福島第一の4号機が危機的状況にあるという話のフォローアップで、下のサイトに詳述がありました。
http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-547.html
現場の情報が限られているので、正確にはわかりませんが、建屋が傾いており、白い煙がしばしば上がっていることから、5階にある使用済み燃料の貯蔵プールの漏れがとまらず、核燃料が溶解しているのではないかという話です。フクシマはこのままお手上げとなって、放射性物質を長年に渡って垂れ流し続けることになるのかも知れません。
楽しみにしていたサミット前の内閣不信任案の提出が見送られそうだというウワサ。参議院議長の西岡さんの痛烈な空きカン批判を聞いてワクワクしながら待っていたのに残念です。西岡議長の発言から抜き書き。
国民の99%が辞めろと言っても(支持率1%でも)石にかじり付いてでも辞めないと言った人ですから、参議院議長がどれほど痛烈に批判しても、馬の耳になんとやら、なのですかね。
さて、「公務員が国歌、国旗を否定するなら辞めればいい」「起立しないのなら、府民への挑戦と捉える」と述べて、国家斉唱時に起立しない教員を罷免する条案を提出するとういう大阪知事のことが数日前ニュースになりました。これについて多くの人が意見を述べています。
どうも、教職員組合が強い大阪という土地柄で、市町村、府の役割が複雑に入り組んでいる教育委員会制度に不満があるのが動機のようで、国歌斉唱時に起立する、しないという(些細な)問題をダシにして、教育委員会を管理しやすい形にかえてやろうという意図のようです。
君が代斉唱に抵抗する人々はイデオロギー的な理由が主だと思いますが、「君が代」は歴史的には、別に天皇制の擁護や独裁主義やファシズムなどとは無関係なようですし、歌詞そのものにも思想的に危険(そもそも、思想的な危険さというのは相対的なものですが)とも感じませんから、私は君が代が国歌として制定されて式典で歌うということには何の抵抗もありません。ロケットが飛んだり爆弾が爆発したりするアメリカ国歌の歌詞の野蛮さに比べたら、遥かに平和的でよいと思っております。ものは考えようです。
しかし、絶対に君が代は歌いたくない、歌うと、戦時中に洗脳されてお国のために死んで行った身近な人々の無念が思い出されて、悔しさに身が震える、そんな人もいるでしょう。先の戦争のような過ちを二度と繰り返してはならない、そう子供たちに教えるために教員になったというような人もいるでしょう。ならば、私のように「君が代」は平和で良い歌だと思う人間がいる一方で、 「君が代斉唱」に危険の匂いを感じ取る感受性の高いアレルギー体質の人々もいるということでしょうから、そんなアレルギー体質の人のことも思いやれる世の中であって欲しいと私は思います。
極端な話、国歌斉唱に強いアレルギー反応を起こして心身症を発症して健康を害する人もいるでしょう。そういう人に「公務員だから健康に害があっても君が代を斉唱しろ」と強制することが果たしてできるのか、と私は疑問に思います。ならば、国歌斉唱の強制は文化的で健康な生活を保障する日本国憲法に違反することになりますし。
例えば、そのアレルギー反応がもっと明らかなような場合ではどうでしょうか。ピーナッツアレルギーでピーナッツを食べると喘息発作の出る子供の場合はどうでしょう。学校給食は全員同じものを食べるという規則があった場合でも、ピーナッツ入りの給食を食べないのなら規則違反だから学校をやめろ、という人はいないでしょう。ものごとには例外が常にあります。
国歌斉唱時に教師が起立せず、式の一部に参加しないということがあって、困るのは誰なのでしょう。確かに、それを見て不愉快になる参加者はいるでしょうし、学校であれば、校長は示しがつかないと感じるでしょうし、知事は現場で規則を守らなくてもよいといういう態度が蔓延すると統治にかかわる、と思うでしょう。ですから、管理者の立場からすれば、規則が常に守られている社会が良い社会であって、個人の自由度がしばしば規則違反を招くような社会は良くないと思うのは当然でしょう。そういう観点から言えば、府知事の言動は、穏やかさにかけますが本音がそのまま表れているだけだと思います。「大阪の教員や教育委員会は管理しにくい」(だから、もっと管理を強化しないといけない)というのは、管理する側の理屈であって、先生や生徒の側の現場の理屈ではありません。この知事は、教育委員会はもっと管理しやすくしないといけない(そうしないと洗脳効果が得られない)と思っていて、極論すれば、管理者が管理しやすい国民を作る事が教育だとでも思っているのではないでしょうか。そこには国民のための教育という目線がありません。
また、国歌、国旗の否定するなら公務員を辞めろ、とか起立しないのは府民への挑戦であるとかいうのは、この府知事(あるいは管理者側)の見解に過ぎないわけで、もし、これを本気で言っているのだとしたら、知事という立場以前に人間としてちょっと狭量ではないのか、と私は感じます。
