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学級会への取り組み、表と裏

2016年04月06日 | 教育ノート
1979.4~1982.3

 羽後町には当時、小学校が13(うち分校が2)、中学校が5つあった。
 単独の市町村では秋田市に次いで2番目という時もあったらしい。それだけの面積もあり、峠も多く交通不便だったという証左でもあろう。
 なかでも一番の僻地とされた学校、軽井沢小学校が初任地だった。僻地2級の小中併設校であり、3級の分校も抱えていた。


 そこで4年生の担任となり3年間を過ごすのだが、誰しもそうであるように初任地の思い出は限りなくあり、どこまでも書けそうな気がする。
  無能教師が少しは成長するマシな思い出を取り上げるとすれば、やはりそこで出会った管理職二人の影響は大きい。
 M校長、S教頭…今振り返っても度量の大きな方たちだった。

 エピソードはさておき、学習指導という面で語れば、中心はなんと特別活動、それも学級会活動だった。
 S教頭は特別活動の実践者だった。そのもとで2年次に公開研究会をすることになり、ずいぶんと学級会に関して時間を割いたように思う。

 「教師の出番をいかに少なくするか」が、当時の(今も?)学級会活動の評価、最大の観点とも言えよう。
 ということは、それまでの準備期間、あまりいい言葉ではないが、いかに「仕込む」かがポイントの一つにもなる。進行等のシナリオだけなら容易だが、要は「話し合い」の質なのだ。

 その意味では、議題選定や話し合う事項の絞り込みなど、結構熱心にやったのだと思う。
 公開当日の出来はあまり記憶にないが、「誰もここまでやれない」と知り合いの先輩教師に言われたこと、また翌年赴任した新校長が、ふだんの代表委員会を見て感嘆したことを考えると、かなりのレベルだったと予想される。

 いずれ、学級会を授業研究の対象としたことで、いかに準備、布石といったことが大事なのか意識できたのかもしれない。


 実は、この公開研究会に関してもう一つ忘れられない思い出がある。
 通常どこでもそうであると思うが、研究会一週間前に指導案が完成し、諸機関や町内の参加校に配られる。それが終わり、あとは当日の準備と心が高まっていた時期だったろう。たしか3日ほど前ではなかったか。

 6年生担任で教務主任をなさっていたA先生が、突然転任することになった。
 教頭への栄進であった。それは個人的に喜ぶべきことであろうが、町主催の研究会を目前に控え、当日の指導案も出来ている状態で、その人事は待たれないものなのか、という憤りを感じたことを覚えている。

 明日から着任するという講師の方が来校するなかで行われた突然の離任式。
 何も聞かされてない子どもたちの泣き声が響く体育館。顔に悔しさを滲ませたA先生。
 行政というのはここまで杓子定規なものか、ということをしみじみ感じた。

 公開当日、自分の5年生の授業より、隣の6年教室がひたすら自習で静まりかえっていた姿も目に焼き付いている。


 あっ、もう一つどうしても書いておきたいことがあった…明日に。