最近、どちらを向いても明るい話題に当たりません。貧すれば鈍する、景気が悪いと気分も暗くなります。金は多くの人の悩みの種であるのは間違いないでしょう。日本はこれからしばらく前のヨーロッパ諸国のようにスローダウンしていくのでしょう。「ものづくり」を極めて、安くて高品質のものを外国に売ることで、日本経済は発展してきしましたが、そのモデルは人件費の安い国々に採用されてしまい、だんだん競争に勝てなくなってきました。高齢化が進み、新しい儲けのパターンも見いだせないのに、政府は「経済を成長させる」とかいう出来もしないことを未だに言っています。経済成長は止まって30年経っているのですから、いい加減、成長しないことを前提に政策を議論すべきではないでしょうか。どうしたら経済が成長しなくとも、国民が何とか喰っていけるのかを考えるべきで、成長しない経済を何とかしようとしている間に、食い詰めた人々はどんどん死んでいきます。
そう考えたら、贅沢はやめて自給自足できるようにすることがまず思いつくと思うのです。政府はこの自給自足方針を嫌うでしょう。これはますます経済活動が縮小し、国の税収が減って、国の多くの機能が損なわれることになり、結局、世界の二流国へ格下げになるということですから。しかし、上れば下るのがあたり前です。株価と同じでいつまでも上がり続けることはありません。下がればまた上がる日も来るでしょう。だんだんと贅沢しない小さな生活に慣らしていけば良いのではないでしょうか (と、思うのですけど)。
農業の技術が随分進歩して、少ない面積で効率よく安定して作物が取れるようになり、農作物の供給は昔から比べたらずっと良くなったことでしょう(にもかかわらず、7/29/10号のNatureでは、発展途上国での栄養失調にある人の割合はいまだに15%以上あり、ここ数年は増加傾向にさえあることを伝えています)。衣類もその他生活必需品にしてもそうではないでしょうか。昔に比べて、日本人の衣食住が比較的容易にずっと安価に手に入るようになっているのに、経済苦を理由に自殺する人が後を断ちません。なぜでしょうか。一方、満足に食べることができない栄養失調の子供が5割もいるようなインドやアフリカの国々で、経済苦で自殺という話は、私は聞いた事がありません。経済苦で自殺するというのは、人が生きていくための手段を「金」に頼りすぎている現代日本のライフスタイル、即ち生活の資本主義化から来ているのだろうと思います。
昔は、近くの親類、ご近所さんとの間でモノや金を融通し合うのがあたり前だったのではないでしょうか。リソースをある人からない人へ融通することで、助け合う、またそうすることで無駄も省けます。長屋の住人のように小さな共同体があってメンバーは助け合い、弱者の面倒をみる、いわば「究極の地方自治」が昔はあったという話を聞きます。あいにく、私が子供のころには、既にすっかり経済第一主義で、人間の活動の多くの部分で金の仲介を必要とするようになっていました。煩わしい近所付き合いに時間と労力を割いて助け合うという形より、必要に応じて金でサービスを買う方が後腐れがなくてよい、と人は考えるようになりました。そのうち人間関係ですら「金で買えないものはない」という拝金主義が跋扈し、家庭は核家族化し、人々は孤立していきました。人々の結びつきが希薄になり、故にますます人々は金に頼り、そして逆に金に支配されるようになってしまいました。このようなことは私があらためて言うまでもありません。資本主義社会での人間の孤立、人間が金に支配される傾向に対して、ずっと批判がなされてきましたが、残念ながら、一旦、動き出して加速がついてしまったシステムを止めるのは容易ではありません。
日本では、人はますます都会に集中しています。そして、昨今の経済状況では、都会で孤独に生きる人々の不安とvulnerabilityはますます増大していっているのでしょう。金がないと幸せになれない、と人々は思っているのではないでしょうか。そして、金を得るためには、田舎で農業や小さな商売をするよりも、都会で働く方がよい、そういう理屈で人は都会に集まるのではないかと思うのです。あいにく、都会では本当に金がないと生きて行けません。金のためにイヤでも働かざるを得ません。そして都会では病気やリストラで収入の手段を失うと一気に破滅まで突き進む人も出てくるのでしょう。
