原発反対!
政府は6日、中部電力に対し、静岡県の浜岡原子力発電所のすべての原子炉を停止するよう要請したと発表した、というニュース。
これが、本当に政府が浜岡原発に危機感を持ったための行動なのか、空きカンお得意のアホーマンスなのか分かりませんが、前者であると信じたいです。断層の軟質土の上に対震偽装を施され杜撰な工事で立てられた、一触即発の浜岡原発に大事故が起きれば、本当に首都圏壊滅となるのがわかっているのにこれまで止められなかったことを考えると、残念ながら、これはGWが終わっていよいよ内閣不信任案が出されて首相を降ろされるとビビった空きカンが政権延命のために打ったの姑息な思いつきの一手に過ぎないようです。産経新聞は、首相が事務レベルと協議した形跡はなく、会見直前に決められたもので、これは「首相の保身術が生んだ『クセ玉』」と断じており、「浜岡停止により政府は原発政策の見直しを根底から迫られかねないが、首相がそこまで先を読んだようには見えない。」と結んでいます。主義も哲学も理念も何にもないスッカラカンで、あるのはバルカンならではの自己保存本能だけという大腸菌のような人ですから、誰もこの空きカンを信用していません。ほとぼりがさめて政権が保ちそうだとなれば、その情勢にあわせて手のひらの向きは日替わりで変ることでしょう。浜岡がこれで本当に廃炉に向かう可能性はむしろ低いでしょう。本人は厚顔にも月末のサミットに首相として出席するつもりで、その時に見栄をはるための実績が欲しいとも思ったようです。(個人的には、このような誠実さのない人間が国際会議で空虚なパフォーマンスをやることほど国益を損ねることはないと思いますので、是非、サミットには別の人に行ってもらいたいと願っております)だからこそ、仮に浜岡が停止になったとしても、それが一時停止で終わることなく、浜岡の廃炉、もんじゅの廃炉、そして全国の原発事業への縮小へ確実に繋がって行くように、国民が監視していく必要があります。
さて、再び先々週のNatureのWorld Viewのコーナーから。
MITのHiddle Ploeghが「ムダの多い横暴なレビューアー実験を終わらせよう」というタイトルで最近のハイインパクトジャーナルのレビューのありかたについて苦言を呈しています。
ハイインパクトジャーナルには掲載数の何倍もの投稿がありますから、レビューアーも厳しくなるのは当然なのですが、困るのがレビューアが必要以上の追加実験を要求してくる場合です。レビューアは絶対的に強い立場にあって、論文採否が彼らの手にあるので、レビューアの要求する実験には、投稿者側はできるだけレビューアの感情を損ねないように気を使い、その実験が余り意味がないと考えられる場合でも、できる限り言われた通りにやろうとします。私の知っている例でも、期限までにS紙のリバイスで要求された実験をするために、手元に実験に必要なマウスがいなかったので飛行機でそのマウスがいる別の研究室まで往復して何とかデータを出したという人もいます。もちろん、実験結果を正しく解釈するために絶対的に必要な実験がなされていないのであれば、その実験を要求するのは当然でしょう。しかし、Ploeghも述べているように、しばしば、レビューアが要求する実験は、その原稿の結論を支持するのに必要だからではなく、そんな実験をしたら面白いだろうとレビューアが思うような「次のプロジェクト」の実験である場合が多いと思います。Ploeghが言う通り、レビューアは原稿にある結論がデータによって十分にサポートされているかどうか、データや解釈に瑕疵がないかどうか、そしてその結論の意義、を評価すれば良いのであって、レビューアが考える理想の論文にするための実験を要求をすべきでないと私も思います。その要求する実験によって論文の結論が変化せず、その結論が揺らぐことがないのであれば、それを要求することはレビューアの立場の乱用であり、越権行為であろうと私も思います。
