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ミツバチ教師、せっせと働く

2016年04月16日 | 教育ノート
1991.4~1994.3

 6年もごやっかいになった仙道小学校から移動したのは、同じ山間地にある上到米小学校だった。
 大学を卒業してすぐに講師として勤めた思い出の学校である。といっても、校舎は移転して建て替えられていた。
 
 この学校勤務は3年間だったが、今でもその年ごとに強いインパクトがあったことを思い出す。

 1年目、教師生活の中でもっとも楽しかった1年だなあと思う。

 2年目、教師生活の中でもっとも忙しかった1年だったことは間違いない。

 3年目、教師生活の中でもっとも多くの実践を発表した年だろう。


 赴任した年、初めて一年生担任を命ぜられた。小規模校で担任の中では一番年齢が高い(といっても36歳だった)ので、教務主任になったが、それはそれなりにこなした気がする。
 とにかく一年生9名との毎日は新鮮であり、面白かった。保護者との連絡帳でのやりとり、「トトロ」と名づけた通信の発行…充実感がみなぎっていた頃だ。


 次の年、訳あって自ら志願して複式学級を担任した。管理職の案は違っていてたが、校内事情を考えるとそうするのがベターだと押し切った(これも今考えると、ずいぶん生意気だ)。
 この複式学級、2,3年の9名+9名の18名であり、実は県教委が施策として解消する予定の人数だった。後日、校内操作でこの学年同士を組ませたことでお叱りをうけたらしい。

 授業についてはいろいろなことが思い出されるが、典型的なのはPTAの授業参観時に、ある母親が「見ていると疲れる」と語ったことが忘れられない。
 学習シート準備の毎日も大変だったが、国語、算数などとにかく神経を集中して臨まなければならない。体力、気力の消耗もあった。

 教務主任は2年目でだいぶ慣れてきたが、途中から産休する教員が出て、研究主任も兼任した。しかし「もっとも忙しかった」と結論づけられるのは、それらでなく、外部の研究団体の仕事。郡市国語研において全県大会当番でありその事務局をしなくてはならなかったことが大きい。
 大会前後は言うに及ばず、年間通しての会議の連続、諸調整…今でもよくやり切ったと思う。家人に「死なないでよ」と言われたことも覚えている。
 それでも、学級通信は複式学級にちなんで「ツイン」と名づけられ、それなりに100を超える号数を発行しているので、人間やればできると改めて思ったりもする。


 3年目、複式2年目で同学年の組み合わせで人数は15名に減った。外部団体の仕事もようやく落ち着いた。
 授業づくりネットワーク誌などから原稿依頼が来るようになって、ずいぶんと書いた。

 当時、盛んに叫ばれていた「音声言語指導」を年間のテーマに複式で合同学習指導などにも取り組み始めた。その計画や資料等で県のある団体から助成金をもらったりして、新聞に顔写真が載るなどという名誉なこともあった。
 その実践を多く綴った学級通信「わ」は、今まで続けて書いてきた様々な通信のエッセンスを盛り込んだ出来になっている。


 もはや若手とは言われなくなり、自分のこと以外にも目がいくようになった。
 上の娘も小学校入学し、親としても様々な情報にしっかり向き合う必要を感じていた。

 3年を過ごし次に待っていたのは、娘のいる学校つまりは自分の母校への転任だった。
 そして、まだ30代なのに担任を外れるという大きな節に直面することになった。


 さて、これ以降は「懐古」と呼んでいいか疑問だし、未消化な点も多く、他の方々の迷惑になると心苦しいので、ひとまず連載(笑)は休止します。