財務省に丸め込まれて、怪しげな増税プランを口走り、参院選惨敗を招いた(とんちん)カンさん、財政を立て直す、と就任時に抱負を述べました。先の参院予算委では、「経済、財政、社会保障を一体に考え、成長から財政再建につなげていく」考えを述べたそうです。これだけだと具体的に何をしたいのか分かりませんが、経済成長がどうも鍵のようです。しかし、政府が何かしたからといって経済がそう簡単に成長するのですか、と聞きたいです。政府ができるのは、規制緩和と大企業優遇税制ぐらいでのもので、それは結局、カツカツでしのいでいる中小企業にますますしわ寄せし、弱者により多くの犠牲を強いることになるのではないでしょうか。成長、成長と言うが、そもそも経済成長が止まって30年という事実をどう考えているのか聞きたいですね。
ところで、この方は「最小不幸を実現するのが政治の目的だ」などということを言っていますが、私、正直、この言葉にこの人の政治家としてのセンスのなさを感じざるをえません。「最小不幸社会」と言うと、幸せとか不幸とかいう主観的な感じ方の量について言っているように聞こえます。しかし、世間には、貧乏で病気で天涯孤独でも幸せな人もいるでしょうし、逆に物質的に恵まれていても不幸せな人も大勢いるわけで、幸せや不幸は心の持ちようですから、それを政治家がなんとかできるものではありません。政治家が国民に喋る時はもっと具体的で客観的な指標を使って語るべきでしょう。 例えば「国民の生活が第一」という理念です。「最小不幸」とは何割の国民がどの程度の不幸さであれば達成したと言えるのでしょう。それよりも、国民全員の生活が保障される社会を目指す、とは言えませんかね。
話がズレました。
今の政府は、材料を輸入して加工して売る、昔の工業立国のビジネススタイルに他の後発諸国の追い上げで、限界が見えて来ているのに、一昔前の経済成長を前提とした国づくりを未だに目指そうとしていると見えるのです。それではジリ貧というものだろうと思います。経済さえ成長したら、そして税収が上がれば、国民も幸せになって財政再建も進む、という短絡的なタラレバ思考を離れて、もっと客観的に現実を見て、国のあり方を考えれませんかね。どんな計画にもプランBが必要です。経済が成長しなかったらどうするのか、その時の計画を聞いたような覚えがありません。研究申請書なら、バックアッププランが十分、議論されていないグラントはまず落とされます。
経済成長のない社会のあり方を考えたら、私は、食料自給率をもっと上げることが第一にすべき事だろうと思います。そして、地方、とくに農村の振興、地方への分権が第一に考えるべきことだろうと思います。国民生活に直結する部分の中央政府の役割を限定し、 教育、福利厚生などはできるだけ地方自治に任せるようにしたらよいのではないでしょうか。つまり、霞ヶ関を解体し地方に機能を分散し、各自治体にオートノミーを持たせるようにするのがよいと思います。もちろん、政府も官僚も自らの利益のために中央集権を維持したがるでしょうから、実現は難しいでしょうけども。
そう考えたら、贅沢はやめて自給自足できるようにすることがまず思いつくと思うのです。政府はこの自給自足方針を嫌うでしょう。これはますます経済活動が縮小し、国の税収が減って、国の多くの機能が損なわれることになり、結局、世界の二流国へ格下げになるということですから。しかし、上れば下るのがあたり前です。株価と同じでいつまでも上がり続けることはありません。下がればまた上がる日も来るでしょう。だんだんと贅沢しない小さな生活に慣らしていけば良いのではないでしょうか (と、思うのですけど)。
農業の技術が随分進歩して、少ない面積で効率よく安定して作物が取れるようになり、農作物の供給は昔から比べたらずっと良くなったことでしょう(にもかかわらず、7/29/10号のNatureでは、発展途上国での栄養失調にある人の割合はいまだに15%以上あり、ここ数年は増加傾向にさえあることを伝えています)。衣類もその他生活必需品にしてもそうではないでしょうか。昔に比べて、日本人の衣食住が比較的容易にずっと安価に手に入るようになっているのに、経済苦を理由に自殺する人が後を断ちません。なぜでしょうか。一方、満足に食べることができない栄養失調の子供が5割もいるようなインドやアフリカの国々で、経済苦で自殺という話は、私は聞いた事がありません。経済苦で自殺するというのは、人が生きていくための手段を「金」に頼りすぎている現代日本のライフスタイル、即ち生活の資本主義化から来ているのだろうと思います。
