百醜千拙草

何とかやっています

世のため、人のため

2017-01-06 | Weblog
ちょっと前に再会した昔の友人と色々話をした中で、印象に残った話。

私の研究室は超零細で、人を公募したことはありません。私のところに来たいという人は、たいてい私の研究に興味があるというよりは別のところに本来の目的がある場合が多いので、こちらの要望とアチラのプランをすり合わせることができるかどうかという物理的レベルの交渉して、条件が合えば一緒にやるという感じです。しかし、彼の研究室は、若手研究者やポスドクから応募が多数あるようです。それで面接の時は、なぜ彼の研究室を選んだのか、という当然の質問をするそうです。

彼自身は基礎研究者なのですが、関連した珍しい難病を扱っており、彼自身がその病気のadvocateとして活躍しテレビにも出たりしたこともあるので、そんな活動を見て応募してくる人も多いようです。それで、インタビューでは、なぜ彼の研究室に来たいのか、という質問に対して、「苦しんでいる患者さんの役に立ちたい」というような趣旨の回答をする人が少なからずいるのだそうです。

興味深いことに、「患者さんのために」研究すると答えた人のただの一人も長続きした試しがないのだそうです。

誰かのために働くためには、そのことによって自分にも何らかのメリットがなければ長続きしないのだろう、と思いました。誰でも自分が一番です(人間だもの)。その本音のところを見つめずに、「誰かのために」と言う人は、その建前のところで思考が終わってしまうのではないでしょうか。誰かのために一生懸命やれば、(自然と)自分も報われるだろう、と根拠なく想像してしまい、具体的にどう報われたいのか、自分が目指すゴールはどこなのか、ということを突き詰めて考えないのではないでしょうか。

あるいは、「誰かのために」という大義を全面に出す人は、己の本音を言わなくて済むと思っているのかも知れません。

そういえば、「復興支援」で福島に赴任した人が給料を不当に下げられたことを理由に福島を去ったという話を聞きました。給料が理由で辞めるのなら、「復興支援」という大義を前に出さなくてもいいのにな、と思った記憶があります。

人のため(為)と書くと「偽」になる、と斎藤一人さんの言葉を思い出しました。

などと、エラそうなことを言いましたが、若いときの私は典型的な何も考えていない人間でした。とにかく一生懸命やれば、結果は(自然と)ついてきて、自分も含めてみんなハッピーになるだろうと根拠もなく思っておりました。当たり前ですが、具体的に目指すものがなければ、いくら必死で漕いでも目的地に到達しませんね。また、そのその目指すものに正直でなければ長続きしないのだろうと思います。まずは自分の自己実現、その手段として「誰かの役に立つ」ことをしたいと欲求もあるのだろうと想像します。誰かの役に立ったが、利用されて騙されたのでは、満足しないでしょう。人の役に立ちたいというのも、突き詰めれば、結局はエゴの表れ、トランプが大統領になりたいとかアベ氏が首相を続投したいとかいうのと大差なさそうです。(他者への貢献を考えているだけ、彼らよりはマシですが)

ま、最近は、もう大義も自己実現も目的地に到着するということもそんなに重要ではないと思うようになりましたので、私も人の役に立ちたいとか、意義のある貢献をしたいとかの欲求は随分なくなくなりました。

こだわりなく流れのまま、雨に打たれては冷たいと言い、風に吹かれては寒いと言い、みんなにデクノボーと言われるが、別に苦にもされない、そういう者に私はなれればいいな、と思います。
コメント
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