すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「備え」に魅入られた人

2019年04月08日 | 読書
備えあれば憂いなし」…この金言を疑ったことはなかった。
何年か前の書初めに「備」の一字を書いたこともある。

 しかし、先月中頃糸井重里が、「今日のダーリン」に以下のような文章を書いていて、ずっと気になっていたし、まさに自分に向けられているように感じた。


Volume.158
 どれだけ「備え」ていたとしても、いや、
 備えれば備えるほど「憂い」は増すのではないだろうか。
 備えるとは、だいたい、なにをしたくて備えるのか。
 どういう災いに合わぬように備えるものなのか。
 「備え」というものに魅入られてしまった人は、
 もう、備えるために備えるになっていたりもする。



 老後に備えて貯蓄する、病気や怪我があった場合に備えて保険を掛ける…どちらもごく一般的である。
 こうした行為にケチをつける気はないし、自分であっても多少はその意識はある。

 ただ、こうした「備え」が果たす役割がなんのためなのか、もう一歩突っ込まないといけない。
 つまりは、欲したい時間や健康などをどう使いたいかという点が明確でないと、あまり意味をなさないだろう。


 もう少し日常的な範囲に目を移せば、ある仕事に関して細かく計画立てていく場合にも当てはまる気がする。
 「こうなったら、この手を」「もしこちらであれば、このやり方で」と柔軟に対応できることは、大切だろう。
 また緻密に計画立て、備えておくことが、将来的な力量形成に役立つ場合もある。

 ただ、備えなければ不安だ、という感情にとらわれたり、備えていなかったから失敗した、とマイナス経験に数えたりする危険性もあるように思う。
 目先のかわし方だけに心身が偏る場合もある。


 スマートにいえば、「リスクヘッジ」は必要だが、それは拡大することではなく精選することによって、覚悟が決まる。

 備えなど覚悟ない者の気休めだ!

と言ってみたい(笑)

幾たびも、残酷人生論

2019年04月07日 | 読書
 だいぶヨレヨレになってきた。風呂場読書も多いので仕方あるまい。そのカバーに印刷してあるキャッチフレーズは、こう始まっている。「あなたは まだ知らないのか? 2010年代を生き抜くヒント。」…知らないから、何度も読んでいる。昨年はなんと読了1だった。「わからない」まま、10年代最後の年となった。


2019読了35
 『残酷人生論』(池田晶子  毎日新聞社)



 それでも今回は、今さらながらにストンと落ちたことが二つはある。一つは「情報は知識ではない」こと。根本的な違いは「外から与えられる」か「自ら考えて知る」にある。情報化社会と言われ久しいが、知的な生き方を求めるならば、気づくはずである。いくら情報を持っていても、人間性は変わりようがないことを。


 「考える」…そのことだけが、流通する情報を内部化し、知識を普遍的なものとして捉えられる。情報とは「生活と生存のため」にあり、最終的に損得で選ばれる。しかし、知識とは「知ること自体が価値である」。時々、価値ある情報などと言ってしまう時があるが、それは損得のことであり人生の価値とは言えない


 もう一つ。愛憎という熟語に示されるように、「愛」の反対は憎しみという説もあるが、本質的には「無視」であろう。その点が明確になったと思う。それは何故「わからない」のに、この本を読み続けようとしているから考えたからだ。つまり「わかりたい」「わかろう」としている。これは別の言葉にすれば「」だ。


 第一章の見出しは「『わかる』力は、愛である」。何度目かで今気づく。人に対する接し方一つとっても、関わろうとするか無視するか、方向性の違いが全てを決める。「わからないものをわかろう。自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、ほかでもない、愛である」。愛を発揮する場は、日常にある。

あの余震ある4月に語った

2019年04月06日 | 教育ノート
 今学校では始業式が済み、担任の先生方はそれぞれの構えを持ちながら、来週からの本格的な学習開始に備えていることだろう。

 先週にまたぞろPCデータ整理を行って、つい懐かしい気持ちで開いた資料があった。
 スタートの4/1に研修を入れてほしいと教頭や教務主任にお願いして語ったことの下書きがあった。
 あの震災の年の4月である。