昔は、近くの親類、ご近所さんとの間でモノや金を融通し合うのがあたり前だったのではないでしょうか。リソースをある人からない人へ融通することで、助け合う、またそうすることで無駄も省けます。長屋の住人のように小さな共同体があってメンバーは助け合い、弱者の面倒をみる、いわば「究極の地方自治」が昔はあったという話を聞きます。あいにく、私が子供のころには、既にすっかり経済第一主義で、人間の活動の多くの部分で金の仲介を必要とするようになっていました。煩わしい近所付き合いに時間と労力を割いて助け合うという形より、必要に応じて金でサービスを買う方が後腐れがなくてよい、と人は考えるようになりました。そのうち人間関係ですら「金で買えないものはない」という拝金主義が跋扈し、家庭は核家族化し、人々は孤立していきました。人々の結びつきが希薄になり、故にますます人々は金に頼り、そして逆に金に支配されるようになってしまいました。このようなことは私があらためて言うまでもありません。資本主義社会での人間の孤立、人間が金に支配される傾向に対して、ずっと批判がなされてきましたが、残念ながら、一旦、動き出して加速がついてしまったシステムを止めるのは容易ではありません。
日本では、人はますます都会に集中しています。そして、昨今の経済状況では、都会で孤独に生きる人々の不安とvulnerabilityはますます増大していっているのでしょう。金がないと幸せになれない、と人々は思っているのではないでしょうか。そして、金を得るためには、田舎で農業や小さな商売をするよりも、都会で働く方がよい、そういう理屈で人は都会に集まるのではないかと思うのです。あいにく、都会では本当に金がないと生きて行けません。金のためにイヤでも働かざるを得ません。そして都会では病気やリストラで収入の手段を失うと一気に破滅まで突き進む人も出てくるのでしょう。
財務省に丸め込まれて、怪しげな増税プランを口走り、参院選惨敗を招いた(とんちん)カンさん、財政を立て直す、と就任時に抱負を述べました。先の参院予算委では、「経済、財政、社会保障を一体に考え、成長から財政再建につなげていく」考えを述べたそうです。これだけだと具体的に何をしたいのか分かりませんが、経済成長がどうも鍵のようです。しかし、政府が何かしたからといって経済がそう簡単に成長するのですか、と聞きたいです。政府ができるのは、規制緩和と大企業優遇税制ぐらいでのもので、それは結局、カツカツでしのいでいる中小企業にますますしわ寄せし、弱者により多くの犠牲を強いることになるのではないでしょうか。成長、成長と言うが、そもそも経済成長が止まって30年という事実をどう考えているのか聞きたいですね。
ところで、この方は「最小不幸を実現するのが政治の目的だ」などということを言っていますが、私、正直、この言葉にこの人の政治家としてのセンスのなさを感じざるをえません。「最小不幸社会」と言うと、幸せとか不幸とかいう主観的な感じ方の量について言っているように聞こえます。しかし、世間には、貧乏で病気で天涯孤独でも幸せな人もいるでしょうし、逆に物質的に恵まれていても不幸せな人も大勢いるわけで、幸せや不幸は心の持ちようですから、それを政治家がなんとかできるものではありません。政治家が国民に喋る時はもっと具体的で客観的な指標を使って語るべきでしょう。 例えば「国民の生活が第一」という理念です。「最小不幸」とは何割の国民がどの程度の不幸さであれば達成したと言えるのでしょう。それよりも、国民全員の生活が保障される社会を目指す、とは言えませんかね。
話がズレました。
今の政府は、材料を輸入して加工して売る、昔の工業立国のビジネススタイルに他の後発諸国の追い上げで、限界が見えて来ているのに、一昔前の経済成長を前提とした国づくりを未だに目指そうとしていると見えるのです。それではジリ貧というものだろうと思います。経済さえ成長したら、そして税収が上がれば、国民も幸せになって財政再建も進む、という短絡的なタラレバ思考を離れて、もっと客観的に現実を見て、国のあり方を考えれませんかね。どんな計画にもプランBが必要です。経済が成長しなかったらどうするのか、その時の計画を聞いたような覚えがありません。研究申請書なら、バックアッププランが十分、議論されていないグラントはまず落とされます。
経済成長のない社会のあり方を考えたら、私は、食料自給率をもっと上げることが第一にすべき事だろうと思います。そして、地方、とくに農村の振興、地方への分権が第一に考えるべきことだろうと思います。国民生活に直結する部分の中央政府の役割を限定し、 教育、福利厚生などはできるだけ地方自治に任せるようにしたらよいのではないでしょうか。つまり、霞ヶ関を解体し地方に機能を分散し、各自治体にオートノミーを持たせるようにするのがよいと思います。もちろん、政府も官僚も自らの利益のために中央集権を維持したがるでしょうから、実現は難しいでしょうけども。