百醜千拙草

何とかやっています

日々是好日

2007-09-15 | Weblog
年をとってきて残り時間が徐々に短くなるにつれ、不思議な事に人はよりゆったりとおちついてくるようです。私はなかなかゆったりとはいきませんが、多少、年をとって良かったと思うことは、精神的には、競争心とか嫉妬心とかが少なくなってきたことでしょうか。私は子供のころから競争社会の弱肉強食、動物的なのが嫌いでしたが、その割に負けず嫌いでもありました。だから勝っても負けても不愉快になる損な性格でした。年をとってきて周りのことが余り気にならなくなってきて、気持ちは割合安定してきたようです。「少年老いやすく学なり難し」の焦りを感じる日も多かったのですが、最近はそういった結果ばかりを気にする態度が馬鹿らしいと思うことも多くなりました。肉体的な面では、余り食べなくても持続的に活動ができるようになりました。瞬発力は無くなりましたが、一定の調子で長時間作業をしたりするのは却って苦にならなくなりました。きっと代謝率は若い時の半分ぐらいに落ちているでしょう。二十代のころは三食しっかり食べても、夕方頃に、大腿部の脱力感など低血糖によると思われる症状が出る事があり、砂糖とカフェインのいっぱい入った缶コーヒーとカロリーメートを常備していました。最近は若い頃の半分ぐらいの摂食量で生きていけるようになりました。朝は一膳のご飯と一菜、食後のコーヒー、昼はパン二切れ、コーヒーとリンゴ、夜もご飯一膳とおかず、食後にちょっと甘いもの。ここ5年ぐらいこんな調子です。そのうちお昼は食べなくてもよくなりそうです。ある時、TaoistのWayne W. Dyerが テレビの講演で、「Stop pouring when itユs full」と言ったのが、何故か食事の時にいつも思い浮かんでくるようになって、食べるのを腹八分目で止めるようになりました。体調は悪くありません。無理は出来なくなりました。夜更かししたりすると、そのツケは倍返しとなります。アルコールは飲めなくなりました。アルデヒド代謝が悪くなりビールを一本以上飲むと、楽しくなる前に眠くなり、その後頭痛や吐き気がでるので、稀にしか飲まなくなりました。ちょっと激しい運動をすると頭痛が起きてそれで半日以上を無駄にするので、運動は軽いのを少しだけするようにして、なるべく汗はかかないようにしています。こういうように肉体におこってくる衰えを数えると何だか半病人みたいですが、精神的にはむしろ安定しているので、若い時よりは幸せなように思います。毎日楽しいことや苦しいことや面白くない事がおこりますが、そういう日常の瑣末時が積み重なってやがて死んでいくのだなあと思うと、山本夏彦さんの「私はもういつ死んでもいいのである。それは覚悟なんてものではない。いっそ自然なのである。その日まで私のすることといえば、死ぬまでの暇つぶしである」という言葉に深く同感せざる得ません。暇つぶしの意は、命とか人生とかに客観的な価値を求めないという謂いでしょう。皆、自分にとっては自分の命はかけがえの無いと尊いものですが、他人の命ならいくらでも替えがあると思っています。自分のすることは重要なことだと思っていても、他人がすることはちっとも重要でなかったりします。価値観というものは本来相対的なものですが、そのむなしさみたいなものを考えると、自分が今日一日をどれだけ満足して過ごせるかという以外に何も重要なことはないように思えます。いつ死んだって良いと思うのは自分の命の一瞬一瞬にそうした悟りがあるからでしょう。だから覚悟するようなこともなく自然にそう感じれるのだと思います。「海老踊れども斗を出ず」、人間の一生は仏心の中に始終し、始めも終わりもその間も常にその中にあると思えば、生きている事も死ぬ事もその間になす様々な暇つぶしも全ては斗(ます)の中の出来事に過ぎません。死は生の逆というわけでもないし、暇つぶしも重要事と差はありません。それを自然に受入れて日々是好日というわけです。
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