Ploeghはレビューアの「職権乱用」に加え、エディターも問題にしています。エディターが論文の価値をしっかりと判断して責任をもって採否を決めるかわりに、多い時には4人、5人のレビューアに見せて、多数意見を取ろうとする主体性のなさを批判しています。専門家か船頭か知りませんが、沢山いろんな人を集め、会議を乱立して仕事をしているつもりになっても何も決定することができない最終責任者がいますが、そんな感じですかね。レビューアが専門家ならエディターは判断を下す最終責任者なのだから、エディターがもっとリーダーシップを発揮するべきだということでしょう。確か、ワトソン、クリックのノーベル賞になったDNA構造のNatureの論文は、エディターがレビューなしで採択したものだったと思います。
このムダが多いレビューア実験の弊害を防ぐために、Ploeghは具体的な提案をしています。一つは、リバイス実験を要求する際にその実験コストをレビューアに概算させること。私もこれはいいアイデアだと思います。レビューアも現実と理想をきっちり区別する必要があります。レビューア自身も研究者なわけですから、自分が要求する具体的な実験労力とコストを見てみれば、それをやらされる側の気持ちもわかろうというものでしょう。そして、第二は、雑誌専属ではない現場のアカデミアのエディターにレビューアの要求する実験が理にかなっているかどうかをしっかり評価させることです。超一流紙でなければエディターはアカデミアの人が片手間にやっている場合が多いでしょうから、これは一流紙ならではの問題でしょう。そして、第三にレビュアーに論文の採否をYesかNoでまず評価させること。私もだいたい賛成です。想像するに、レビューアは大抵、まず、論文をざっと読んでみて、評価する論文がその雑誌にふさわしいかどうかを素早く判断してから細部をみていくものだと思いますから、どっちにしても、YesかNoかはレビューの早い段階でレビューアの心の中にあるのではないでしょうか。
レビューアも投稿者も同じ研究者なので、暴君的レビューを受けた人がレビューアとして他人の仕事を評価する場合に「やり返す」ことでウップンを晴らすような場合もあるでしょうが、逆にそれをを反面教師として、必要以上に厳しいレビューは、やったらやり返されるのだ、と考えることも可能でしょう。ピアレビュー活動は研究界で必要不可欠なボランティア活動ですから、同じやるのであれば、レビュー活動が同業の研究者の足を引っぱるのではなく、建設的な価値をもつようにと心がけたいものです。
政府は6日、中部電力に対し、静岡県の浜岡原子力発電所のすべての原子炉を停止するよう要請したと発表した、というニュース。
これが、本当に政府が浜岡原発に危機感を持ったための行動なのか、空きカンお得意のアホーマンスなのか分かりませんが、前者であると信じたいです。断層の軟質土の上に対震偽装を施され杜撰な工事で立てられた、一触即発の浜岡原発に大事故が起きれば、本当に首都圏壊滅となるのがわかっているのにこれまで止められなかったことを考えると、残念ながら、これはGWが終わっていよいよ内閣不信任案が出されて首相を降ろされるとビビった空きカンが政権延命のために打ったの姑息な思いつきの一手に過ぎないようです。産経新聞は、首相が事務レベルと協議した形跡はなく、会見直前に決められたもので、これは「首相の保身術が生んだ『クセ玉』」と断じており、「浜岡停止により政府は原発政策の見直しを根底から迫られかねないが、首相がそこまで先を読んだようには見えない。」と結んでいます。主義も哲学も理念も何にもないスッカラカンで、あるのはバルカンならではの自己保存本能だけという大腸菌のような人ですから、誰もこの空きカンを信用していません。ほとぼりがさめて政権が保ちそうだとなれば、その情勢にあわせて手のひらの向きは日替わりで変ることでしょう。浜岡がこれで本当に廃炉に向かう可能性はむしろ低いでしょう。本人は厚顔にも月末のサミットに首相として出席するつもりで、その時に見栄をはるための実績が欲しいとも思ったようです。(個人的には、このような誠実さのない人間が国際会議で空虚なパフォーマンスをやることほど国益を損ねることはないと思いますので、是非、サミットには別の人に行ってもらいたいと願っております)だからこそ、仮に浜岡が停止になったとしても、それが一時停止で終わることなく、浜岡の廃炉、もんじゅの廃炉、そして全国の原発事業への縮小へ確実に繋がって行くように、国民が監視していく必要があります。
さて、再び先々週のNatureのWorld Viewのコーナーから。
