生命科学分野での博士余り問題が深刻化してきています。長期的戦略に欠ける官僚主導の日本の政府、大学の近視的政策で、こうなることは最初からわかっていたけれど、やはりこうなってしまったということでしょう。
昔から博士号など足の裏の米粒と言われていました。博士号は単なる箔付けであった医師にしてみると、その心は、博士号は「(足の裏の米粒同様に)取らないと気持ちが悪いが、取ったところでどうってことはない」という程度のものいう意味ですし、研究の専門家に取ってみれば、博士号は「(足の裏の米粒同様に)取ったところで、喰えない」という意味です。確かに博士号は、大学で教授になりたい人には必要なものでしょうが、研究そのものには直接必要なものではありません。博士号という肩書きは、労働意欲をかき立てるための学生のエサとして使われていた訳です。いまや博士号を持っているから研究能力や知識が優れていると単純に考える人などいないわけで、正味、博士の肩書きは箔付けにも使えない米粒なみという状況ではないでしょうか。
夏目漱石が朝日新聞の社員だったころ、文部省から文学博士を授与されそうになった時の話が、「博士問題の成り行き」という小文に発表されています。文部省が、一方的に「博士号をやる」というのを、「いらない」と突き返した時の話で、その断りの手紙が、
拜啓昨二十日夜十時頃私留守宅へ(私は目下表記の處に入院中)本日午前十時學位を授與するから出頭しろと云ふ御通知が參つたさうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病氣で出頭しかねる旨を御答へして置いたと申して參りました。學位授與と申すと二三日前の新聞で承知した通り博士會で小生を博士に推薦されたに就て、右博士の稱號を小生に授與になる事かと存じます。然る處小生は今日迄たゞの夏目なにがしとして世を渡つて參りましたし、是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります。從つて私は博士の學位を頂きたくないのであります。此際御迷惑を掛けたり御面倒を願つたりするのは不本意でありますが右の次第故學位授與の儀は御辭退致したいと思ひます。宜敷御取計を願ひます。敬具
二月二十一日 夏目金之助
專門學務局長福原鐐次郎殿
という風でした。尤も、これは漱石が四十四歳で朝日新聞社社員であった時の話ですから、博士号を持つ持たないは、この時の漱石にとってまず何の意味も無かったのは確かです。漱石が留学後に大学講師をしていたころだったら、果たしてどう対応していたでしょうか。大学教員であれば、博士号は役に立ちそうです。そうも漱石は、特に欲しくもない学位を「授けてやろう」という文部省の態度がどうも気に入らなかったようです。その「博士号問題の成り行き」の最後には次にように述べてあります。
博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違いない。けれども一国の学者を挙げて悉(ことごと)く博士たらんがために学問をするというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。余は博士制度を破壊しなければならんとまでは考えない。しかし博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与(ふよ)したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握(しょうあく)し尽すに至ると共に、選に洩(も)れたる他は全く一般から閑却(かんきゃく)されるの結果として、厭(いと)うべき弊害の続出せん事を余は切に憂うるものである。余はこの意味において仏蘭西(フランス)にアカデミーのある事すらも快よく思っておらぬ。
従って余の博士を辞退したのは徹頭徹尾(てっとうてつび)主義の問題である。この事件の成行(なりゆき)を公けにすると共に、余はこの一句だけを最後に付け加えて置く。
確かに、研究能力と博士号を持っているかどうかというのは直接関係ないと思います。しかし近年の大学教員の採用にあたっては、学位は、車を運転する時に運転免許が必要なように、それなりの研究能力がありますという証明書みたいに扱われています。大学に就職して、アカデミックラダーを昇るための第一歩としてこの免許証が必要なわけで、博士号を取ろうと考える人は、その本来研究とは無関係の就職手段を得るための道具として博士号を見ているわけです。そして漱石の言うように、体制側はこの制度を守る事によって、体制側の人間の利益になるようにしています。つまり、学生や研究生を指導する側は、指導という名目のもと、学生なり研究生の労働力を効率よく無償利用するための道具として博士号を利用してきたわけです。また漱石の言うように、博士号を取らないと研究者ではないというような風潮が形成されてしまうのは損失であるというのは、正に正論です。実際の研究能力よりも博士という肩書きを優先しようとわけですから。博士号を持っている人を差別化してその既得利益を守るという博士制度が、(現在のような博士余りの世の中で)破綻しかけている状態では、今後は大学院に進学して研鑽を積んで、米粒のような博士号をとったところで、喰っていくのにも困るとなれば、研究者の道を志す人は少なくなっていき、やがて日本のアカデミアの研究はやせ細っていくことになるのではと危惧します。
問題は善後策ですが、私が思うに、ありません。これからに関しては、博士号は学問上の業績に対して与えられる褒美であって、本来の研究能力とも就職とも関係ないという建前を研究者を志す人に、十分理解してもらうようにするのがよいのではと思います。現時点で就職難に苦しんでいる博士の人は(私も実はその一人ですが)厳しい中でもできるだけ努力して業績を上げて競争に勝てるように頑張るか、あるいは、時勢が悪かったと思って、あきらめるしかないですね。頑張ってもダメな時はダメですから。結果で評価される研究では頑張ったこと自体は評価の対象にはなりません。ただ、頑張ることによって業績のあがる確率を多少上げることはできます。(あきらめの悪い私が言うのもなんですが、一生の時間は限られていますから、ときには、前向きにあきらめて方向転換する方が良いこともあると思います。)
