一年半前ぐらいに、ヨーロッパを訪れた時のこと書きましたが、その時、知り合いの働くパリのある病院を訪れた時に知り合ったそこの部門長の人からメールがきました。ヨーロッパの小さな学会の一部のプログラムの担当をしているとのことで、シンポジウムへのお招きでした。今年はその学会は本来、ブリュッセルが会場となるはずだったのですけど、ヨーロッパはコロナが再猛威をふるっており、今年もVirtual学会となるので、ブリュッセルという地名に意味はありません。ヨーロッパはまた訪れたいと思っていたのでコロナがなくてリアル学会だったら嬉しかったのですけど、結局、自宅の居間から早朝に参加ということになりそうです。しかし、これでは学会参加のお楽しみの部分がありません。アンコの入っていないあんパンというか、コーヒーの入っていないクリープというか。とはいうものの、来年以降はもうこの手の学会には参加しないかもしれないし、とすると、このような機会は最後かも知ないなあと思い、バーチャルでも引き受けておこうという気持ちになりました。教育シンポジウムということで、研究の話は控えめで、教科書的な話を期待されており、某有名食品メーカーがスポンサーで栄養の話を少し絡める必要もあるようなので、第一線の研究者なら気乗りのしない仕事で、多分、引き受ける人がいなかったのだろうと思いますが、私でも多少の役に立つのなら、うれしいことです。
私はあとの人生は死ぬまで暇つぶししながら楽しく生きると決心したのです。楽しそうでストレスのないことはやる、楽しくないこと、ストレスが強いことはできるだけしない、と決めました。アドレナリンよりもセロトニン、使命感より幸福感、金より時間、力より自由(できるだけね)と決めたのでした。とはいうものの、なかなか人生は自ら生き方を自主的に選択するというよりは、しがらみや生活のために世間から小突き回されてなんとか生きているという方が多いと思いますけど、私は「世間から小突き回されて利用されて生きる」ことも、私が能動的に選択したことだと考えることにしました。あくまで私に選択権があり、気が変わればやめるだけのことだと考えることにしました。
基本的に責任感の強い日本人気質の私ですけど、というわけで、不義理をしたり期待に沿えないことに罪悪感を感じることはもうやめることにしました。そして、つい最近、定年後に中国に渡り、ベンチャー企業の研究開発部門で活躍中の年上の友人からきたメッセージには、「わがままに快適に余生を過ごすことを考えつつ頑張ります」とありました。私もそうしたいと思います。
旅行者として数日訪れたヨーロッパは子供のころの憧れそのままに、よい思い出しかありません。アジア人差別が世界的にエスカレートしている昨今では、住人となればイヤな部分を沢山感じるのは間違いないでしょうけども、今後、私がパリや他のヨーロッパの街に住むことはまずないと思うので、私にとってヨーロッパはきっと京都と同じように憧れの土地でありつづけるだろうと思います。ま、Virtual学会とはいえ、ヨーロッパに行ったつもりになって、楽しみたいと思います。