、いかに半年間とはいえ無免許教師をよく採用した(たぶん臨時交付のような形だろうが)と、当時の大らかさ?が笑えてくる。


 さて、赴任した翌日だったか、一つの出来事があった。
 三年生の男子数名が、にやにやしながら「遊ぼうよ」などと近づいてきた。
 体育館に誘われ、ハンドボールをやろうと言う。
 シュート練習をするからキーパーをしてくれないかと、もろに何を意図しているか分かる展開だ。

 体育専門とか経験者なら身体で軽くいなせるが、そこまでの自信はない。しかし、持って生まれたこの口と顔つき(笑)で「ほおうっ、じゃ次はどうなるのかな」みたいに問いかけて、口を閉ざさせたように記憶している。
 かなりやんちゃな子たちではあったが、そこはやはり山間育ちというか、言い返せるだけの下地はなかったのだろう(今は結構な町の名士になっていたりする)。


 授業の思い出はかなり断片的であり、書き留めるにも値しない。
 ただ今回の整理で見つけた、一つの「詩集」がある。授業していた1年生31名に書かせた詩を集約した。
 その題名がなかなかユニークだ。

 ヒトツ・ノ・カチアル・ヒロイモノ・ヲ・シタ(1979.3 田代中1年)

 題材によって「風景Ⅰ」から「風景Ⅳ」と区切って構成した。
 自分は「殺風景なあとがき」と題して、短文を記している。
 初めて編集した文集に、こんなことを書いているのも、実に偉ぶっているとしか思えない。

 「何を書くか」「いかに書くか」「なぜ書くか」…これらの問いを、いつも自分自身につきつけることは大切だ。しかし、その前に立ち止まってばかりではいけない。書き進めていく中で、何かを発見していってほしい。

 この詩集を発刊したときに、先輩教師に言われた一言を今でも覚えている。

 「こんなふうに、文集を作ったことはとてもいい。しかし、駄目なことがある。…それは俺にくれなかったことだ。」

 これは冗談めくようにも聞こえるが、実は本質的なことだ。
 そこにあるのは、周囲など全く見えず、独りよがりで自己満足している若い教師の姿だ。

 ベテラン英語教師の研究授業を見て、協議で発言を求められ「授業にヤマがない」とオソロシイことを言ったのも、女子生徒から受験の悩みを訴えられ、理解するふりをしながら勉強の意義を説いたら「先生もそんなことを言うのか!」と顔を背けられたのも、この中学での経験だ。

 今思うと、まったく何も見えていない無能教師。

 その頃も単純に落ち込みはしたが、立ち直りも早かった。ある面で今は羨ましい。


 晩秋、二度目の採用試験結果を、ある先生が極秘情報として「県南のトップで通ったらしい」と教えてくれた。
 何も不安を持たずに、たぶん次の春を待っていたのだろう。

 生徒会誌に文章を求められて記したのが、孤高のフォークシンガー豊田勇造の言葉だった。
 卒業を祝う会でギター片手に歌ったのが、ロッドスチュアートの「Sailing」。

 やはり、怖いものがなかった、いや気づくレベルになかったというべきか、そんな頃だった。

カミナリ先生

2016年04月02日 | 教育ノート
1978.4~1978.9
 
 「カミナリ先生、さようなら!」

 半年の任期を終えた私に、K子やM子らが微笑みながら叫んだ声が忘れられない。
 まさしく、怒鳴ることが日常の講師生活だったに違いない。

 1978年の春に大学を卒業した。
 臨時講師として4月1日に赴任したのは、羽後町立上到米小学校。
 統合後の現在も残っている建物ではなく、唐松という地区にある旧校舎だった。

 当時、自宅のある西馬音内から田代地区に行くには真坂峠か七曲峠のどちらかを通るのが普通で、最初のひと月くらいは中古のフロンテで主に真坂峠経由で通った。
 ちなみに、その頃まだ仙道田代間の一部はじゃり道だった。
 たしか、その年度途中で全面舗装になったという記憶がある。


 2年生12人。担任が怪我のため入院しその代替ということで、期間は当初1年間という話であったが、途中からその先生が出たいということで半年に短縮されたのだった。

 とにもかくにも初めての教職であり、様々なことが新鮮であった。
 採用試験がある7月に、町の総合研究会が予定されていて、研究授業をしなければならず、事前の授業研究や準備などずいぶん忙しかったはずだが、あまり大変だった印象はない。

 研究会当日の体育の授業については、どこかに書いた気がするので省くが、今となってはとても楽しい印象として心にある。
 改めて思い起こすと、その日の題材である表現的な運動、それに集会での群読は、その後の自分の実践にも色濃くつながっている気がする。

 とにかくシンプルに「子どもに教える」ことに疑問を持たずに過ごせた期間だった。

 学級通信を「ガリ版」で書いた。タイトルはたしか「たんぽぽ」。そんなに数多くは書いていないと思う。残念ながら手元にはない。たぶん「小2教育技術」誌あたりを真似て書いたのだろう。おそらく赤面するような内容に違いない。


 山間部、小規模校という環境のなか、純真を絵に描いたような子どもたちを相手に幸せな時間(少なくとも自分は)を過ごした。

 しかし、子どもたちの評価は「カミナリ先生」だった。

 そうだろう。算数がわからない子を残して教えているとき「どうしてこんなことがわからないのか」と感情を高ぶらせていた、子どものことも教科のことも理解できていない日々だったのだから。

 そして、全く未熟な「カミナリ先生」であっても、教育が成り立つ時代、環境にあったのだと、今さらながらに思う。


 たしか9月30日の任期切れで、この後どうするかなあと考えていたところに、3日後に隣の中学校へ行けという連絡が入る。

 同学区内にある中学校。
 いやあ、田舎の純朴な中学生相手も楽しみだなあ、と思ったのではあったが…。

4月1日朝、雲一つなく

2016年04月01日 | 雑記帳
 肩書のない生活が始まった。別に気負っているつもりはないが、春休みに入ってすぐに整理を始めようとしたのは、どこか自分を追い立てているとも思える。ともあれ、夥しい本の山から教育関係だけは、なんとか整理、処分の目途がついた。友人と同僚の若い人たちに、教育書をもらっていただいたことも助かった。


 ところで、書籍とともに多いのが、実践資料や各種団体の冊子など。この機会にと思ったが、どうにも愛着がまだ残っていて捨てきれない。長く関わった二つの団体の紀要や文集はことさらだ。図書館や役所に保存されていないものもあると、勝手な理屈をつけて、再び書棚にしまい込んでしまった。(馬鹿者である)。


 実践集もため込んでいる。学級通信、指導案、サークルレポート、サークル冊子、そして個人冊子(そういえば1月に原稿起こしをした最終版は9割出来たが、そのあと2ヶ月そのままだ)など、これだけで2,3段分もある。ああ、愛おしい…と未練たっぷり。あらまあ、講師をしていた時代の文集や実習日誌まで出てきた。


 昔の文章を読み始めるとはまってしまう。結構面白いこと、鋭いことを書いていたりする。あっ…このブログも今日で閉じると潔くて格好よかったんだけれど、そんなふうに昔を懐かしんでもいいのかな。ということで不定期になるが、もう少しここで、懐古話を綴ろうと思う。青空なのに雲がぽつぽつと湧いてきた。