昔から博士号など足の裏の米粒と言われていました。博士号は単なる箔付けであった医師にしてみると、その心は、博士号は「(足の裏の米粒同様に)取らないと気持ちが悪いが、取ったところでどうってことはない」という程度のものいう意味ですし、研究の専門家に取ってみれば、博士号は「(足の裏の米粒同様に)取ったところで、喰えない」という意味です。確かに博士号は、大学で教授になりたい人には必要なものでしょうが、研究そのものには直接必要なものではありません。博士号という肩書きは、労働意欲をかき立てるための学生のエサとして使われていた訳です。いまや博士号を持っているから研究能力や知識が優れていると単純に考える人などいないわけで、正味、博士の肩書きは箔付けにも使えない米粒なみという状況ではないでしょうか。
夏目漱石が朝日新聞の社員だったころ、文部省から文学博士を授与されそうになった時の話が、「博士問題の成り行き」という小文に発表されています。文部省が、一方的に「博士号をやる」というのを、「いらない」と突き返した時の話で、その断りの手紙が、
拜啓昨二十日夜十時頃私留守宅へ(私は目下表記の處に入院中)本日午前十時學位を授與するから出頭しろと云ふ御通知が參つたさうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病氣で出頭しかねる旨を御答へして置いたと申して參りました。學位授與と申すと二三日前の新聞で承知した通り博士會で小生を博士に推薦されたに就て、右博士の稱號を小生に授與になる事かと存じます。然る處小生は今日迄たゞの夏目なにがしとして世を渡つて參りましたし、是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持つて居ります。從つて私は博士の學位を頂きたくないのであります。此際御迷惑を掛けたり御面倒を願つたりするのは不本意でありますが右の次第故學位授與の儀は御辭退致したいと思ひます。宜敷御取計を願ひます。敬具
二月二十一日 夏目金之助
專門學務局長福原鐐次郎殿
という風でした。尤も、これは漱石が四十四歳で朝日新聞社社員であった時の話ですから、博士号を持つ持たないは、この時の漱石にとってまず何の意味も無かったのは確かです。漱石が留学後に大学講師をしていたころだったら、果たしてどう対応していたでしょうか。大学教員であれば、博士号は役に立ちそうです。そうも漱石は、特に欲しくもない学位を「授けてやろう」という文部省の態度がどうも気に入らなかったようです。その「博士号問題の成り行き」の最後には次にように述べてあります。
博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違いない。けれども一国の学者を挙げて悉(ことごと)く博士たらんがために学問をするというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。余は博士制度を破壊しなければならんとまでは考えない。しかし博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与(ふよ)したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握(しょうあく)し尽すに至ると共に、選に洩(も)れたる他は全く一般から閑却(かんきゃく)されるの結果として、厭(いと)うべき弊害の続出せん事を余は切に憂うるものである。余はこの意味において仏蘭西(フランス)にアカデミーのある事すらも快よく思っておらぬ。
従って余の博士を辞退したのは徹頭徹尾(てっとうてつび)主義の問題である。この事件の成行(なりゆき)を公けにすると共に、余はこの一句だけを最後に付け加えて置く。
確かに、研究能力と博士号を持っているかどうかというのは直接関係ないと思います。しかし近年の大学教員の採用にあたっては、学位は、車を運転する時に運転免許が必要なように、それなりの研究能力がありますという証明書みたいに扱われています。大学に就職して、アカデミックラダーを昇るための第一歩としてこの免許証が必要なわけで、博士号を取ろうと考える人は、その本来研究とは無関係の就職手段を得るための道具として博士号を見ているわけです。そして漱石の言うように、体制側はこの制度を守る事によって、体制側の人間の利益になるようにしています。つまり、学生や研究生を指導する側は、指導という名目のもと、学生なり研究生の労働力を効率よく無償利用するための道具として博士号を利用してきたわけです。また漱石の言うように、博士号を取らないと研究者ではないというような風潮が形成されてしまうのは損失であるというのは、正に正論です。実際の研究能力よりも博士という肩書きを優先しようとわけですから。博士号を持っている人を差別化してその既得利益を守るという博士制度が、(現在のような博士余りの世の中で)破綻しかけている状態では、今後は大学院に進学して研鑽を積んで、米粒のような博士号をとったところで、喰っていくのにも困るとなれば、研究者の道を志す人は少なくなっていき、やがて日本のアカデミアの研究はやせ細っていくことになるのではと危惧します。
問題は善後策ですが、私が思うに、ありません。これからに関しては、博士号は学問上の業績に対して与えられる褒美であって、本来の研究能力とも就職とも関係ないという建前を研究者を志す人に、十分理解してもらうようにするのがよいのではと思います。現時点で就職難に苦しんでいる博士の人は(私も実はその一人ですが)厳しい中でもできるだけ努力して業績を上げて競争に勝てるように頑張るか、あるいは、時勢が悪かったと思って、あきらめるしかないですね。頑張ってもダメな時はダメですから。結果で評価される研究では頑張ったこと自体は評価の対象にはなりません。ただ、頑張ることによって業績のあがる確率を多少上げることはできます。(あきらめの悪い私が言うのもなんですが、一生の時間は限られていますから、ときには、前向きにあきらめて方向転換する方が良いこともあると思います。)