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カミナリ先生

2016年04月02日 | 教育ノート
1978.4~1978.9
 
 「カミナリ先生、さようなら!」

 半年の任期を終えた私に、K子やM子らが微笑みながら叫んだ声が忘れられない。
 まさしく、怒鳴ることが日常の講師生活だったに違いない。

 1978年の春に大学を卒業した。
 臨時講師として4月1日に赴任したのは、羽後町立上到米小学校。
 統合後の現在も残っている建物ではなく、唐松という地区にある旧校舎だった。

 当時、自宅のある西馬音内から田代地区に行くには真坂峠か七曲峠のどちらかを通るのが普通で、最初のひと月くらいは中古のフロンテで主に真坂峠経由で通った。
 ちなみに、その頃まだ仙道田代間の一部はじゃり道だった。
 たしか、その年度途中で全面舗装になったという記憶がある。


 2年生12人。担任が怪我のため入院しその代替ということで、期間は当初1年間という話であったが、途中からその先生が出たいということで半年に短縮されたのだった。

 とにもかくにも初めての教職であり、様々なことが新鮮であった。
 採用試験がある7月に、町の総合研究会が予定されていて、研究授業をしなければならず、事前の授業研究や準備などずいぶん忙しかったはずだが、あまり大変だった印象はない。

 研究会当日の体育の授業については、どこかに書いた気がするので省くが、今となってはとても楽しい印象として心にある。
 改めて思い起こすと、その日の題材である表現的な運動、それに集会での群読は、その後の自分の実践にも色濃くつながっている気がする。

 とにかくシンプルに「子どもに教える」ことに疑問を持たずに過ごせた期間だった。

 学級通信を「ガリ版」で書いた。タイトルはたしか「たんぽぽ」。そんなに数多くは書いていないと思う。残念ながら手元にはない。たぶん「小2教育技術」誌あたりを真似て書いたのだろう。おそらく赤面するような内容に違いない。


 山間部、小規模校という環境のなか、純真を絵に描いたような子どもたちを相手に幸せな時間(少なくとも自分は)を過ごした。

 しかし、子どもたちの評価は「カミナリ先生」だった。

 そうだろう。算数がわからない子を残して教えているとき「どうしてこんなことがわからないのか」と感情を高ぶらせていた、子どものことも教科のことも理解できていない日々だったのだから。

 そして、全く未熟な「カミナリ先生」であっても、教育が成り立つ時代、環境にあったのだと、今さらながらに思う。


 たしか9月30日の任期切れで、この後どうするかなあと考えていたところに、3日後に隣の中学校へ行けという連絡が入る。

 同学区内にある中学校。
 いやあ、田舎の純朴な中学生相手も楽しみだなあ、と思ったのではあったが…。