多分にこの人の挑戦的なもの言いが物議を醸した原因なのでしょう。もっと穏やかに話をすすめることもできたはずで、事実、日本の国の国民洗脳はマスコミや教科書などで心理的抵抗を引き起こさないように極めてsubtleに行われて来て、国民も知らず知らずの内に「日本的被統治民」になっていくものです。
相手がいる場合に、相手に何かをさせようとすると普通は交渉となるわけです。交渉というものは、お互いの立場や要求を考慮しながら落としどころを探っていくもので、相手の言い分を聞かずに、問答無用の敵対的言動をすれば、それは交渉になりません。これは宣戦布告のようなものです。これでは、お互いが歩み寄って真の解決に至ることはありえないでしょう。教師は突っ張って辞めるか、嫌々ながら条例に従うふりをするかのどちらかを選択することになるでしょう。それでは国歌斉唱時の起立という形だけは整っても、心は入らず、むしろ、いやいや従わされた教師の恨みは一層増幅するでしょうし、ならば、生徒にももちろん恨みは伝染すると考えられると思います。それで、この知事が意図したことが達成できるのでしょうか。
この知事がどういう意図でこのような挑発的な言動をしたのか、思うに、挑発的言動はアピールしますから、政治的な損得を計算した上でやったのでしょう。しかし、目的はどうあれ、私は、為政者が国民に対して敵対的挑発的言動をするという行為は気に入りません。私は、統治する立場にあるものは(少なくとも表面上は)君子の振る舞いと思いやりを見せてもらいたいと思っております。実るほど頭を垂れる稲穂かな、とも言います。上の方から下を挑発してその反動を利用するような計算高い行為は下種であり、君子の行いではありません。
http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-547.html
現場の情報が限られているので、正確にはわかりませんが、建屋が傾いており、白い煙がしばしば上がっていることから、5階にある使用済み燃料の貯蔵プールの漏れがとまらず、核燃料が溶解しているのではないかという話です。フクシマはこのままお手上げとなって、放射性物質を長年に渡って垂れ流し続けることになるのかも知れません。
楽しみにしていたサミット前の内閣不信任案の提出が見送られそうだというウワサ。参議院議長の西岡さんの痛烈な空きカン批判を聞いてワクワクしながら待っていたのに残念です。西岡議長の発言から抜き書き。
菅さんがサミットの場で恥をかくというよりも、世界から(底の浅さを)見透かされるのが嫌ですね。
「『急流で馬を乗り換えるな』という言葉があるが、急流を渡れず流されているのであれば、馬を乗り換えなければならない」と申し上げたが、菅さんは急流を泳いでいない。馬に乗っているのは国民全員ですよ。
「戦後最大の国難に菅さんが首相でいることが最大の不幸だ」と言われているそうですが、その通りでしょうね。
とにかく、みんなで船(ふな)縁(べり)をたたいて、一斉に「辞めろ」といわなきゃだめですよ。
菅首相の政治手法は「こうする」とか「検討する」とか言うだけ。「いつまでにやる」「いつからやる」というのをほとんど聞いたことがない。すべてが先延ばし、先送りです。これだけの国難の中で一国の最高責任者として、国民に語るべきことを語っていないのは、首相としての資質に欠けます。
「『急流で馬を乗り換えるな』という言葉があるが、急流を渡れず流されているのであれば、馬を乗り換えなければならない」と申し上げたが、菅さんは急流を泳いでいない。馬に乗っているのは国民全員ですよ。
「戦後最大の国難に菅さんが首相でいることが最大の不幸だ」と言われているそうですが、その通りでしょうね。
とにかく、みんなで船(ふな)縁(べり)をたたいて、一斉に「辞めろ」といわなきゃだめですよ。
菅首相の政治手法は「こうする」とか「検討する」とか言うだけ。「いつまでにやる」「いつからやる」というのをほとんど聞いたことがない。すべてが先延ばし、先送りです。これだけの国難の中で一国の最高責任者として、国民に語るべきことを語っていないのは、首相としての資質に欠けます。
国民の99%が辞めろと言っても(支持率1%でも)石にかじり付いてでも辞めないと言った人ですから、参議院議長がどれほど痛烈に批判しても、馬の耳になんとやら、なのですかね。
さて、「公務員が国歌、国旗を否定するなら辞めればいい」「起立しないのなら、府民への挑戦と捉える」と述べて、国家斉唱時に起立しない教員を罷免する条案を提出するとういう大阪知事のことが数日前ニュースになりました。これについて多くの人が意見を述べています。
どうも、教職員組合が強い大阪という土地柄で、市町村、府の役割が複雑に入り組んでいる教育委員会制度に不満があるのが動機のようで、国歌斉唱時に起立する、しないという(些細な)問題をダシにして、教育委員会を管理しやすい形にかえてやろうという意図のようです。
