ふと、昔、白血病で亡くなった若い女の子のことを思い出しました。小児期を過ぎてから十代後半で発病する急性白血病は極めて予後が悪く、その女の子の場合も寛解、再発を繰り返し、その都度つらい化学療法とその様々な副作用に、泣き言一つ言わずに耐えていたのを思い出します。一人娘の回復を願う両親は、最後の一か八かの賭けとなる骨髄移植に最後の望みを託しましたが、結局は病に押し切られました。その女の子は無論のこと、苦しい治療の末に一人娘を亡くした両親の苦しみは察するに余りあります。その後すぐ、お母さんが原因不明の浮腫に悩まされるようになりました。一年程して、お母さんは小康を得、その時に離婚されたことを告げられました。結局、お父さんは一人娘の死のつらさと苦しみに耐えられず、悲しみを紛らわすために酒の力に頼ろうとしたそうです。お母さんは気丈に娘の死を受入れ、自分の人生を生きることを選択されました。その後、お父さんがどうなったのか知りません。この苦しみと悲しみに流されてしまわずに乗り越えていかれたことを願うばかりです。
世の中には様々な不条理があります。善良な市民が理由もなく犯罪に巻き込まれたり、戦争で殺されたりします。被害者はもちろんのこと残された人々も苦しみます。“When bad things happen to good people”はRabbiのHarold Krushnerが25年ほど前に出版した本ですが、著者の息子が早老症と診断され14歳で死去した経験が、この著作のきっかけになっているようです。神に仕え、善人であろうと努力してきた著者が、なぜこのような苦悩を受けなければならないのかと悩み、「全能の神」に対する考察を行っています。著者の結論は、こうした不条理をつくりだしたり、世の中の苦しみをつくりだしたりしているのは「神」ではなく、むしろ「神」は、苦しむ人々と共に苦しみ、これらの問題を解決しようと努力しているのだということでした。旧約聖書の中のヨブ記(Job)は、この不条理をテーマにしており、Krushnerの本の中でもその解釈について多くの頁が割かれています。神がサタンの挑発に乗り、ヨブの信仰を試すために、ありとあらゆる苦難を彼に与えるという話です。ヨブ記が伝えるものは何か、サタンと取引する神の意図は何か、不可解です。あえていうなら、われわれに無意識に植付けられた善悪、苦しみと喜びそうした価値基準への無批判な信仰に対する問いかけでしょうか。仏教ではありそうな解釈ですが、聖書ですから当たってはいないような気がします。
物事の見方、感じ方は人様々です。半分水の入ったコップをみて、半分しかないと思うか、半分もあると思うかはそれを見る人の主観に依存しています。この苦しみに満ちた世の中を理解しようとするにあたって、神は全能ではないが、その善意性を信じるか、神は何らかの人間の理解し得ない理由で不条理を世界に具現しているのだと考えるか、あるいは、神は存在しないか死んだと思うのかは、人それぞれの感情および理性の恣意性に依存しています。神を考慮に入れるかどうかは別にしても、「人生は苦であり、世の中に様々な不条理が存在する」というまぎれもない事実、(これをあえて事実と言うのは、この世に生を受けた人で、こういう感想を持たない人は皆無であろうと私は信じるからです)この事実をどう解釈するかは、個々人にまかされています。この本の著者のように、この不条理を解釈しようと努力してある結論に到達する人もいるでしょうし、苦しみや怒りの感情でそれが不可能な人もいるでしょう。私も若い時は悩み、不条理に対して怒りました。理想があれば現実との乖離に悩むのは当然です。しかし「理想」とか「善良であること」とかの「正当性」を証明するのは、実際のところ不可能です。我々が考えている「善」が本当に「善」である保証などどこにもありません。自分を善人と信じている人ほど、その信念ゆえにより徹底的な悪人たりえるわけです。そういう善悪、道理不道理の相対性を考えると、「不条理」と思う事そのものに「不条理に悩む者」の問題があるとも言えそうです。私は不条理が存在することが事実であると言いましたし、この不条理がそれに悩む人の心に存在することはまぎれも無い事実であると信じます。そして人間であればこの経験をしないものはいないであろうと思います。おそらく人間以外の生き物にはこういう経験はないのではないかと思われます。(もちろん、ひょっとしたら彼らも悩んでいるかもしれません)古人は、悩みなく一瞬一瞬の栄光なる生を生きる人間以外の動物に一種に理想を求めました。また一方では不条理に悩むことを人間の特権であるとも考えました。こうした理性が提供できる解決法は、残念ながら人間は感情の動物である故に、この世に生きることの苦しみを和らげるのには即効性はないようです。命ある限り、苦しみの人生を肯定して生きること、私たち人間にはその他の選択肢は与えられていないようです。
