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ウナギ教師、蠢いている

2016年04月14日 | 教育ノート
1985.4~1991.3(続)

 「雪標」、我ながらなかなかいいタイトルをつけたと思う。
 この言葉は辞書にはない。
 今ネット検索しても、つけられた名称としてはあるが、認知されている熟語ではないようだ。
 新聞紙上で見かけた。雪国で道を見失わないために、道の端に差しておく小枝を意味する。

 この学級通信はB4の横版、上下2段構成という体裁をとっていた。
 内容面の特徴は二つ。

 一つは、子どもの日記をそのままコピーして載せたこと。
 紙面の半分を使って載せている号が数多くある。直筆だが高学年でもあったしなんとかなった。14名を順に載せていった。

 もう一つは、授業記録である。
 力を入れた国語科実践が主になるが、子どもの名前を登場させながら、日記風に書いてあった。
 これは明らかに当時続けて発刊された全国の実践家たちの通信集などを意識していたと言っていいだろう。

 この二つがあったからこそ、週2回ベースを維持できたと思う。

 次の4年間持ち上がり学級は、「タッチ」という名前で通した。
 週2から3までペースが上がった。通算すると500号を超えたことになる。
 ここでも授業日記的な内容は続けられている。
 ちょっと気取っていえば、それは修業的な場の一つだった。

 そして、大きなことは「自学」の登場である。
 岩下修先生の実践に影響を受けて、「チャレンジノート」という名称をつけ見開き2ページで毎日続けた。
 それをコピーして紹介することを取り入れ、授業そして学級づくりと連動させていった。
 その継続が仕事の大きな原動力だったことは間違いない。

 さてその自学ノート、19名ではあったが、朝に集めて帰りまで返すのは大変だった。
 しかし、その評価や処理自体も楽しみではあった。子どもたちの工夫にあふれた「学び」や、日記的文章に表れる「声」を読むことをルーティンにできた気がする。

 しかし、ある家庭から「夜遅くまでやっていてなかなか止めない」と聞き、ある意味で「自学地獄」かと思った記憶がある。
 いわゆる「はまった」状態で、誌面構成を仕上げていくように夢中になった子たちもいた。
 もちろん内容面は文句のないものだったが、このやり方がベストかと少し迷いも残った。

 数年前、その折の教え子の一人が訪ねてきてくれたとき「チャレンジノートは良かったあ。あれは忘れられない」と語った。
 私からみると、さほど熱心な男の子ではなかったが、そんなふうに述懐してくれたことでどこか救われた気持ちになった。

 ウナギ教師は、どこかへ上るだけでなく、ぬるぬると方向定まらず様々に蠢いていた感じだ。


 他のことで、ぽっと頭に思い浮かぶ、大変だったこと、嬉しかったこと、また時効?だから許されることなど記してみる。

 百周年記念式典の前日は大雨だった。
 二つの峠が土砂崩れで通れず、まだ未舗装の峠を冠水した道路を突っ切って帰宅した。
 さらに言い付けられて隣市へ明日使用するたれ幕を取りに行った。
 増水した川の水が撥ね上がってくる橋を、恐怖心を持ちながら渡ったことが忘れられない。

 その百周年記念の石碑に刻まれた文言に、自分の提案を採ってもらった。
 実に名誉なことだ。石碑だから、ずうっと残るんだろうなと思う。

 修学旅行の引率で、同行者とともに、宿舎に子どもたちを置いて周辺散歩(笑)に出掛けた。
 夜遅くに部屋に帰ってきたら、女児たちが押し入れに入っていて驚かそうとしていた。
 「先生、遅い!」と叱られた。今なら懲罰ものか!
 いい時代だ。

 書けそうなエピソードは数えきれない。
 自分が二人の娘の親になった年代でもあり、きっといろいろな機微を知り、少しずつ成長していた時期なのだろうと思う。

 もちろん、楽しいことだけでなく、少し悲しい出来事もあった。

 その一つを、次稿で…。