 もはや時代に合わないかもしれないが、どこかブレてはいけない点でもあると信じている。


・・・2011.4.1 「学級経営案」作成にあたって・・・

 なぜ学級経営案が必要か。ふだんあまり考えてはいないことでしょうが、この機会に確かめてみたいと思います。私たちには学習指導要領をはじめ、定められたものがあるのに、なぜ個別に経営案などというものを書かなければならないのか。

 当然のことながら、第一の要素は、「子どもがちがう」からということです。地域による違い、年齢による違い、集団構成による違い…その他、対象となる子どもは、学級によって様々な違いを抱えています。これが第一です。

 もう一つあります。それは「教師が違う」からです。教師の何が違うのか、というと、この場合は「願い」が核になると思います。
 私たちは子どもに教えることが仕事です。教えるという行為は、自分の人間性と切り離せないものを持っています。そこにはやはり独自なものがあると考えられます。その独自性を生かすために経営案はあるとも考えられます。

 が、しかし、それでは好き勝手に教えていいか、というとそれはできない。なぜか。
 私たちの置かれた立場は、「公教育」ということです。
 これが「私教育」であれば、ぐんと幅が広がるでしょうが、公教育である以上、定められた意義や役割を順守していくことは避けられません。

 では、公教育のなかで私たちが担う「初等教育」の役割とはいったいなんでしょう。
 最近の行政のありかたを見ていると、学力テストを初め教科学力の向上に特化したイメージもうけますが、そして私たちも不満を持ちながらもなんとなくそこに寄りかかりたい気持ちを持っています。
 しかしもう一度思い出してみると、初等教育の役割の核は「調和のとれた人間」ということにあります。

 これをふだん使う言葉でいうと、「知・徳・体」のバランスということになるのだと思います。
 何をもってバランスがとれているかということは非常に難しいでしょうが、少なくとも教育する側の立場としては、一人ひとりの子どもを、知・徳・体の備わった人間に育て、社会を支えていく個人として成長させることが使命であることは確かです。

 さて今回、このチェックリストから取り上げてみようと考えたのは自分に次の思いが強いからだろうなと思います。
 経営案を作るということは、「具体的な場面を描く」ことだという思いがあるからです。
 つまり「○○さんが、朝元気よくあいさつできるように」「○○くんがしっかり挙手をして発言できるように」ということを明らかにして、そのために何をやるか考えてほしいということです。

 もう一つは、こうした帰納法的な手法で、重点実践事項や子ども像に迫ってみることも、ちょっと視点をかえるためにはいいかなという思いです。
 通常ならば、学校の目標があり、それを砕いて学級目標、子ども像、そのための具体策と続いていく、いわゆる演繹的な手法だと思いますが、またそれが本来のあり方でしょうが、まあこうした方法で少し自分の願いを考え直してみることも大事かと思います。

 さて、具体的な手順について説明します
 (以下略)

・・・・・・・・・・・・・・・・

 チェックリストを持ち出したところなど、いかにも当時の自分らしさがわかる。
 今ならどうだろう。
 数を絞るけれど…やっているかもしれない。



抑(そも)と考えたコトバ

2019年04月05日 | 雑記帳
抑々」…「そもそも」である。畳語と言えるので、もともとは「」である。あるタイトルを考えていて、結構これは使えると感じた。「そも」とは「改めて事柄を説き起こし、問題として示す」という意味。これは難しい世の中を渡り歩くための、一つのキーワードと言えないか。「抑、元号とは」「抑、指導とは」等と。


忖度」…久方ぶりの登場。あの時に言い尽くされているように、誰に対する使い方かで世間の目が集中する。今回改めて思うのは、こんなにふざけた使い方をしても咎めないお上に、私達自身も慣れを感じるようになったこと。危険だ、非常に危険だ…だから、クダラナイと思ってもきちんと始末しなければ駄目だ。


