百醜千拙草

何とかやっています

型通りの重要性

2017-09-21 | Weblog
このブログやり出して10年経ちました。
週に二回、何か書くという習慣になって、多分政権交替の頃から、あまりに日本の政治が酷いので、やむにやまれず、その手の話題が増えました。もはや、ヒドいと言うより日本に政治は「ない」に等しいと思います。よく、日本は経済は一流、政治は三流と言われましたが、経済はともかく、今や政治は三流どころか、落第で点数さえつかない状況です。

それはともかく、習慣というのは恐ろしいものです。ちょっとした日々の良い習慣、悪い習慣が積み重なって、大きな差となります。最近の悪い習慣は、つい日々、日本やアメリカの政治の話を見てしまうことではないか、と思うこともあります。
嫌々ながら、週に二回ジムで走るというのも習慣化しつつあります。

人生楽しく生きるには、自己実現感というか自分が向上していることの実感というものが必要ではないか、と思います。それがなければ、人は生ける屍、食事して排泄する機械に過ぎないような気がします。自己実現感を得るために、物理的な側面、そこそこの健康と衣食住があること、は必要だと思いますが、それを得ることはゴールではないはずです。その健康な体を使って(自分自身や社会にとって)なんらかの意味があることをなし、そこから充足感を得ることが大切であろうと思います。そのために、良い習慣を身につけることは大いに役立つし、悪い習慣をつけることは逆に大きな損失を招くと思います。良い習慣を身につけて、日々に向上していく自己を確認できるなら素晴らしいことです。あいにく、ブログを書くことが自分にとって良い習慣であるという実感は残念ながらありませんが、習慣となったので続けています。

昔、風邪の症状を訴えてきた患者さんをある中堅の医師が診察する様子を見学していた時、その医師が「まずは型通りに」とつぶやいて、頭、口、のど、首、胸部、腹部と、一通りの所見を手際よくとっていったのを思い出しました。風邪だからと言って、症状の出ている臓器だけを診るのではなく、一通りを見た上で、局所を詳しく診る、そうすることで思わぬ見落としや誤診を防ぎ早期発見につながるというわけで、私は、その「型通りに」という言葉に打たれました。型通りにシステマティックにまず見るという習慣をつけるために、以来、私も何かする時には「型通りに」とつぶやきながらするようになりました。研究においても、型通りの実験と解析をまずしてみることの重要性は実感します。「型」は一定のコンセンサスと合理性の元に出来上がったもので、多くの人が「型」に沿って実験結果を解釈し、意図を理解しますので、「型」を尊重することは、サイエンスコミュニケーションの点でも重要だと思います。型通りにまずやってみて、それで足りない部分に創意工夫するというところにブレイクスルー、「型破り」が生まれるのだと私は思います。保守があっての革新であり、革新そのものが単独で存在することはできないです。

同じく、近年の研究費の審査で苦々しく思っている傾向、すなわち「イノベーション」に重点をおく評価法ですが、これは、従来の研究を突き詰めた後の行き詰まりの打開という形で起こるブレークスルーを意図的に起こすことができるかのように勘違いしていることに基づいているようです。型を破るのは簡単ですが、それが即ちブレークスルーとなるわけでははないわけです。型が破られるのは、結果であって原因ではないからです。従来の研究を突き詰めて行き詰まったところに圧力が集中する結果の必然として、力学的に弱い一点が破られることになるのがブレークスルーであり、イノベーションであると思います。
コメント
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