円相場、一ドル84円台、15年ぶりの円高ドル安だそうです。アメリカの景気先行きの不安で円買いドル売りが進んだせいである、というようなことが書いてありますが、本当でしょうか。アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひくわけで、アメリカ経済が悪くなる一方で日本経済は上向きになるというような都合のよい話はないでしょう。このニュースは同日の、アメリカの6月の貿易赤字が前月比で18.8%ふえて、499億ドルとなり、二年ぶりの高水準であった、というニュースとセットになっています。貿易収支を黒字転換したいアメリカにとっては、ドル安でなければ困るということでしょう。ならば、当分円高ドル安は続くのでしょうし、結果、日本の輸出企業は痛手を受け、そのしわ寄せは中小企業に及ぶことになるのでしょう。そして、日本経済のますますの凋落、税収の落ち込み、社会保障の低下、消費税増税と、暗い成り行きを想像させます。
15年前の円高だった時代といえば、日本では、阪神大震災、オウムの地下鉄サリンテロがあった頃です。その後、日本経済は本格的に沈滞、小泉自民党の馬鹿げた経済政策もあって、あっと言う間に日本は世界最大の借金国となり、格差が拡大し、年間3万人以上が自殺する国となりました。
この年間3万人以上という自殺者の数については、トニー四角さんのブログ記事(http://d.hatena.ne.jp/Tony_Shikaku/20100805/1281008868)によると、イラク戦争での民間人死亡者数を遥かに超えているそうで、また日本の10万人あたりの自殺率は東欧5国についで世界第六位だそうです。3万人という数は自殺である証拠がはっきりしている場合に限ったもので、日本では年間10万人以上変死があって、その内の少なからずが自殺であろうと推測されているらしいですから、実際に自分で自分の命を断つ人は相当な数です。
最近、読んでいるRandi Noyesという人が書いた「the Art of Leading Yourself」という本の「Responsibility」という一節の中に、人間が負う多くの責任の中で、第一に、人は自分の命(と人生)に責任を持たなければならない、というような事が書いてあります。人間が自分の精神と肉体に気をつけて健全に生きていくのは、選択ではなく責任(義務)であるということだと思うのです。
今の社会の真ん中あたりを形成する世代は、遭遇する問題の責任を自分の外に求める傾向が強いらしいです。自分が幸せでないのは、社会や親や学校が悪い、と責任探しをするのだそうです。国や社会や親は自分が幸せに生きることを保証する義務があるとでも考えているのだそうです。その一方で、自分の命は自分のもの、自分が何をしようと自分の勝手だとも考える傾向も強いようです。例えば、自分が満足な職につけないのは、社会が悪い、学校が悪い、先生が悪い、とまず外部に問題を探し、なおかつ思うようにことが運ばなければ、今度は他人に無差別に危害を加えたり、あるいは自殺を図る、そういう行動パターンをとる例が見られます。
自分の問題を外部の誰かの責任であると考える人と自分の命を断つのは自分の権利だと考える人は重なりがあるのではないでしょうか。自分の命や自分の体が自分のものという考え方がまずおかしいのだと私は思います。
昔の中国では死ぬことを「借りを返す」と表現していました。命のやどる肉体は借り物であり、死んだらそれを返すものだと昔の人は考えていたのでしょう。だから、自分の命を慈しみ、大切に体を使うのは、借り主の「責任」であって、それを自由勝手にするものではないという考え方があるわけです。自殺が重い罪であるのはそういう理由だと思います。
もちろん社会が過ごしやすく豊かであり誰もが幸せを感じられるような場所であれば、自殺者や薬物中毒になって借りものの肉体を傷つけるような人は少なくなるでしょう。外的な理由はもちろん自殺の動機の第一であろうと思います。経済苦に自殺する人が多いのは国の社会保障や経済環境が悪いのが原因であろうとは容易に想像できます。しかし、最終的に自分で自分を殺すことを決断するのは自殺者自身であり、その決断がなければ自殺は行われないのですから、いくら外的条件がその人を追い込んだのだとしても、それが自殺そのものを引き起こしたわけではありません。
何らかの問題があったとして、その問題を最終的に解決できるのはその人自身に他ならないし、同じ理由で他人を自分の思うように変えることは非常に困難である、ということに気づけば、自分の問題のために、社会や学校や先生の責任を問うたところで、問題はまず解決しないだろうというのは容易に推測できます。(もちろん構造的な問題がある場合に声を上げることは大切なことですが、それが問題をすぐに解決してくれることはありません)
