百醜千拙草

何とかやっています

立ち止まって考える

2010-07-30 | Weblog
多民族国家で、常に移民の流入があり、新移民と旧移民との間に利害の衝突が起こり続けて来たアメリカという国にとって、保守と革新との違いは比較的分かりやすいように思います。保守は自らの既得権利が新移民に脅かされるのを嫌う人々です。あるいは自らが生まれ育った国に強い愛着を持ち、その国がその愛着に価しないような形に変容していくことを止めようとする人々です。一方、革新は、国が栄えるためには変わって行かねばならない、そのためには、新移民を積極的に受入れ、彼らにチャンスを与える代わりに彼らを利用して国力を高めるべきだ、と思う人々です。あるいは多民族が共栄共存できるユートピアとしてのアメリカを夢見ている理想主義者である場合もあるでしょう。アメリカにおいては、新移民というものをどう取り扱うか、即ち、新移民をリスクと見るかチャンスと見るかの差が保守と革新の差というように捉えることができるのではないかと私は思います。
 いずれの側にも、志の高い保守、革新、そして俗流の保守、革新があると思います。人は誰でも多かれ少なかれ変化というものを嫌います。それは保守でも革新でも同じです。CHANGEをスローガンに選挙を戦ったオバマでも、古き良きアメリカの価値観を守るために、変えるべきところを変えようと言っただけのことです。ならば、保守と革新の違いは、保守は守るべきものを守るためにリスクの低い方法を好み、革新は同様の目的のために、リスクが高いがリターンも高いものを好むという違いに過ぎないのではないかと思います。

それでは、従来、自主的な移民が余り無かった日本という国ではどうでしょう。従来、官の力が強く、人民は官にコントロールされる存在であった日本では、革新は保守のアンチテーゼとしてしか存在してこなかったと思います。政治的にそもそも、古き良き日本というものがあったのか、私は知りません。

先日、講談社G2の鈴木哲生さんの「保守の本懐」(http://g2.kodansha.co.jp/177/178/185/179.html)のさわりを読んだとき、宮澤喜一氏の保守の定義が紹介されていました。私もその言葉に感心したので、その部分を下に紹介します。

4月なかば、国会議事堂のすぐ脇にある国会図書館を私は訪ねた。すでに絶版になった、ある本をじっくりと読みたいと思ったからである。
書名は『社会党との対話 ニュー・ライトの考え方』。著者は元首相の故・宮澤喜一だ。
同書が上梓された1965年当時、日本の政治は保守の自民党、革新の社会党という二大政治勢力が激しく闘い、文字どおり国論を二分していた。社会党がもっとも強かった時代でもあり、それを自民党が迎え撃つ構図だった。そのような中で宮澤は、「保守」について同著で次のように定義している。
「保守とは立ち止まること、立ち止まって考えることである」
この本を読むように私に勧めてくれたのは、明治大学政経学部の井田正道教授だった。


もう一つ、人気政治ブログ、「ラ・ターシュに魅せられて」(http://latache1992.blog56.fc2.com/)の最近のエントリーの中の一節を。

どこの誰に聞いたのか・・
良く覚えていませんが、記憶に残る言葉がございます。
正義・・という言葉について・・・
この・・ "正しい"・・という字は、"一" と "止" の字で出来ています。
正しく・・意義ある行動をするためには・・
一つ止まって・・考えてみることです・・・。

聞いたときは・・
ああなるほどな・・くらいにか思いませんでしたが・・・
今思い出してみると・・・
なかなか薀蓄に富んだハナシです。

何かをしながら・・考えるコトも・・
出来なくはありませんが・・・
立ち止まって考えたほうが・・
良い結論を得られる場合のほうが多いのではないでしょうか。



「立ち止まって考えること」、これは、私がいつも自分に言い聞かせている言葉です。研究で何らかの問題が起きたとき、それを解決する唯一の方法がこれです。私も含めて多くの人が、しばしば、「立ち止まらずに突き進む」ことを選択し、傷を深めます。日本では、思考よりも行動、頭より筋肉、消極策より積極策、がより高く評価されてきましたから、「立ち止まって考えること」は勇気のいる行動です。

保守であれ革新であれ、何を変えて何を変えないのか、何を変えたくない(守りたい)ために何を変えねばならないのか、それを立ち止まってじっくり考えることの大切さを理解することがまず必要なのだと思います。世の中は否応なく変わっていきます。その中で人々が守りたいものがあります。生活であったり、文化であったり、価値観であったり、様々でしょう。変化の中でその守るものにフォーカスしている人々が保守、変えていくべきものにフォーカスしているのが革新ということではないでしょうか。ならば、両者の究極の目的は同じです。大切なものを守り、誤りを正していくということです。そこで何が大切か、何が誤っているのかを立ち止まってじっくり考える、この態度は保守も革新も両方の立場にとって必要なことです。宮沢さんはこれを保守の定義としましたが、この態度は革新にも必要不可欠であると思います。立ち止まって何を守るのかを考えるのが保守、立ち止まって何を変えるべきかを考えるのが革新。ならば両者は対立しているのではなく、同じものの裏表です。

政治においてもこんな理想論でやってもらえたらなあ、と私は思います。守るべきものを守り、改めるべき所を改める、そうあるべきですが、日本の政治は政党間、派閥間権力争いという低次元の活動にうつつを抜かし、最も大事なものを見る視点が欠けているように思えてなりません。

本来、保守と革新の差は単なる視点の違いに過ぎないと思います。「随所作主立所皆真」(随所に主となれば、立処みな真なり)という古い言葉があります。変化する世の中で変わらぬものがあります。それをしっかり掴んでおれば、変化は怖くありません。変化する世の中で変化しないものを見つめるのが保守でしょう。一方、変わっていく世の中で主となるために自らも変わる、その動きに注意するのが革新ということではないでしょうか。
いずれも目的は同じです。大切な事は、どちらの視点をとるにせよ、「考える」ことだと思います。

なぜ、マスコミは中立な報道を心がけず、人々に余計な意見を押し付けようとするのでしょうか?人々が立ち止まって考える前に、自分たちに都合の良い意見を流し込んで、人々に考えさせないようにしているのではないでしょうか?
私が経験から学んだ教訓の一つは、「声のデカい奴には気をつけろ」です。マスコミや右翼の宣伝カーのように、「がなり立てる連中」は、大抵、自分でマトモに考えていません。深く考える人は他人の立場もわかるので、強い自己主張はしないというかできないものです。それで、声のデカさと頭の悪さには有意な相関があると私は思っております。

それはともかく、考え、正しい判断に至るには、立ち止まり、静かな環境に身を置くことが大切だと思います。
コメント
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