奉仕」…必要があってある法規を読んでいたら、業務上の記載のある箇所で突然「奉仕」という語が登場し面食らった。しかし考えてみれば、公的な場合は「奉」が入るのは当然か。昔は神仏、天子が対象になっていて、そのうち国家や社会全体に移りそして他者へ変わっていき、今は「サービス」と呼ぶに至った。


不順」…単純に「順調でないこと」を意味するのだが、実は詳しく調べると4つの点について順調でない、従わないことを表しているという。一つは「道理・正道」、次に「人」、そして「体調」、最後に「気候」である。人に対しては「不純」が一般的ではあるが、別の意味で「不順な人」もいることを心に留めたい。

力と知恵を結集させるために

2019年04月04日 | 読書
 先月中旬に朝刊で見かけ、気になったコラムがあった。
 古紙整理で新聞紙をまとめる折に、もう一度読み直す。

 大森山動物園小松守園長の「月曜論壇」最終回だった。


Volume.157
 「余分なものを捨て、必要なものを徹底的に磨き上げて特徴化させ、さらに仲間同士の協力態勢を築く。その力と知恵がライオンを百獣の王に仕立てたに違いない。」



 小松園長は、郷土秋田に対して「これほど豊かな資源をバランスよく持つ県はそう多くない、なのに、なぜ低迷するのか」と問いかける。
 そして要因として「資源の豊かさに甘んじたこと」と「『オール秋田』としてのつながりの弱さ」を指摘する。


 豊かさに甘んじてきたという点に関しては、昔からよく隣県などとの比較を通して語られてきた。それが全体的なのんびりムードを醸し出しているとも言える。
 つながりの弱さについては、一見協力的な姿勢を保ってといるように見えても、一皮むけば、「ええふりこぎ(格好つけ)「「足引っ張り」「横並び気質」などがいまだによく指摘されることは、多くの人が承知しているだろう。

 こうした特徴は秋田だけとは限らない。しかし、我が県の県民性の強い要素であることは確かだろう。


 ここから二、三十年の見通しで言えば、人口減を食い止めることは不可能と言ってよい。行政はその速度を緩やかにすることに力を注ぎ、その先を見据えなければならない。

 しかし、おそらく住民個々(地域や世代や環境などによって)の「余分なもの・必要なもの」の捉え方の違いは結構大きく、その摺り合わせにもっと心を砕く必要がある。

 ここでも単なるナビゲーターではなく、コーディネーター的な存在の重要性が増していると感じる。

反省せずに、翻訳練習しよう

2019年04月03日 | 読書
 「反省好き」である。始終反省していた。しかし、その割に進歩した実感がない。反省の仕方が悪いのかと反省してみた。仕方を変えても、相変わらず仕方なかった。「反省だけならサルでもできる」と言ったのは誰だったか。ということは、肝心なのは反省ではないのだと、反省する。


2019読了34
 『反省しない。』(樋渡啓祐  中経出版)



 5年前の秋、発刊された当時に読んだ。ネット上でも注目されていたし付いていたDVDも面白かった。感想として記した「『行き当たりばったりの思想』に気づく」も、我ながら的を射ているのではないか。著者自身はその後に知事選に立候補し落選したが、その後の足跡もなにやら「行き当たりばったり」に見える。


 当時の勢いがそのまま出た、いわば「成功本」と言えるだろう。読み直してみて、改めて成功の具体的な要因を探ってみる。第4章「組織コトバを学ぶ、翻訳する」が肝に見えた。ここには樋渡市長に続いて、武雄市役所に入ってきた人物たち等が描かれているが、これらの方々に共通するのは、翻訳がうまいことだ。


 翻訳がうまいとは語学であれば「正確に、誤りなく」であろう。しかし実は「意図が伝わる」ことがより重要ではないか。活躍した部下たちは、「僕のオーダーをいい加減に『翻訳』」したのだという。この場合「いい加減」は「良い加減」を含んでいる。部署内に浸透させるために、バラエティある手法がとられている。


