しばらく前に、英語を社内公用語とした会社の話を聞いたとき、それについて私は、きっと文書を英語にするだけで、まさか、口語コミュニケーションまで英語でするようなバカなまねはしないだろうというような事を書きました。その後、ユニクロの場合の社内英語公用語化は、非日本人雇用者を増大させグローバル企業として(脱日本化して、金儲けに集中するため)の戦略なのだ、という話を聞いて、暗い気分になりました。
先日のニュースでは、社内公用語として英語を採用したもう一つの会社、楽天の社長が英語で決算発表し、それに対して日本メディアが英語で質問した、という何とも気持ちの悪い話が出ていました。社長も社長ならメディアもメディアです。
そのニュース。
はて?私はこの人の理屈が理解できません。この人は、三点の意見を述べています。「最も重要な施策はグローバル化である」、「英語はストレートに表現するが、日本語だとあいまいだ」、「1、2年後には、全社員が流暢な英語をしゃべれるようになる」。そのそれぞれについて、私は強い異議を感ぜずにはおられません。私はグローバル化は滅びの道への第一歩であると信じております。仮にこの社長がグローバル化が大切だと信じていたとして、日本人社員が流暢な英語を喋れることとグローバル化にどれほどの関係があるのか、まずはその辺りを示してもらいたいものです。最近、ポーランドで、ポーランド語が全く喋れないが、多くのポーランド人を使って、企業展開している日本人社長の話を聞きました。また、アジア諸国では昔から現地の人を使って仕事をしていますが、そういう会社の日本人社員のどれぐらいが現地語に堪能だと言うのでしょうか。想像するに現地語(または英語)を使えることとその会社のビジネスとしての機能には大して相関はないのではないでしょうか。英語(とくに口語英語)とグローバル化がこの企業の場合、どう繋がっているのか、仮になんらかの関係があったところで、社員が英語がしゃべれることが、どのように会社や社会にプラスになるという計算しているのか、その辺を知りたいものです。
第二に、「英語はストレートで日本語はあいまいだから、仕事が進む」という理屈もおかしいと思います。英語だとストレートになるのは、言語そのものの問題ではなく、言葉を使う人間が十分英語を使いこなせないから遠慮のない表現になってしまう、ということではないでしょうか。現に、ネイティブの英語話者はしょっちゅう言語明瞭意味不明瞭をまくしたてます。英語の表現力、理解力に限界があるから曖昧な表現ができなくて話がストレートになるという理屈ならば、英語の表現力に限界がある人間 が英語でコミュニケーションする危険というもの同様にあるのではないかと思います。例えば、質問に対して YesかNoで答えるような単純な場合でも結構危険だと思います。英語では、続く文章に否定語が入れば、文脈にかかわらず、自動的にNoですし、続く文章に否定語がなければ自動的にYesです。例えば、「日本企業の英語公用語化は良くないですよね?」と訊かれて、「はい、良くないです」と答える場合は、”No, it is not good”であり、例え問いの意味そのものに賛意を持っていても、”Yes, it is not good”と言う英語は文法的にあり得ません。すると、否定語の入った質問に日本語感覚でYes, Noで答えようとすると、しばしば、まったく逆の意味で伝わってしまうというようなことも起こりうると思います。
第三に、1、2年で全社員が英語を流暢に話せるようになるという点において、「流暢に英語が話せていったい何が良いのか」という反論はとりあえずおいておくとしても、しゃべる方は、ある意味、台本を暗記すればよい訳ですからトレーニングすれば話せるようにはなるでしょうが、問題なく英語が聞き取れて非日本語話者との間でコニュニケーションになるかどうかはまた別問題であろうと思います。ふつう、聞き取りの方が話すことよりももっと難しいと思います。現に我々がどのように話し言葉を聞いて理解しているかを考えたら、言語が聞こえて全ての単語が明瞭にわかっても文意を理解することはしばしば困難です。多くの場合、会話のコンテクストの理解があって始めて、文章の理解が可能になるのだと思います。逆に言えば、コンテクストさえ理解できていれば、文章のうちの最も重要な一つ二つの単語さえ聞き取れれば、意味はほぼ正しく想像することができるということです。言語によるコミュニケーションは、言うまでもなくその言語が話される文化や歴史的背景の知識なしでは成り立ちません。例えば、私が読む英文の科学論文をそのへんのNative speakerである一般アメリカ人が読んだり聞いたりしてもチンプンカンプンでしょう。これは極端な例ですが、文化背景を共有していないものどうしのコミュニケーションはいくら使用される言語が共通でも困難です。
