百醜千拙草

何とかやっています

私小説的研究、歴史小説的研究

2015-04-21 | Weblog
同僚と雑談中、細胞周期のG1/Sへの進行に必要な最小数の因子をin vitroの再構築系を作って証明したNatureの論文を、論文抄読会で読むつもりだという話をされました。話そのものはわかりやすいし、その証明が価値があることであることもわかります。

細胞周期研究が盛んであったのは、もう20-30年前で、その大方のパラダイムというのは既に確立されています。細胞周期制御の分子メカニズムはまだまだわからないこともあるのでしょうが、世間の人々は、大体の輪郭が見えてきた時点で興味を失っていき、教科書に載ってしまうと、関係者以外は、もう「終わった」分野だと思うのではないでしょうか。

それで、この論文の著者は、この仕事を次にどう発展させていこうとしているのだろうか、と話を振ってみました。(おそらくまだ若手であろうと思われる)第一著者の人が、今後キャリアを築いていく上でこの仕事をどのように足がかりに使って、研究をどの様に展開していくのだろうか、と想像したのです。当事者に聞いたわけではありませんから、もちろんわかりません。

かつてインパクトのあるNature論文を筆頭で書いて独立した知り合い人は、結局、そのNatureのネタを発展させて自分の研究をつくるということが(リソースの関係で)できなかったので、もっとレベルの低い雑誌に載った別の研究室でやった共同研究の方を発展させる形で研究展開しました。

細胞周期の研究に関しては、流行が過ぎて20 -30 年たった現時点では、やって「許される」人々はすでに決まってしまっているだろうと想像します。つまり、いくらこの分野でNatureの論文を筆頭で書いたところで、その著者が地位を確立する前の若手であれば、責任著者の研究路線と明確に異なった新しく意義のある(すなわち人々が興味をもってくれる)研究を展開しようとしない限り、金を出す方がウンといわないだろう(そして金がなければ研究はできません)と想像せざるを得ません。金を出す側にしてみれば、同じような研究をするのなら、若手の筆頭著者ではなくベテランの責任著者の方に金を回そうとするでしょう。

私小説的研究と歴史小説的研究と、私は研究をおおまかに二つにわけて見るクセがあるのですが、この細胞周期のNature論文は前者です。私小説研究とは、ある劇的な発見に関して、それを垂直に掘り進めて展開していくような研究です。垂直に掘り進めるのは大変です。簡単に掘れる地表に近い部分は既に掘り尽くされているのですから。そして、多くの他の人々は地表にいます。掘り進めれば掘り進めるほど、掘ること自体も困難になり、地表の人々からも見えにくくなっていきます。そしてある時点でこれ以上掘れないというレベルに必ず達します。そのころには、あまり深く潜り過ぎて一般の人々はついていけずに、興味を失っています。つまり、人々の評価という点で、苦労のわりに報われない仕事です。ですので、こういう研究を続けれる人はすでにその分野の大御所で、論文や金やキャリアはすでに気にする必要もない人に限られ、そうでない人はとっくの昔に淘汰されていなくなっているわけです。先のある若手の人だとリスクの高い仕事だと言えると思います。

対して、歴史小説的研究は、人々が注意を向けるような、パッと目につく面白そうな出来ごと、発見、トレンドなどに自分のユニークな技術や専門知識などを適用することで価値を付加していくような研究スタイルのことです。人々が興味を持ちそうな題材は外にあります。ウケそうな題材を見つけて、自分の専門を生かして比較的容易にできる部分の研究をタイムリーに行う。目的と手段との妥協点を先に見つけて、簡単で点数の取りやすい問題から解いていくわけです。こちらは圧倒的に人々に理解されやすく、労力が比較的かからず、その分リスクもすくない(その分、大発見する率も低い)と思います。そこそこの論文を出し続けないとキャリアそのものがないという若手、中堅の人は、この手の流行を追いつつも、自分の専門を生かしてユニークに寄与できるような研究を中心に進めるということになるのではないでしょうか。感動の大長編よりも、早く、安く、そこそこの質のものをタイムリーに提供する方が「商業的に」成功すると思います。

研究者には専門分野がありますから、これらの私小説的な部分と歴史小説的部分の両方がないと長続きしないと思います。縦に掘り進む研究はアイデンティティーと信用性のために不可欠ですが、そればかりだと、世間の人々から乖離してしまいます。そうなると研究費はあたらないし、いずれ掘りすすめないレベルに達した時点で終了になります。

研究者として成功してきている人もそのキャリアの中で2-3回は大きな方向転換をするのが普通ではないかなと思います。一山あてて、そこで私小説的活動をやりつつ、新たな山を探して自ら変化することに積極的でないと、そのまま雪隠詰めになってしまうことになりかねません。

このNatureの筆頭著者の人が数年後にどんな論文を書いているだろうかと想像したある日の午後でした。
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