 一見突飛な政策、無理な要求に思えても、視線を変えたり情に訴えたりすることによって人の心へ落ち着かせることが出来る。指示だから従えという在り方は今の時代に馴染ませない。組織内部だけでなく「翻訳」して部外者へ説明、アピールすることも大切だ。「翻訳の思想」が共生時代のキーワードと言ってもいい。

読書をして「潜る力」を鍛える

2019年04月02日 | 読書
 世の中、様々な企画があるもので、「題名だけ」(若干のキャッチフレーズを付け加えて)というコンクール応募要項を雑誌で見かけたことがある。もちろん小説・物語の類だったと思う。タイトルは書籍の顔なので、発想は面白いと感じた。そういう見方をすると新書なども工夫している。この題には惹きつけられた。


2019読了33
 『読書する人だけがたどり着ける場所』(齋藤孝 SB新書)



 「読書する人の端くれ」とはおこがましいが、冊数だけはこなしている。だからこんな書名に出会えば励まされた気になる。ただ帯をよく見ると「読んだ本の差で人生は変わる」ともある。本の質は全く自信がないなあ。著者が執筆した読書に関する書籍は以前から読んでいるが、ネジを巻き直すつもりで手に取った。


 「『読者』がいなくなった時代」…著者はまえがきにそう記す。それはデータに現れた読書時間の減少を指しているだけでなく、「ネット上の情報を読む」ことと読書行為との違いによるものだ。「ネットで文章を読むとき、私たちは『読者』ではありません。『消費者』なのです。」…内容やツールではなく「構え」が異なる。


 この新書のキーワードは「深い」「深める」。深さの意味と意義を前段に置き、第三章以降は「思考力を深める」「知識を深める」「人格を深める」「人生を深める」と見出しをつけた読書案内という形になる。著者の卓越した要約力とコメント力が十分に発揮され読みやすい。薦められる「名著」に手を伸ばしたくなった。


 最終章は「難しい本の読み方」。日本語ブームを作りだした一人である著者の本物志向はジャンルの幅が広いことが特徴で、漫画の紹介も面白い。本を手に取る人は、最初から「たどり着ける場所」をイメージするわけではない。深い所に行くために必須な「潜る力」が読書によって鍛えられ、徐々に場所が見えてくる。

万愚節から始まるのだ

2019年04月01日 | 雑記帳
 新年度になった。退職して丸三年が経ったことになる。具体的な姿を描いたわけではなかったが、とりあえず三年は自由に好きな事や興味ある事をしながら、その中で残っていたり、新しく芽生えたりする思いを大切にしようと考えていた。多少のボランティアもしながら、嬉しい孫誕生もあり、いい日々を過ごせた。


 我が家の家訓(いや処世訓か)の一つに「人は変わらない」がある。この場合の人は「他人」を指し、だから結局自分を変えるしかないという結論なのだが、実はそうそう自分自身も変えられないと痛感することが多い。ただ仕事という要素が抜け生活習慣が変わったことは、いくらか影響を及ぼしたように思っている。


 格好つければ、俯瞰力は高まったかもしれない。かつて目標設定を心がける生き方は求められてもいたし、必要だった。しかしそういう枠内での思考・行動の価値は認めても、そのパターンが操作、誘導されていないか、気を配ることだ。そのために予定調和でいいことと駄目なことの区分には心を砕いていきたい。


 さて、へそ曲がりを自認してはいるが、新元号発表については素直に受け止める。関わりのある仕事を持つ人は特に発表が待ち遠しかったろうし、天皇の代替わりに向けての諸準備を進めるうえでも大切なことだ。全ての日本人にとって事前発表は初めてだが、大騒ぎする目的でこうしたわけではないと心に留めたい。


 残りの「平成」をあれこれ懐かしむ、来る「令和」に期待を込めて展望する…それは悪くはない。肝心なのは冷静に移り変わりを心に収め、吾が身に引き寄せることだ。時代だけが流れているわけではなく、自分も一緒にそこに身を浮かべている。どこを見て、どのように手足を動かしているか。その姿を想像しよう