結局、自分の問題は自ら解決するしかなく、それは大抵の場合、外部ではなく自分の方が変わることによってでしかなされません。残念ながら、他人を非難して他人を自分の都合の良いように変えようとする方を選ぶ人は多く、外部の環境を受け入れて自分がそれに沿って自分の方を変えようと思う人は少ないようです。
自殺という行為は、自分を変える努力と自分の命への責任を放棄することだと私は思います。近年、自殺者がふえているという事実は、生命や社会に対して自らが負うべき責任というものに注意が払われなくなってきたためではないのかと思うのです。
15年前の円高だった時代といえば、日本では、阪神大震災、オウムの地下鉄サリンテロがあった頃です。その後、日本経済は本格的に沈滞、小泉自民党の馬鹿げた経済政策もあって、あっと言う間に日本は世界最大の借金国となり、格差が拡大し、年間3万人以上が自殺する国となりました。
この年間3万人以上という自殺者の数については、トニー四角さんのブログ記事(http://d.hatena.ne.jp/Tony_Shikaku/20100805/1281008868)によると、イラク戦争での民間人死亡者数を遥かに超えているそうで、また日本の10万人あたりの自殺率は東欧5国についで世界第六位だそうです。3万人という数は自殺である証拠がはっきりしている場合に限ったもので、日本では年間10万人以上変死があって、その内の少なからずが自殺であろうと推測されているらしいですから、実際に自分で自分の命を断つ人は相当な数です。
最近、読んでいるRandi Noyesという人が書いた「the Art of Leading Yourself」という本の「Responsibility」という一節の中に、人間が負う多くの責任の中で、第一に、人は自分の命(と人生)に責任を持たなければならない、というような事が書いてあります。人間が自分の精神と肉体に気をつけて健全に生きていくのは、選択ではなく責任(義務)であるということだと思うのです。
今の社会の真ん中あたりを形成する世代は、遭遇する問題の責任を自分の外に求める傾向が強いらしいです。自分が幸せでないのは、社会や親や学校が悪い、と責任探しをするのだそうです。国や社会や親は自分が幸せに生きることを保証する義務があるとでも考えているのだそうです。その一方で、自分の命は自分のもの、自分が何をしようと自分の勝手だとも考える傾向も強いようです。例えば、自分が満足な職につけないのは、社会が悪い、学校が悪い、先生が悪い、とまず外部に問題を探し、なおかつ思うようにことが運ばなければ、今度は他人に無差別に危害を加えたり、あるいは自殺を図る、そういう行動パターンをとる例が見られます。
自分の問題を外部の誰かの責任であると考える人と自分の命を断つのは自分の権利だと考える人は重なりがあるのではないでしょうか。自分の命や自分の体が自分のものという考え方がまずおかしいのだと私は思います。
昔の中国では死ぬことを「借りを返す」と表現していました。命のやどる肉体は借り物であり、死んだらそれを返すものだと昔の人は考えていたのでしょう。だから、自分の命を慈しみ、大切に体を使うのは、借り主の「責任」であって、それを自由勝手にするものではないという考え方があるわけです。自殺が重い罪であるのはそういう理由だと思います。
もちろん社会が過ごしやすく豊かであり誰もが幸せを感じられるような場所であれば、自殺者や薬物中毒になって借りものの肉体を傷つけるような人は少なくなるでしょう。外的な理由はもちろん自殺の動機の第一であろうと思います。経済苦に自殺する人が多いのは国の社会保障や経済環境が悪いのが原因であろうとは容易に想像できます。しかし、最終的に自分で自分を殺すことを決断するのは自殺者自身であり、その決断がなければ自殺は行われないのですから、いくら外的条件がその人を追い込んだのだとしても、それが自殺そのものを引き起こしたわけではありません。
何らかの問題があったとして、その問題を最終的に解決できるのはその人自身に他ならないし、同じ理由で他人を自分の思うように変えることは非常に困難である、ということに気づけば、自分の問題のために、社会や学校や先生の責任を問うたところで、問題はまず解決しないだろうというのは容易に推測できます。(もちろん構造的な問題がある場合に声を上げることは大切なことですが、それが問題をすぐに解決してくれることはありません)
結局、自分の問題は自ら解決するしかなく、それは大抵の場合、外部ではなく自分の方が変わることによってでしかなされません。残念ながら、他人を非難して他人を自分の都合の良いように変えようとする方を選ぶ人は多く、外部の環境を受け入れて自分がそれに沿って自分の方を変えようと思う人は少ないようです。
自殺という行為は、自分を変える努力と自分の命への責任を放棄することだと私は思います。近年、自殺者がふえているという事実は、生命や社会に対して自らが負うべき責任というものに注意が払われなくなってきたためではないのかと思うのです。