百醜千拙草

何とかやっています

死刑に反対する単純な理由

2018-07-10 | Weblog

先週投稿した論文、レビューアの要求に答えることができずに一部の主張を取り下げての二度目のリバイスでしたが、あっさりアクセプトされました。きっと、土下座状態のresponse letterを見て、向こうも嫌気がさしたのでしょう。相手も人間ですから土下座している相手の頭を踏みつけるようなことはしたくなかったのだろうと思います。何だか情けないアクセプトですが、圧倒的でパワフルな論文が書けないのだから仕方ありません。大河の一滴でも形にならずにゼロであるよりはマシと思います。

週末、パラパラとめくったNature MethodsのにdCas9とAPEX2を使ったproteomicsの論文が二本出ているのを見て興奮しました。私、Proteomicsはど素人ですが、なぜかこれはやらねばならぬという気持ちになって、その実験に入る前の細胞を準備するための実験(先は長いです)を早速始めることにしました。2年ほど前に、こういう実験をやりたいなあと思っていましたが、当時、使えるdCas9のツールでは、あまりに感度が悪すぎて難しいだろうと思っていたところでした。実は、この論文、1年前にはBioRxivに出ていたのでした。もっと注意していればよかったです。当然ながら玉石混交なのがBioRxivの問題です。

さて、一連のカルト宗教集団、オウム真理教が犯した地下鉄サリン事件を中心とするテロ、殺人事件で死刑が確定したうち七人の死刑がほぼ同時執行されました。江川さんの記事によると、同日にこれだけ多数の死刑が執行されるのはおそらく第二次世界大戦後の東京裁判での戦犯以来ではないかとのこと。この七人のうちには、第一審の無期懲役を二審が覆して死刑判決となり、初回再審請求を出したばかりの人も含まれており、初回の再審請求提出後の死刑囚に刑が執行されるのは極めて異例とのこと。
法相は、会見で、この異例づくめの死刑執行についてのメディアの疑問に一切、答えず。もちろん江川さんも書いているように政治的な判断があるわけですが、今回の死刑は当然のように、海外から非難の嵐。執行前夜に若手自民党議員やアベと一緒に楽しそうに酒宴を囲んだ写真がネットで流れたのも反感を買ったようです。

日本は(建前上)法治国家であり、法に基づいて運営されており、死刑制度があって、裁判で死刑の判決が確定した以上、死刑を執行するのに問題はないということになります。ただし、日本国内でも、刑事事件を巡って死刑の違憲性が議論されましたし、死刑は違憲であると考えている法律専門家も多いようです。しかし、死刑というのはこのような国家運営上のルールとは別のレベルの問題があります。海外、特にEU諸国から非難を受けているのはその点でしょう。

私は、公共と個人の利益を両立させる上で、ルールを取り決めるというのは当然のことだと思います。そのルール遵守のために、違反者には罰を与えるということも理解できます。しかし、それが人間としての尊厳や権利を永遠に奪い去るような罰は許されるべきではないのではないかと思っています。地下鉄サリンで「ポア」することが彼らの幸せなのだと洗脳されて実行に及んだ犯人を、法の手続きを経たとは言え、死刑にして殺すということは、人が他人の命を奪うという点においては、同じレベルであると思います。

被害者やその家族、あるいはこの事件に憤る人々の気持ちになってみれば、極刑を望むのも理解できます。しかし、よく言われる話ですが、犯人を死刑にしたところで、殺された人が帰ってくるわけではなく、死刑は結局は、人々に事件に気持ちの上で決着をつけるための儀式、あるいは見せしめという意味がもっとも大きいでしょう。つまり、気持ちの問題です。下品な言い方をすれば、人々の怒りや悲しみを晴らすために、その原因となった人間に罰を与える、「復讐」ということなのだろうと思います。しかし、殺しても、結局、怒りのやり場がなくなるだけのことではないでしょうか。また、よく死刑反対者に対して、犯人の人権を云々する前に被害者の人権を考えろ、というような批判がありますが、死刑に関しては私は人権云々という議論とは離れた立場で反対です。

私は、殺人であれ死刑であれ、意図的に他人の命を奪うということは、罪 (sin)であると思います。だから戦争反対ですし、死刑にも反対です。宗教者がいう「人は等しく神の子である」というのが気持ち的には近いです。同じ子供同士が殺し合い、傷つけ合うのを親である神は喜ばないでしょう。死刑が一種の復讐であるならば、「汝復讐するなかれ、復讐するは我にあり」と神も言っています。ま、こういう理由に関しては、宗教的な話に嫌悪感を持つ人も多いでしょうから、説得力はないと思いますけど、私にとってはもっとも大きな理由です。

この理由以外に、死刑に反対する単純な理由は、それが取り返しのつかないことだからです。死刑であろうと無期懲役であろうと、犯人が社会から隔離されているという点、社会に直接与える影響としては同じことです。極刑に価するとの判断を下すのは人間であり、人間は間違いを犯します。死刑にしてしまうと、万が一、誤りがあった時に、それを正す機会が永遠に失われます。そうして無実の罪で死刑になり名誉回復もできずに死んでいった人もいたはずです。日本の司法と行政は完璧からは程遠いです。ですから、上の「神の子同士が殺しあってはいけない」という理想論的な理由に加えて、間違いを犯す可能性がある司法行政が、取り返しのつかない刑は執行すべきではない、と私は思っています。それは彼らが「罪を作る」のを防ぐことにもなります。
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