この会社が英語を社内公用語化した理由には二つの可能性があると私は思います。
一つ目は、この社長が、英語を社内公用語とすることで、会社がグローバル化し、海外の顧客を引き寄せ、会社の利益に上昇させる、と本気で信じている場合です。この場合は処置なしです。どうぞご勝手にとしか言うしかありません。
第二に、私はこちらの方の可能性が高いと思っているわけですが、グローバル化というのは必ずしも海外でのビジネスを促進するという意味ではなくて、会社を「非日本企業化」するという意味である場合です。
会社にとって最も大きな支出はおそらく人件費でしょう。そして、人件費の削減が短期的には会社の収益を上げる最も簡単な方法です。英語が社内公用語となれば、社員の勤務評価にもう一つの妙な基準が導入されるということになるわけです。つまり、社員は英語の出来、不出来でも評価されるようになるということです。「英語の出来が悪いので、グローバル化を目指す当社に向かない」という理由で昇給、昇進が見送られたり、ヘタをするとクビを切られる例も増えるでしょう。「グローバル化」を口実に日本人社員のクビを切って、安くてクビにしやすい外国人労働者で入れ替えるというようなこともするかも知れません。そう考えると、こういう新しい「しばり」をわざわざ導入するのは、実は、従業員を使い捨てにしたい会社経営者や株主の都合なのではないかと勘ぐりたくなります。
勘ぐりどおり、このハーバード出らしい社長が、自らの会社の同胞たる日本人従業員を英語という言語をツールに使って支配しようとしているのなら、これは恥ずかしくも悲しい話です。この社長、外見はコテコテの日本人の顔をしていますが。
いずれにしても、こういう企業は、日本企業を半分やめたようなものですから、政府も税金をがっちり取り立てて、財政再建の足しにでもしてもらいたいものです。
先日のニュースでは、社内公用語として英語を採用したもう一つの会社、楽天の社長が英語で決算発表し、それに対して日本メディアが英語で質問した、という何とも気持ちの悪い話が出ていました。社長も社長ならメディアもメディアです。
そのニュース。
楽天の三木谷浩史社長は5日、2010年6月中間連結決算の発表を英語で行った。12年3月までにグループ内の公用語を英語にする方針をすでに表明しており、自ら「公用語化」を実践した形だ。
三木谷氏は、本社で開いた約1時間の会見を英語でスピーチ。同時通訳が日本語に訳した。質問した記者7人のうち、日本メディアを含む5人が英語で質問した。
英語を使う理由について、三木谷氏は「我々の最も重要な施策はグローバル化だ」と説明。「英語はストレートに表現するが、日本語だとあいまいになる」とし、仕事の効率が上がるとも強調した。
日本人同士の意思疎通で混乱はないのかとの質問については、「英語をしゃべらないといけない環境を作っている。今は日本語で補足しないといけない場面もあるが、1、2年後には全社員が流暢(りゅうちょう)な英語が話せるようになる」と、最後まで英語公用化の意義を力説した。
三木谷氏は、本社で開いた約1時間の会見を英語でスピーチ。同時通訳が日本語に訳した。質問した記者7人のうち、日本メディアを含む5人が英語で質問した。
英語を使う理由について、三木谷氏は「我々の最も重要な施策はグローバル化だ」と説明。「英語はストレートに表現するが、日本語だとあいまいになる」とし、仕事の効率が上がるとも強調した。
日本人同士の意思疎通で混乱はないのかとの質問については、「英語をしゃべらないといけない環境を作っている。今は日本語で補足しないといけない場面もあるが、1、2年後には全社員が流暢(りゅうちょう)な英語が話せるようになる」と、最後まで英語公用化の意義を力説した。
はて?私はこの人の理屈が理解できません。この人は、三点の意見を述べています。「最も重要な施策はグローバル化である」、「英語はストレートに表現するが、日本語だとあいまいだ」、「1、2年後には、全社員が流暢な英語をしゃべれるようになる」。そのそれぞれについて、私は強い異議を感ぜずにはおられません。私はグローバル化は滅びの道への第一歩であると信じております。仮にこの社長がグローバル化が大切だと信じていたとして、日本人社員が流暢な英語を喋れることとグローバル化にどれほどの関係があるのか、まずはその辺りを示してもらいたいものです。最近、ポーランドで、ポーランド語が全く喋れないが、多くのポーランド人を使って、企業展開している日本人社長の話を聞きました。また、アジア諸国では昔から現地の人を使って仕事をしていますが、そういう会社の日本人社員のどれぐらいが現地語に堪能だと言うのでしょうか。想像するに現地語(または英語)を使えることとその会社のビジネスとしての機能には大して相関はないのではないでしょうか。英語(とくに口語英語)とグローバル化がこの企業の場合、どう繋がっているのか、仮になんらかの関係があったところで、社員が英語がしゃべれることが、どのように会社や社会にプラスになるという計算しているのか、その辺を知りたいものです。
