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ハリネズミ教師、かなり小さめ

2016年04月07日 | 教育ノート
1979.4~1982.3(続)

 教諭として初めて発行した学級通信のタイトルは「青い空へ」。
 3年間持ち上がったので、最終は144号だった。平均週1というところか。
 私以外の担任は全部50代だったし、それほど通信活動には力が入っていないようで、週1回でも保護者の方々には驚かれ、喜んでもらった(と思う)。

 しかし、その中身たるや、読み返すのも辛いほどだ。
 ただ初年度から眺めていくと、その進歩はわかる。

 サイズはB4版で同一だが、一年目は縦にしたり、横にしたり、まったく一定感がない。それが2年目になると縦形で統一してある。
 内容も初年度はどこか思いつきのように雑多なものを入れているが、3年目になると統一感が出てきて、さらに無駄なスペースなどなく書き込まれている印象だ。

 読み手の評価を予想してみると、当初の10点から45点程度まではアップしているかもしれない。少なくとも、続けた成果はほんの少し表れたようだ。
 6年生の5月には「100号記念」と銘打って、7,8枚綴りでミニ文集的に作ってあった。
 そこで13名の子どもたち一人一人が祝福の文章を書いてくれたことも、読み返すと嬉しく思い返される。


 さて、その頃は学校の対外行事として各種大会が催され、その準備や練習?をしていくと体育の授業の大半が終わるという時代だった。
 一学期は学校の運動会以外にそれほどなかったが、二学期になると陸上競技、バスケットボール、体操と続く。そして三学期はスキー。平場の学校であれば、これに水泳も加わることだろう。
 その繰り返しに忙しくなるのが、高学年担任であった。

 6年生の時である。
 地区の陸上競技大会が終わると、ほどなく開催される郡市の大会があった。
 地区大会のように全員出場ではなく、入賞の可能性を持つ数人が参加する形となるのが常だった。

 「今年は、郡市大会に選手を出しません」
と校長に宣言して、取り組みを止めた。
 陸上競技に堪能な方もいらして、他の学年がどうだったか覚えていないが、とにかく自分の学級からは出さなかった。

 受け持った4年5年の2年間同じ子が続けて出場していた。入賞に手が届くか届かないか、ぎりぎりの線だったと思う。
 そうした子が出場する意義はいったいどういうことなのか。体験であるならば、もう十分ではないか。そのために事前練習に時間を割き、大会当日に学級を自習にして出かけることは、教員として本当にふさわしいのか…そうした考えに囚われてしまった自分がいた。

 その視野の偏狭さについては、程なく気づいた。
 これは大会の参加不参加という一つの選択ではなく、教育方針やトータルな学級経営に関わることであり、位置づけで語られるべき問題なのだ。
 しかしそれでもなお、あの時にそう思い、考えを曲げなかった自分に一分の魂のようなものを感じてしまう。

 このように断行した出来事が他にもあり、M校長、S教頭が去った後の1年間、新しい管理職二人にとっては、まさに目の上のタンコブ(懐かしい表現だ)のような教師に映ったに違いない。
 
 時代状況がよくわかるエピソードを挙げる。

 夏休みに、地区()ごとに行われる「親子海水浴」に、担当職員は同行しないように管理職に止められたが、それを無視して一緒に出掛けた。親と一緒に海の家で飲むのが楽しかった。

 卒業式をめぐって紛糾した職員会議後に、まだ組合員に入っていなかった自分が「何をやっているんだ、組合は」と毒舌めいたことも妙に記憶にある。
 
 まさに、ハリネズミ教師だったなあ。ただし、かなり小さめ。