百醜千拙草

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民主主義と多数決

2018-07-27 | Weblog
オウムの死刑囚6人の刑が執行され、この月に13人が殺されました。平成の間にオリンピックの前に始末をしてしまおうという政治的な思惑があったのだろうと思いますが、異常です。

初回、再審請求をした人まで執行が行われたこと、執行書にサインした法相が、執行前夜に自民党の宴会で飲んで浮かれていたこと、異常さを挙げればきりがないです。私は前にも言いましたが、取り返しがつかない結果を生む可能性があるという単純な理由で死刑は反対です。死刑は一種の復讐であり、憲法の精神にも反しているという矛盾があります。その矛盾や権力を委託されたとはいえただの人間が他人の命を奪うという行為に、良識のある人間であれば逡巡しないはずがありません。良識のある法相であれば、自分の執行書へのサインの重みを深く感じないはずはないです。それが、執行前夜に飲み屋の女将の役で宴会に参加し、翌日のメディアの質問にコメントさえできないというのは、この人には良識も国民から委託された権力の重みへの謙虚さもないという証拠でしょう。
 私は、アベ政権の非人間性ともいえるやり方が政権内部のみならず、一般に広がっているのではないか、それを危惧します。「良識のある」人間が減ってきたのか、深い人間と社会の洞察と経験に積み上げられた良識というものを尊重せず、自分さえよければよい、金と力の世の中だと単純にかんがえるような動物的な人々が増えているのではないかと恐れます。国が貧しくなってくると、こういう傾向が強まりますから、やむをえないのかも知れません。

私は下の人のツイートと同じように考えています。

私は別件の遺族ですが、死には死を、とは考えません。たとえ国家であっても殺すという行為を認めれば矛盾し命に対する冒涜です。冤罪の危険も。特に組織の強い日本では罪の責任は本人にのみあるのではありません。別な形で償い、繰り返さないために貢献して頂く。個人的にはそちらを望みます。


これに対して、「あなたはオウム真理教信者によって、失われた命の冒涜についてはどう思いますか?そして死には死を望まないというあなたの意見は多数をしめません。残念ながら少数です。あなたが、現在日本における民主主義の否定は個人の考えですから自由でどう思おうが結構ですが、民主主義で決まってる事ですから」という批判のコメントがあります。

死刑囚を殺すことが冒涜なのだから、当然、被害者を殺すことも冒涜であること自明です。そのことは踏まえた上で「死には死を」とは考えないという意見に対して、民主主義で決まっているから少数派の意見は通らない、という言い方は、アベ政権そのもののやりかたを感じさせます。この批判には複数の問題があります。そもそも、私はこの方の意見が多数をしめないという言明に疑問をもっていますが、その辺はおいておいて、この人は「民主主義は多数決であり、多数決で決まったことに反対するのは民主主義の否定だ」といいたいようです。こういう人にこそ、枝野氏の内閣不信任案決議討論での演説を聞いてもらいたいです。民主主義は多数決ではなく、その共同体に属する構成院が社会の主体であり、個人が尊重されなければならない、という考え方です。

演説の中で、例えば、枝野氏はマンションのエレベータ設置費用をどう割り振るかいう喩え話をしました。一階に住む住民はエレベータをほとんど使いません。しかし、マンションのオーナー会議でエレベータの費用負担を割り振るのに、二階から上に住む住民が、費用をすべて一階住民に負担させようという動議を出して多数決で決めたなら、1階住民は納得して自分たちが使わないエレベータの費用を全負担するのか、という話です。これは民主主義とは言いません。もし、多数決ですべて決めればよいというのなら、国会は要りません。議論などしても結果に意味がないから与党が勝手にすべてを決めればよいのですから。事実、この国会の形骸化は著しいです。アベは最初から議論するつもりも少数意見の人に納得してもらうつもりもなにもないわけで、ご飯論法や信号無視論法で、国会の時間を無駄に消費してやり過ごし、強行採決すればよいと思っているのです。ふつうなら、こういうフザケタことをするとアベ降ろしが党内から起きるか、次の選挙で落とされるかするわけですが、アベの場合は、選挙法を変え、党内の徹底したアメとムチ政策で、独裁政権を維持できるようなシステムに変えようとしているのが極めて悪質です。

国民の代表の議員どうしの中で各々の国民の権利が尊重されるようにと議論するのが国会であり、議論の末にどうしても皆が納得できる一致した結論に達しない場合に止むを得ずにとる方法が多数決です。最初から議論するつもりもないアベが数にまかせて自分のやりたい放題、多数決で決めたから「民意」であると強弁する、このことそのものが憲法違反であると私は思います。

多数決が民主主義的であるという暴論は、自分がその権利を蹂躙される立場になっても言えるのですかね。例えば、沖縄基地問題。米軍基地は防衛上必要である(私はこの意見そのものに異議がありますが)と考え、沖縄に住んでいない国民の多くの賛成多数決で決めて、沖縄一県にほとんどの負担を押し付けています。これ、まさに上のマンションのエレベータの喩え話と同じです。私なら、マンションの1階住民であっても、多数決で決まったからと、使いもしないエレベータの全費用を負担するのはまっぴらです。それはスジが通らない話だからです。こういうことが起こらないように、普通は上位の法律や法執行組織があります。日本でいえば、憲法であり、独立した三権ですが、それを骨抜きにしようとしているのがアベ政権といえるでしょう。

そもそも、与党を選挙で支持しているのは国民の大多数ではなく、加えてアベ政権の政策は「民意」を反映しているわけではない。反映しているのは横田幕府の意思であり、経団連の意思です。アベ政権の7つの大罪のすべては、国民の方をむいて国民と国が豊かで安全であるようにと考えた政策の結果ではなく、己と党の自己保身と欲を単純に追求しているが故に起こっています。その観点からみれば、アソーが云うナチスの手口、すなわち「民主主義的手続きを踏んでできた独裁政権は民主的である」というギャグを真顔で実行しているのがアベ政権であり、いわば、権力をもたない国民は、その点において、すべて少数派なのです。アベ政権がアベの悪口を言う国民は治安保護法違反で逮捕して死刑にすると多数決で決めたらそうなります。国民の多数を不幸にしてアベとそのスポンサーを潤わせる悪法、労働規制の改悪、バクチ法案、水道民営化、数え上げたらキリがないですが、がどんどんと国会でマトモな議論もなされずに、多数決で決められる。これは民主主義ではないです。

死刑の話に戻ります。死刑の執行そのものには制度上の問題はないです。問題はそれよりももっと深い部分です。人間というのは思考し感情をもつ動物です。他人の身になって立場を変えて物事をみることができるのが人間が人間たる所以です。しかし、人の身になって物事を考えて一段上のレベルから判断を下すには、少なからぬ経験と物事を深く考える能力が必要です。小さな子供は平気で動物や他の子供に残酷なことをするし、学校でも会社でもいじめのような問題があります。相手の身になって物事を考えられるようになることが人間の成熟でもあり、いじめ問題、差別発言などは、未成熟性の表れでしょう。アベ政権にはその国民の立場になり、大きな視点で社会を見て考えるという能力がない。死刑執行前夜に宴会で飲んで浮かれ、メディアの質問にも答えられず、にもかかわらず同月にさらに六人を殺す執行書にサインをした法相も同様でしょう。人が人を殺さねばならないという深い矛盾をはらんだ問題に謙虚に対峙しようとする態度の欠如、思慮深さと人間としての情の欠如、それを堂々と晒してしまうのは、アベ政権の驕りなのか、人としての未熟さなのか。
コメント
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