第二に、「英語はストレートで日本語はあいまいだから、仕事が進む」という理屈もおかしいと思います。英語だとストレートになるのは、言語そのものの問題ではなく、言葉を使う人間が十分英語を使いこなせないから遠慮のない表現になってしまう、ということではないでしょうか。現に、ネイティブの英語話者はしょっちゅう言語明瞭意味不明瞭をまくしたてます。英語の表現力、理解力に限界があるから曖昧な表現ができなくて話がストレートになるという理屈ならば、英語の表現力に限界がある人間 が英語でコミュニケーションする危険というもの同様にあるのではないかと思います。例えば、質問に対して YesかNoで答えるような単純な場合でも結構危険だと思います。英語では、続く文章に否定語が入れば、文脈にかかわらず、自動的にNoですし、続く文章に否定語がなければ自動的にYesです。例えば、「日本企業の英語公用語化は良くないですよね?」と訊かれて、「はい、良くないです」と答える場合は、”No, it is not good”であり、例え問いの意味そのものに賛意を持っていても、”Yes, it is not good”と言う英語は文法的にあり得ません。すると、否定語の入った質問に日本語感覚でYes, Noで答えようとすると、しばしば、まったく逆の意味で伝わってしまうというようなことも起こりうると思います。
第三に、1、2年で全社員が英語を流暢に話せるようになるという点において、「流暢に英語が話せていったい何が良いのか」という反論はとりあえずおいておくとしても、しゃべる方は、ある意味、台本を暗記すればよい訳ですからトレーニングすれば話せるようにはなるでしょうが、問題なく英語が聞き取れて非日本語話者との間でコニュニケーションになるかどうかはまた別問題であろうと思います。ふつう、聞き取りの方が話すことよりももっと難しいと思います。現に我々がどのように話し言葉を聞いて理解しているかを考えたら、言語が聞こえて全ての単語が明瞭にわかっても文意を理解することはしばしば困難です。多くの場合、会話のコンテクストの理解があって始めて、文章の理解が可能になるのだと思います。逆に言えば、コンテクストさえ理解できていれば、文章のうちの最も重要な一つ二つの単語さえ聞き取れれば、意味はほぼ正しく想像することができるということです。言語によるコミュニケーションは、言うまでもなくその言語が話される文化や歴史的背景の知識なしでは成り立ちません。例えば、私が読む英文の科学論文をそのへんのNative speakerである一般アメリカ人が読んだり聞いたりしてもチンプンカンプンでしょう。これは極端な例ですが、文化背景を共有していないものどうしのコミュニケーションはいくら使用される言語が共通でも困難です。
この会社が英語を社内公用語化した理由には二つの可能性があると私は思います。
一つ目は、この社長が、英語を社内公用語とすることで、会社がグローバル化し、海外の顧客を引き寄せ、会社の利益に上昇させる、と本気で信じている場合です。この場合は処置なしです。どうぞご勝手にとしか言うしかありません。
第二に、私はこちらの方の可能性が高いと思っているわけですが、グローバル化というのは必ずしも海外でのビジネスを促進するという意味ではなくて、会社を「非日本企業化」するという意味である場合です。
会社にとって最も大きな支出はおそらく人件費でしょう。そして、人件費の削減が短期的には会社の収益を上げる最も簡単な方法です。英語が社内公用語となれば、社員の勤務評価にもう一つの妙な基準が導入されるということになるわけです。つまり、社員は英語の出来、不出来でも評価されるようになるということです。「英語の出来が悪いので、グローバル化を目指す当社に向かない」という理由で昇給、昇進が見送られたり、ヘタをするとクビを切られる例も増えるでしょう。「グローバル化」を口実に日本人社員のクビを切って、安くてクビにしやすい外国人労働者で入れ替えるというようなこともするかも知れません。そう考えると、こういう新しい「しばり」をわざわざ導入するのは、実は、従業員を使い捨てにしたい会社経営者や株主の都合なのではないかと勘ぐりたくなります。
勘ぐりどおり、このハーバード出らしい社長が、自らの会社の同胞たる日本人従業員を英語という言語をツールに使って支配しようとしているのなら、これは恥ずかしくも悲しい話です。この社長、外見はコテコテの日本人の顔をしていますが。
いずれにしても、こういう企業は、日本企業を半分やめたようなものですから、政府も税金をがっちり取り立てて、財政再建の足しにでもしてもらいたいものです。