MITのHiddle Ploeghが「ムダの多い横暴なレビューアー実験を終わらせよう」というタイトルで最近のハイインパクトジャーナルのレビューのありかたについて苦言を呈しています。
ハイインパクトジャーナルには掲載数の何倍もの投稿がありますから、レビューアーも厳しくなるのは当然なのですが、困るのがレビューアが必要以上の追加実験を要求してくる場合です。レビューアは絶対的に強い立場にあって、論文採否が彼らの手にあるので、レビューアの要求する実験には、投稿者側はできるだけレビューアの感情を損ねないように気を使い、その実験が余り意味がないと考えられる場合でも、できる限り言われた通りにやろうとします。私の知っている例でも、期限までにS紙のリバイスで要求された実験をするために、手元に実験に必要なマウスがいなかったので飛行機でそのマウスがいる別の研究室まで往復して何とかデータを出したという人もいます。もちろん、実験結果を正しく解釈するために絶対的に必要な実験がなされていないのであれば、その実験を要求するのは当然でしょう。しかし、Ploeghも述べているように、しばしば、レビューアが要求する実験は、その原稿の結論を支持するのに必要だからではなく、そんな実験をしたら面白いだろうとレビューアが思うような「次のプロジェクト」の実験である場合が多いと思います。Ploeghが言う通り、レビューアは原稿にある結論がデータによって十分にサポートされているかどうか、データや解釈に瑕疵がないかどうか、そしてその結論の意義、を評価すれば良いのであって、レビューアが考える理想の論文にするための実験を要求をすべきでないと私も思います。その要求する実験によって論文の結論が変化せず、その結論が揺らぐことがないのであれば、それを要求することはレビューアの立場の乱用であり、越権行為であろうと私も思います。
Ploeghはレビューアの「職権乱用」に加え、エディターも問題にしています。エディターが論文の価値をしっかりと判断して責任をもって採否を決めるかわりに、多い時には4人、5人のレビューアに見せて、多数意見を取ろうとする主体性のなさを批判しています。専門家か船頭か知りませんが、沢山いろんな人を集め、会議を乱立して仕事をしているつもりになっても何も決定することができない最終責任者がいますが、そんな感じですかね。レビューアが専門家ならエディターは判断を下す最終責任者なのだから、エディターがもっとリーダーシップを発揮するべきだということでしょう。確か、ワトソン、クリックのノーベル賞になったDNA構造のNatureの論文は、エディターがレビューなしで採択したものだったと思います。
このムダが多いレビューア実験の弊害を防ぐために、Ploeghは具体的な提案をしています。一つは、リバイス実験を要求する際にその実験コストをレビューアに概算させること。私もこれはいいアイデアだと思います。レビューアも現実と理想をきっちり区別する必要があります。レビューア自身も研究者なわけですから、自分が要求する具体的な実験労力とコストを見てみれば、それをやらされる側の気持ちもわかろうというものでしょう。そして、第二は、雑誌専属ではない現場のアカデミアのエディターにレビューアの要求する実験が理にかなっているかどうかをしっかり評価させることです。超一流紙でなければエディターはアカデミアの人が片手間にやっている場合が多いでしょうから、これは一流紙ならではの問題でしょう。そして、第三にレビュアーに論文の採否をYesかNoでまず評価させること。私もだいたい賛成です。想像するに、レビューアは大抵、まず、論文をざっと読んでみて、評価する論文がその雑誌にふさわしいかどうかを素早く判断してから細部をみていくものだと思いますから、どっちにしても、YesかNoかはレビューの早い段階でレビューアの心の中にあるのではないでしょうか。
レビューアも投稿者も同じ研究者なので、暴君的レビューを受けた人がレビューアとして他人の仕事を評価する場合に「やり返す」ことでウップンを晴らすような場合もあるでしょうが、逆にそれをを反面教師として、必要以上に厳しいレビューは、やったらやり返されるのだ、と考えることも可能でしょう。ピアレビュー活動は研究界で必要不可欠なボランティア活動ですから、同じやるのであれば、レビュー活動が同業の研究者の足を引っぱるのではなく、建設的な価値をもつようにと心がけたいものです。