世の中には様々な不条理があります。善良な市民が理由もなく犯罪に巻き込まれたり、戦争で殺されたりします。被害者はもちろんのこと残された人々も苦しみます。“When bad things happen to good people”はRabbiのHarold Krushnerが25年ほど前に出版した本ですが、著者の息子が早老症と診断され14歳で死去した経験が、この著作のきっかけになっているようです。神に仕え、善人であろうと努力してきた著者が、なぜこのような苦悩を受けなければならないのかと悩み、「全能の神」に対する考察を行っています。著者の結論は、こうした不条理をつくりだしたり、世の中の苦しみをつくりだしたりしているのは「神」ではなく、むしろ「神」は、苦しむ人々と共に苦しみ、これらの問題を解決しようと努力しているのだということでした。旧約聖書の中のヨブ記(Job)は、この不条理をテーマにしており、Krushnerの本の中でもその解釈について多くの頁が割かれています。神がサタンの挑発に乗り、ヨブの信仰を試すために、ありとあらゆる苦難を彼に与えるという話です。ヨブ記が伝えるものは何か、サタンと取引する神の意図は何か、不可解です。あえていうなら、われわれに無意識に植付けられた善悪、苦しみと喜びそうした価値基準への無批判な信仰に対する問いかけでしょうか。仏教ではありそうな解釈ですが、聖書ですから当たってはいないような気がします。
物事の見方、感じ方は人様々です。半分水の入ったコップをみて、半分しかないと思うか、半分もあると思うかはそれを見る人の主観に依存しています。この苦しみに満ちた世の中を理解しようとするにあたって、神は全能ではないが、その善意性を信じるか、神は何らかの人間の理解し得ない理由で不条理を世界に具現しているのだと考えるか、あるいは、神は存在しないか死んだと思うのかは、人それぞれの感情および理性の恣意性に依存しています。神を考慮に入れるかどうかは別にしても、「人生は苦であり、世の中に様々な不条理が存在する」というまぎれもない事実、(これをあえて事実と言うのは、この世に生を受けた人で、こういう感想を持たない人は皆無であろうと私は信じるからです)この事実をどう解釈するかは、個々人にまかされています。この本の著者のように、この不条理を解釈しようと努力してある結論に到達する人もいるでしょうし、苦しみや怒りの感情でそれが不可能な人もいるでしょう。私も若い時は悩み、不条理に対して怒りました。理想があれば現実との乖離に悩むのは当然です。しかし「理想」とか「善良であること」とかの「正当性」を証明するのは、実際のところ不可能です。我々が考えている「善」が本当に「善」である保証などどこにもありません。自分を善人と信じている人ほど、その信念ゆえにより徹底的な悪人たりえるわけです。そういう善悪、道理不道理の相対性を考えると、「不条理」と思う事そのものに「不条理に悩む者」の問題があるとも言えそうです。私は不条理が存在することが事実であると言いましたし、この不条理がそれに悩む人の心に存在することはまぎれも無い事実であると信じます。そして人間であればこの経験をしないものはいないであろうと思います。おそらく人間以外の生き物にはこういう経験はないのではないかと思われます。(もちろん、ひょっとしたら彼らも悩んでいるかもしれません)古人は、悩みなく一瞬一瞬の栄光なる生を生きる人間以外の動物に一種に理想を求めました。また一方では不条理に悩むことを人間の特権であるとも考えました。こうした理性が提供できる解決法は、残念ながら人間は感情の動物である故に、この世に生きることの苦しみを和らげるのには即効性はないようです。命ある限り、苦しみの人生を肯定して生きること、私たち人間にはその他の選択肢は与えられていないようです。