グラントのスコアが出ましたが、予想外に悪くがっかりしました。結構、自信もあったし複数の経験の豊かな人にも見せて好評だったので困惑しています。グラントのレビューアの評価が自分の評価と乖離していたこと、つまり、グラントレビューアと私が同期していない、ということが問題だと思いました。グラントレビューアの方が「外れている」のならいいのですが、私の方が外れているのなら致命的です。いずれにせよ、この結果、もし今後の対処が何も奏効せず、最悪のコースをとれば、来年の秋ごろには活動停止せざるを得ないということになります。早速、ウチの二人に状況を説明し、最悪の場合に備えて、終盤にかかっている数本の論文を今年中に投稿すること、来年の二月には先のことの予想ができると思うので、そこまでは全力疾走して、そのときに方針を決めよう、という話をしました。
長い人生、思わぬことがおこります。一寸先は闇で、スリルに満ちています。大学院時代の指導者の先生が「人生は先が見えないから面白い」と言っていたのを思い出しました。ま、何とかなるでしょう。綱渡りは私の得意技です。ただ家族や研究室の人を放り出すわけにはいかないので、その辺の算段がちょっとストレスです。
随分前にレビューした論文のリバイスのレビューの依頼が着ました。レビューしたことをすっかり忘れていましたが、図表をみて思い出しました。最初の投稿から殆ど変わっていません。いくらパッとしないジャーナルでもこれではダメだなと思って、ふと、カバーレターを覗いてみると、投稿したのは責任著者の人ではなく、別の国の共著者の人でした。当初の責任著者の健康がすぐれないので、かわりに投稿したとあります。レビューアへの返答を見ると、二、三のコントロールのデータを要求したものに対しては、「コントロールの実験はやっているのだが、責任著者のコンピューターからデータを引き出すことができない」というような言い訳が書いてありました。こういう返答は初めてです。普通は、こういう言い訳は通らないというところなのでしょうが、そもそもパッとしないジャーナルに投稿されたパッとしない論文で、コントロールに関しては、一応、データはあるが責任著者の健康問題が理由で物理的に出せない、という事情なのです。リジェクトになるとこの論文はおそらくオクラ入りになる可能性が高いのではないか、と思われました。
ウーム、どうしたものかな、と思いつつ、ふと所属学会からのいつものメールが着ていたので開けてパラパラと見ていたら、何と、この責任著者の人の訃報が出ていて驚きました。著者が死亡することと論文の中身は無関係ではありますが、私も「Compassion」の大切さを説くダライ ラマの言葉を信じている浪花節系日本人です。おそらく、殆ど読む人もないであろうと思われるこの論文で、著者が死亡してしまった以上、これ以上、論文が改善されることは望めないだろうし、コントロールのデータが出せないぐらいで、そこまで厳密にやることもなかろう、という気がしてきました。
杉浦日向子さんの漫画に、死ぬ前にコンニャクを井戸に落とした人の幽霊が毎日井戸を覗くという話がありました。人は死ぬとコンニャク一枚で冥土に渡れなかったりするらしいです。責任著者の人の訃報を聞いてこの話を思い出しました。この論文がリジェクトになった場合に、万が一、この人が成仏できなかったりしたら困るなあ、と思いました。所詮、サイエンスも人の業、死者の成仏を妨げてまで厳密さを追求するほどの価値はなかろう、と思いました。まだ、〆切まで数日あるので、どういうコメントをするか考えています。まさか、故人の冥福のためにアクセプトを推薦しますとは書けませんし。
ふと、夭折した大学時代の友人を思い出しました。大学院時代に研究に打ち込み過ぎて、アパートで一人、原因不明で亡くなってしまいました。過労死だったのかも知れません。亡くなってから一流紙に論文がでましたが、たかが研究に命を削るほどのことはないのに、と当時は思いました。(だから私は一流紙に無縁なのかもしれません)ポスドク時代にも同じように、一人でアパートで死んで行った友人がいました。彼らは幸せだったのかなあ、などと思いました。幸せであったと思いたいです。
