最近、百歳以上の老人の行方がわからないケースが問題になっているようです。百年以上もの間、この住みにくい世界を生きて来られたのだということをしみじみ思うと、自然と尊敬の念が涌いてきます。そんなめでたくも有り難い長寿者の人々が、ふたを開けてみれば、三十年も前にふらっと家を出て行ったきり行方がわからない、とこれまた既に老人の子供が言ったりするというような状態なのだそうです。行方不明の、公称百歳以上の老人の殆どはおそらく既に世を去って久しいというのが現実なのでしょう。
昔、植物状態の高齢の患者さんが肺炎を起こして昏睡となった例がありました。治療にも反応せず、呼吸状態も悪くなってきて、主治医もこのまま自然の成り行きにまかせるのがよいのではないか、と家族に話をしたところ、どうしても助けて欲しい、最後まであきらめずに頑張って欲しい、と家族に熱心に言われたという話を聞きました。どうやら、その患者さんに支払われている年金に家族の生活が依存していたという事情であったそうです。その患者さんは植物状態の寝たきりであっても、その年金によって家族を養っていた大黒柱であったわけです。最近の行方不明の老人の場合にもきっと似た事情があるに違いありません。誰かも言っていましたが、例えば、親一人、子一人の老人世帯があったとして、子が親の介護をしている間に失職するなりして収入が途絶えてしまうということがあり得ることは容易に想像できます。そして親の年金が生活に必要不可欠となった段階で、ある日、親がこの世を去ってしまう、そうなれば、その老人の子供は、親を失い、その世話をするという自分の生活を失った上、親の年金という生活手段も同時に失ってしまうことになります。行方不明の老人が多発するという事情の裏には、不十分な社会保障、老齢者介護問題という社会のインフラの不備は無論のこと、なにより30年の間行方不明でもそれが問題として浮上することもない現代社会での人間の孤立があるのでしょうか。
最近のニュースで、住民登録上104歳の女性の白骨遺体が見つかったという事件が報道されました。約十年前に寝たきりとなり、長男が一人で自宅介護していたようですが、自宅でそのころ衰弱死したようです。
以下は読売の記事から。
長男は当時、無職で収入がなく、同署に対し「病院に行こうと言ったが、(三石さんに)断られた。金がなかったので、遠慮したのだと思う」と話しているという。
長男は04年5月、それまで押し入れに隠していた三石さんの遺体を風呂場で砕き、リュックサックに入れて転居先の大田区のアパートに持ち込んだとされるが、アパート2階の自室には、父親の位牌の隣に三石さんの写真が飾られていたという。
長男は死亡届を出さなかった理由についても「葬式代がなかった」と話している。同署では、骨のDNA鑑定などで身元の特定を進めているが、背景には、三石さんと長男の生活困窮があったとみている。
私、この親子がどのように最後の日々とその後を過ごしたのか想像して、切なくなってしまいました。この母親は衰弱していくなかで、どんな気持ちで病院に行くことを拒んだのでしょう。葬式も出すことができなかった長男はどんな気持ちで母の骨を砕いたのでしょう。
この事件は、悲しくもありますが、心に触れる(こういっては誤解を生むかも知れませんが)美しい話でもあります。例え立派な葬式を出そうと、老人病院のベッドの上で一日中窓から空を見上げて過ごし、家族は半年に一回しか面会に来ないで、亡くなって行く人もいます。この母は長男に介護され、衰弱の中で病院に行くと金がかかるからと、それを拒んでそっと死んで行きました。長男はその母の遺骨を自ら砕いて父の位牌とともに持ち歩き、自室には母の写真を飾りました。
この話に私は、何か人間が生きるということの本質とでもいうようなものを感じるのです。
昔、植物状態の高齢の患者さんが肺炎を起こして昏睡となった例がありました。治療にも反応せず、呼吸状態も悪くなってきて、主治医もこのまま自然の成り行きにまかせるのがよいのではないか、と家族に話をしたところ、どうしても助けて欲しい、最後まであきらめずに頑張って欲しい、と家族に熱心に言われたという話を聞きました。どうやら、その患者さんに支払われている年金に家族の生活が依存していたという事情であったそうです。その患者さんは植物状態の寝たきりであっても、その年金によって家族を養っていた大黒柱であったわけです。最近の行方不明の老人の場合にもきっと似た事情があるに違いありません。誰かも言っていましたが、例えば、親一人、子一人の老人世帯があったとして、子が親の介護をしている間に失職するなりして収入が途絶えてしまうということがあり得ることは容易に想像できます。そして親の年金が生活に必要不可欠となった段階で、ある日、親がこの世を去ってしまう、そうなれば、その老人の子供は、親を失い、その世話をするという自分の生活を失った上、親の年金という生活手段も同時に失ってしまうことになります。行方不明の老人が多発するという事情の裏には、不十分な社会保障、老齢者介護問題という社会のインフラの不備は無論のこと、なにより30年の間行方不明でもそれが問題として浮上することもない現代社会での人間の孤立があるのでしょうか。
最近のニュースで、住民登録上104歳の女性の白骨遺体が見つかったという事件が報道されました。約十年前に寝たきりとなり、長男が一人で自宅介護していたようですが、自宅でそのころ衰弱死したようです。
以下は読売の記事から。
長男は当時、無職で収入がなく、同署に対し「病院に行こうと言ったが、(三石さんに)断られた。金がなかったので、遠慮したのだと思う」と話しているという。
長男は04年5月、それまで押し入れに隠していた三石さんの遺体を風呂場で砕き、リュックサックに入れて転居先の大田区のアパートに持ち込んだとされるが、アパート2階の自室には、父親の位牌の隣に三石さんの写真が飾られていたという。
長男は死亡届を出さなかった理由についても「葬式代がなかった」と話している。同署では、骨のDNA鑑定などで身元の特定を進めているが、背景には、三石さんと長男の生活困窮があったとみている。
私、この親子がどのように最後の日々とその後を過ごしたのか想像して、切なくなってしまいました。この母親は衰弱していくなかで、どんな気持ちで病院に行くことを拒んだのでしょう。葬式も出すことができなかった長男はどんな気持ちで母の骨を砕いたのでしょう。
この事件は、悲しくもありますが、心に触れる(こういっては誤解を生むかも知れませんが)美しい話でもあります。例え立派な葬式を出そうと、老人病院のベッドの上で一日中窓から空を見上げて過ごし、家族は半年に一回しか面会に来ないで、亡くなって行く人もいます。この母は長男に介護され、衰弱の中で病院に行くと金がかかるからと、それを拒んでそっと死んで行きました。長男はその母の遺骨を自ら砕いて父の位牌とともに持ち歩き、自室には母の写真を飾りました。
この話に私は、何か人間が生きるということの本質とでもいうようなものを感じるのです。