君が代斉唱に抵抗する人々はイデオロギー的な理由が主だと思いますが、「君が代」は歴史的には、別に天皇制の擁護や独裁主義やファシズムなどとは無関係なようですし、歌詞そのものにも思想的に危険(そもそも、思想的な危険さというのは相対的なものですが)とも感じませんから、私は君が代が国歌として制定されて式典で歌うということには何の抵抗もありません。ロケットが飛んだり爆弾が爆発したりするアメリカ国歌の歌詞の野蛮さに比べたら、遥かに平和的でよいと思っております。ものは考えようです。
しかし、絶対に君が代は歌いたくない、歌うと、戦時中に洗脳されてお国のために死んで行った身近な人々の無念が思い出されて、悔しさに身が震える、そんな人もいるでしょう。先の戦争のような過ちを二度と繰り返してはならない、そう子供たちに教えるために教員になったというような人もいるでしょう。ならば、私のように「君が代」は平和で良い歌だと思う人間がいる一方で、 「君が代斉唱」に危険の匂いを感じ取る感受性の高いアレルギー体質の人々もいるということでしょうから、そんなアレルギー体質の人のことも思いやれる世の中であって欲しいと私は思います。
極端な話、国歌斉唱に強いアレルギー反応を起こして心身症を発症して健康を害する人もいるでしょう。そういう人に「公務員だから健康に害があっても君が代を斉唱しろ」と強制することが果たしてできるのか、と私は疑問に思います。ならば、国歌斉唱の強制は文化的で健康な生活を保障する日本国憲法に違反することになりますし。
例えば、そのアレルギー反応がもっと明らかなような場合ではどうでしょうか。ピーナッツアレルギーでピーナッツを食べると喘息発作の出る子供の場合はどうでしょう。学校給食は全員同じものを食べるという規則があった場合でも、ピーナッツ入りの給食を食べないのなら規則違反だから学校をやめろ、という人はいないでしょう。ものごとには例外が常にあります。
国歌斉唱時に教師が起立せず、式の一部に参加しないということがあって、困るのは誰なのでしょう。確かに、それを見て不愉快になる参加者はいるでしょうし、学校であれば、校長は示しがつかないと感じるでしょうし、知事は現場で規則を守らなくてもよいといういう態度が蔓延すると統治にかかわる、と思うでしょう。ですから、管理者の立場からすれば、規則が常に守られている社会が良い社会であって、個人の自由度がしばしば規則違反を招くような社会は良くないと思うのは当然でしょう。そういう観点から言えば、府知事の言動は、穏やかさにかけますが本音がそのまま表れているだけだと思います。「大阪の教員や教育委員会は管理しにくい」(だから、もっと管理を強化しないといけない)というのは、管理する側の理屈であって、先生や生徒の側の現場の理屈ではありません。この知事は、教育委員会はもっと管理しやすくしないといけない(そうしないと洗脳効果が得られない)と思っていて、極論すれば、管理者が管理しやすい国民を作る事が教育だとでも思っているのではないでしょうか。そこには国民のための教育という目線がありません。
また、国歌、国旗の否定するなら公務員を辞めろ、とか起立しないのは府民への挑戦であるとかいうのは、この府知事(あるいは管理者側)の見解に過ぎないわけで、もし、これを本気で言っているのだとしたら、知事という立場以前に人間としてちょっと狭量ではないのか、と私は感じます。
多分にこの人の挑戦的なもの言いが物議を醸した原因なのでしょう。もっと穏やかに話をすすめることもできたはずで、事実、日本の国の国民洗脳はマスコミや教科書などで心理的抵抗を引き起こさないように極めてsubtleに行われて来て、国民も知らず知らずの内に「日本的被統治民」になっていくものです。
相手がいる場合に、相手に何かをさせようとすると普通は交渉となるわけです。交渉というものは、お互いの立場や要求を考慮しながら落としどころを探っていくもので、相手の言い分を聞かずに、問答無用の敵対的言動をすれば、それは交渉になりません。これは宣戦布告のようなものです。これでは、お互いが歩み寄って真の解決に至ることはありえないでしょう。教師は突っ張って辞めるか、嫌々ながら条例に従うふりをするかのどちらかを選択することになるでしょう。それでは国歌斉唱時の起立という形だけは整っても、心は入らず、むしろ、いやいや従わされた教師の恨みは一層増幅するでしょうし、ならば、生徒にももちろん恨みは伝染すると考えられると思います。それで、この知事が意図したことが達成できるのでしょうか。
この知事がどういう意図でこのような挑発的な言動をしたのか、思うに、挑発的言動はアピールしますから、政治的な損得を計算した上でやったのでしょう。しかし、目的はどうあれ、私は、為政者が国民に対して敵対的挑発的言動をするという行為は気に入りません。私は、統治する立場にあるものは(少なくとも表面上は)君子の振る舞いと思いやりを見せてもらいたいと思っております。実るほど頭を垂れる稲穂かな、とも言います。上の方から下を挑発してその反動を利用するような計算高い行為は下種であり、君子の行いではありません。