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イノシシ教師、うまく回れず

2016年04月09日 | 教育ノート
1982.4~1985.3

 初任校である軽井沢小から次の三輪小へ異動が決まったときに、かけられた言葉で忘れられないことが二つある。

 一つは同僚のある先輩から言われた。

 「死ぬなよ」

 これは冗談めいてはいるが、実はその数年前に同じ異動ルートをたどり自死した男性教員がいたという事実がもとになっている。

 もう一つは、祖母が涙を見せながらつぶやいた一言。

 「ナンデ、三輪サ、オマエガ行カネバイゲニャナヨ」
 (どうして、三輪へお前がいかなくてはいけないのか)

 私の住んでいる西馬音内地区と隣接する三輪地区が、昔ながらに対立する住民感情があり、当時はまだそれを引きずっている年寄りもいたということだ。

 新しく担任したのは、5年2組。たしか27名だったように記憶している。
 同じ町内とはいえ、山間部の子たちとは明らかに違っていて、それもかなり問題がある学年であることが、周囲に聞こえていた。

 名誉なことに(笑)それを受け持たせてもらうことになった。
 予想通りにエピソードには事欠かず、何度となく、様々な場で書た記憶がある。
 特に「心を通わせるために」と題して教育雑誌に執筆した、親を巻き込んだ女の子たちのトラブルが忘れられない。

 先日、一緒に退職した友人と語り合っていたとき、「一番つらかったことは何か」と家人に振られて、自分が真っ先に思い出したのは、その頃の夜の電話攻撃だった。
 それから数年以上、夜間電話に反応する過敏さが残ったことも確かだ。
 

 酷い不登校もあったし、限りなくネタがある生徒指導事案をさておき、教科実践としては何があったのかと振り返ってみる。

 異動初年度に三度目となる公開研究会に当たっていて、そこでは算数が割り当てられた。前任校から、いわゆる水道方式を中心に指導していて、ストーリー性を盛り込んだプリントづくりなど結構頑張った気がする。
 しかし、楽しさはあったが学力定着はどうなのか、いろいろと疑問も湧きだし、やや手詰まり感を覚えていた時期のような気がする。

 前任校では3年間日記指導を継続した。
 児童数が倍以上になると難しいと考えながら、それでも続けたいと思い、朝自習の時間を利用して毎日書かせた2年間だった。
 昨日のトピックを三つ挙げ、その中から一つについて詳しく書いていく。学力差が目立つ学級だったが、中学に行っても「書くこと」だけはすんなりと出来ると中学の先生に言われたこともある。
 まだ野口芳宏先生とは出合っていなかったが「歩くように、呼吸するように書けるようになろう」という先生の呼びかけに、ぴったりはまる素地があったようだ。

 体育学習の思い出は多い。
 陸上競技でのリレーや持久走指導、ドル平をつかった水泳、身体意識を大事にしたマットや跳び箱運動、さらに冬場のスキー…体育同志会の考え方に影響された点もあった。
 様々な技の習得や上達に関して、今考えても結構レベルが高かったと思う。

 そうした指導を続けるなかで、同年代の仲間たちとのサークル結成に動き「全員ができる」をキーワードに、月例会を開くに至った。
 職場の先輩や、親しい仲間たちから実践上の刺激を多く受け始めた時期だった。


 ハリネズミ教師のイメージはいつしか消えて…ところが今度はイノシシ的に、向かう矛先がある程度決まっているのだった。
 猛進に近かったかもしれない。方向転換もどこか直線的だった。
 それは教育実践においてもそうだったし、仕事をめぐっての職場のやり取りもそうだった。
 某校長と某教諭には、ずいぶんと盾突いた記憶がある。そんな自分を心配して夜に電話をくれる先輩教師もいた。

 今風に言うならば本当に「面倒」な奴そのもので、よく付き合ってくれたものだと感嘆する。

 しかしそのイノシシは、再び山へ追われることになった。