「たかが研究」に限らず、世の中の殆どのものは「たかが」を前につけることができると思います。しかし、「たかが、、、されど、、、」といいつつ何かに一生懸命になることは尊いです。でもほどほどにすべきだと私は思います。博士号取得者の自殺/行方不明率というのは、そうでない人に比べて百倍以上も高いらしいです。何らかの理由で心も体も自ら削っていってしまうのです。一部は研究環境のストレスも理由になっているだろうと想像します。しかし、「たかが、、、」に振り回されて命を犠牲にしてしまってはいけません。
長い人生、思わぬことがおこります。一寸先は闇で、スリルに満ちています。大学院時代の指導者の先生が「人生は先が見えないから面白い」と言っていたのを思い出しました。ま、何とかなるでしょう。綱渡りは私の得意技です。ただ家族や研究室の人を放り出すわけにはいかないので、その辺の算段がちょっとストレスです。
随分前にレビューした論文のリバイスのレビューの依頼が着ました。レビューしたことをすっかり忘れていましたが、図表をみて思い出しました。最初の投稿から殆ど変わっていません。いくらパッとしないジャーナルでもこれではダメだなと思って、ふと、カバーレターを覗いてみると、投稿したのは責任著者の人ではなく、別の国の共著者の人でした。当初の責任著者の健康がすぐれないので、かわりに投稿したとあります。レビューアへの返答を見ると、二、三のコントロールのデータを要求したものに対しては、「コントロールの実験はやっているのだが、責任著者のコンピューターからデータを引き出すことができない」というような言い訳が書いてありました。こういう返答は初めてです。普通は、こういう言い訳は通らないというところなのでしょうが、そもそもパッとしないジャーナルに投稿されたパッとしない論文で、コントロールに関しては、一応、データはあるが責任著者の健康問題が理由で物理的に出せない、という事情なのです。リジェクトになるとこの論文はおそらくオクラ入りになる可能性が高いのではないか、と思われました。
ウーム、どうしたものかな、と思いつつ、ふと所属学会からのいつものメールが着ていたので開けてパラパラと見ていたら、何と、この責任著者の人の訃報が出ていて驚きました。著者が死亡することと論文の中身は無関係ではありますが、私も「Compassion」の大切さを説くダライ ラマの言葉を信じている浪花節系日本人です。おそらく、殆ど読む人もないであろうと思われるこの論文で、著者が死亡してしまった以上、これ以上、論文が改善されることは望めないだろうし、コントロールのデータが出せないぐらいで、そこまで厳密にやることもなかろう、という気がしてきました。
杉浦日向子さんの漫画に、死ぬ前にコンニャクを井戸に落とした人の幽霊が毎日井戸を覗くという話がありました。人は死ぬとコンニャク一枚で冥土に渡れなかったりするらしいです。責任著者の人の訃報を聞いてこの話を思い出しました。この論文がリジェクトになった場合に、万が一、この人が成仏できなかったりしたら困るなあ、と思いました。所詮、サイエンスも人の業、死者の成仏を妨げてまで厳密さを追求するほどの価値はなかろう、と思いました。まだ、〆切まで数日あるので、どういうコメントをするか考えています。まさか、故人の冥福のためにアクセプトを推薦しますとは書けませんし。
ふと、夭折した大学時代の友人を思い出しました。大学院時代に研究に打ち込み過ぎて、アパートで一人、原因不明で亡くなってしまいました。過労死だったのかも知れません。亡くなってから一流紙に論文がでましたが、たかが研究に命を削るほどのことはないのに、と当時は思いました。(だから私は一流紙に無縁なのかもしれません)ポスドク時代にも同じように、一人でアパートで死んで行った友人がいました。彼らは幸せだったのかなあ、などと思いました。幸せであったと思いたいです。
「たかが研究」に限らず、世の中の殆どのものは「たかが」を前につけることができると思います。しかし、「たかが、、、されど、、、」といいつつ何かに一生懸命になることは尊いです。でもほどほどにすべきだと私は思います。博士号取得者の自殺/行方不明率というのは、そうでない人に比べて百倍以上も高いらしいです。何らかの理由で心も体も自ら削っていってしまうのです。一部は研究環境のストレスも理由になっているだろうと想像します。しかし、「たかが、、、」に振り回されて命を犠牲にしてしまってはいけません。