百醜千拙草

何とかやっています

ニーズに応える

2018-06-05 | Weblog
ちょっと前の内田樹の研究室ツイートを読んで思ったこと。

「大学教員に実務家を」という話があります。実務家が大学教育にも大学経営にも不向きであることは教員に実務家を取り揃えたかの「株式会社立大学」が次々と募集停止に追い込まれた歴史的経験から明らかであるはずですけれど、彼らはそのことはころりと忘れたようです。
問題は学校教育は「市場のニーズに応じるものではない」という基本的なことを実務家たちが理解していないということです。「教えたいことがある」から教育は始まる。「教わりたい人」がまずいて「代価を差し出せば教えてやる」という需給モデルで教育は語ることができません。
神戸女学院が開学したとき、二人の米人宣教師が「教えたいこと」に対する「マーケットのニーズ」は明治初年の日本には存在しませんでした。上陸の直前まで「キリスト教禁教」だったんですから、あるはずがない。でも、教えたいことがあった。そしたら、なぜか七人生徒が来た。この順番は変わりません。


これを「大学教員」を「研究者」に置き換えてみた場合に成り立つだろうか、とふと思いました。教員も学生も研究者も生活に困らないで好きなことに使える資金が潤沢にあれば、話は簡単なのだろうと思うのですけど、彼らも生きていかねばならず、教育や研究は、彼らがやりたいことであると同時に、収入や将来の就職口を得るための手段でもある場合がほとんどであろうと思います。加えて、理系の研究は金がかかり、研究費や研究施設なしには何もできません。教育も同様かと思います。教育機関を運営するには金がかかります。結局は、資本主義社会で、ほとんどの活動に「金」が必要とされる世の中で生きていかねばならないという「個人のニーズ」が根底にあります。

研究や教育にかかる「金」は誰が何の目的で出し、出資者はそれと引き換えに何を得ているのでしょう。そこに相互関係が成り立つには何らかの価値の交換があるはずです。"There is no such thing as a free lunch"という言葉もあります、お互いのニーズが合わなければ、物事は起こらないだろうと思います。先の神戸女学院建学のエピソードも、社会のニーズとは呼べなくても、ニーズはあったからこそ成り立ったのだろうと思います。当時、生徒となった人の「何か新しい、面白そうなものを知りたい」というニーズと「キリスト教に基づく教育をしたい人」のニーズがマッチしたから、相互関係が始まったのだろうと思います。

「金」と「生活の安定」を得ることが最重要視される現代では、学生やその親にとっては、大学に行く理由は資格を手に入れたり、より有利な就職口を見つけるための手段である場合がほとんどでしょう。とすると、上のツイートにある「株式会社私立大学」が失敗したのは、やはりニーズに合っていなかったからだとも解釈できます。学生やその親、それから企業は、「それなりに権威のある大学」を卒業したという事実が重要なのであり、新興の「株式会社私立大学」はそのニーズを満たさないからです。ウチの子供が行くことに決めた大学は、近年、その人気が急激に上がってきましたが、その理由はCo-opという在学中からの企業などでの実務実習をプログラムに取り入れているからです。つまり、すぐに使える人材を求める企業のニーズ、就職を有利に進めたいという学生側のニーズにマッチしたプログラムを提供しているからです。上の「株式会社私立大学」も企業とタイアップして、卒業すればかなりの確率でそれなりの企業の正社員で就職できることを保証すれば、間違いなく成功したでしょう(それなりの企業はこういう大学とは連携しないでしょうが)。

研究者にとってのニーズは、研究費の継続的な獲得によって、研究活動と職を維持していくことです。しかるに、研究資金の相対的欠乏によって、資金獲得は年々困難となり、研究室の生き残りのためにかつての倍の数の研究費申請を出さざるを得ない状況が続いています。もはや、研究のために研究費の申請書を書いているのか、研究費申請に応募するために研究をしているのか、わからないというような本末転倒が起こっております。

一方、研究費を出す側のニーズはどうでしょう。研究費申請の募集を見ますと、多くのものが、特定の目的に役立つ研究を探しています。金を出す方にしてみれば、当たり前のことです。そこに相互利益を生む関係が成り立たなければ、話は進まないでしょう。つまり、何かを求める人がいて、そのニーズを満たしてくれる相手に金を出すという当たり前の関係が研究費の提供側と受け取る側にもあります。研究者が主導して申請する税金がベースの研究費も基本的には同じで、「社会のニーズ」にあったものが採択される(表向きには)ことになっています。

これは、論文でも同じことだと思います。私の論文はまず「Nature」のような雑誌には載りません。それはNatureという雑誌に私のやっているような研究を出版するニーズがないからです。また私の研究は仮にソコソコのレベルの雑誌に掲載されてもcitationは稼げません。それは、私が興味を持っていて面白いと思っていることが、マイナーなテーマだからです。つまり、受け手の数(ニーズ)が少ないのでインパクトも低いのです。Natureなどの商業雑誌がもっとも求めるものはインパクトであり、それがなければ研究の質がいくら高くても採用されないと思います。私は、研究やそれを論文として発表する活動は、何らかの発見からできるだけ汎用性の高い結論を引き出すゲームのようなもので、論文は一種の「作品」と捉えています。ですので、ニーズの低い論文でもそのゲームの完成度を高めることによってソコソコの雑誌に載せることは可能です。研究テーマを選ぶのも何に興味を持つかもそれは偶然や個人の好みが絡むことなので、なかなか、ニーズにあった研究をやるというのは難しいですが、ニーズに合わなければ、現実的に研究を継続するのはなかなか難しいとは思います。

基本的に人は抱える問題を解決してくれる人を求めています。それがニーズというもので、研究も同じと思います。その研究が誰かの何らかの問題を「解決」しない場合は、なかなか資金を得るのは困難でしょう。トイレが詰まった時に、必要とされるのは配管工であり、パイプを使う芸術家ではないでしょう。

思うに、社会のニーズに合わない研究や教育が許される時でも、それはそれに金を出す側に必ず、それなりのJustificationがあるはずで、例えば「今は存在しないが将来的に生まれるような社会のニーズに対応するため」というニーズにやはり対応しているのであろうと思います。上の喩えで言えば、パイプを使う芸術家も、仮にパイプ芸術愛好家といういうニーズがなくても、パイプ芸術が将来的に新しい配管技術の開発につながるとか、現在の配管問題を解決するのに役立つ可能性がある、と金を出す側が考えれば、活動をサポートされる可能性はあります。

対照的な例を思い出しました。つげ義治の「無能の人」という漫画です。以前、映画化もされました。「石を売る」では、才能ある漫画家が社会のニーズに合う漫画を描くことを潔しとせず、河原の石を売るという商売をはじめて失敗するという話があります。ここには、全くニーズがなく、将来もそれが見込めない場合には、与える側と受け取る側との相互関係は成り立たないということが極端な例で示しされていると思います。
コメント
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