古事記を読み、『つぎはぎ古事記入門』を書いていて、たくさんの神さまのうちで私の印象に最も残ったのが、大国主神(オオクニヌシノカミ)だ。平凡社刊『世界大百科事典』の「大国主神」によると《大国主命 (みこと)ともいう。日本神話にあらわれる神の名。記紀の神話に,葦原中国 (あしはらのなかつくに) の国作りを行い,国土を高天原 (たかまがはら) の神に国譲りした神として語られている。素戔嗚尊 (すさのおのみこと) の5世の孫 (古事記) または子 (日本書紀) とされる。名義は大いなる国主の意で,天津神 (あまつかみ) (高天原の神々) の主神たる天照大神 (あまてらすおおかみ) に対して国津神 (くにつかみ) (土着の神々) の頭領たる位置をあらわす》。
※トップ画像は大黒天(「筆まめVer.8」より)。七福神の大黒天は、大国主神と密教の大黒天(マハーカーラ)が習合した神である
《大国主にはなお大己貴命 (おおなむちのみこと), 葦原醜男 (あしはらのしこお),八千矛神(やちほこのかみ), 顕国玉神 (うつしくにたまのかみ)などの別名がある。これはこの神が多くの神格の集成・統合として成った事情にもとづいており,そこからオオクニヌシ神話はかなり多様な要素を含むものとなっている。ただ多くの別名のうちオオクニヌシの原型をなすのはオオナムチである》。

こちらは、出雲大社境内にある大国主神のご神像。1月28日撮影
日本書紀と違い、古事記には、大国主を主人公とした多くの出雲神話が登場する。三浦佑之著『古事記講義』(文藝春秋刊)によると《7世紀以前の王権に向き合いながら世界を語ろうとする古事記にとって、出雲という世界は強大な対立者として存在しました。そして、その出雲を打ち倒すことによってヤマトの王権は成立したのだということを語るために、古事記では、オホクニヌシを中心とした出雲の神がみの物語が必要だったのです》。以前、当ブログで紹介した『古事記の世界』(西郷信綱著)の「範疇表」を思い出していただきたい。高天原系の神さま(天つ神)との対立軸として出雲系の神さま(国つ神)がおり、その頭目が大国主だったのである。
甲類 高天の原(a) 天つ神(b) 伊勢(c)日向(ヒムカ d)大和(e)
乙類 葦原中国(a')国つ神(b') 出雲(c')襲(ソ d') 熊野(e')
乙'類 黄泉の国・根の国(a'')
古事記では「大国主神の国譲り」により、出雲系の神さまが治めていた葦原中国(日本の国土)は、天照大神など高天原系の神さまに“平和裡に自主的に譲渡”されたことになっている(葦原中国平定)。大国主神は平和的に国を譲るための条件として、壮大な建物を要求した。鈴木三重吉著『古事記物語』によると、大国主神はこのように語る。《私にはもう何も異存はございません。この中つ国はおおせのとおり、すっかり、大神のお子さまにさしあげます。その上でただ一つのおねがいは、どうぞ私の社(やしろ)として、大空の神の御殿のような、りっぱな、しっかりした御殿をたてていただきとうございます。そうしてくださいませば私は遠い世界から、いつまでも大神のご子孫にお仕え申します》。その「社」が出雲大社なのである。

出雲大社宝物殿の前にあった古代の本殿(高さ48m)の心柱模型(太さは実物大)。3本セットで組まれていて、1本だけでも大仏殿の柱より太い。モデルは、出雲に同行した同僚のSくん(身長約180cm)
この“平和的国譲り”という通説に異を唱えたのが、井沢元彦である。小学館文庫『逆説の日本史(1)古代黎明編』によると、大国主神は、高天原の神により国土を奪われ、自殺に追い込まれた(または処刑された)。不幸な死に方をした霊は「怨霊(おんりょう)」となって祟(たた)る。「どうか祟りませんように」との願いをこめて建てたのが出雲大社なのだという。
だから《出雲大社は大怨霊オオクニヌシを封じ込めた神殿である》《出雲は、オオクニヌシという「死の世界の王」が封じ込められている「死の国」なのだ》《私はオオクニヌシは実在したと思う。少なくとも、その有力なモデルとなった人物はいたはずだ。それは大和朝廷に抵抗した先住民族の王であり、大和朝廷はこれを滅ぼしたために、この人物の怨霊を、あるいはもっと正確に言えば祭祀を絶やすことによって怨霊化することを恐れた。それゆえ、天皇の宮殿「御所」よりも国教の神殿「東大寺」よりも「大きな」建物にオオクニヌシを祀り込めたのだと思う》。

島根県立古代出雲歴史博物館に展示されていた、平安時代の出雲大社本殿(1/10模型)
出雲大社が、平安京の大極殿や東大寺の大仏殿より大きかった、という根拠は、「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という言葉である。井沢によると《これは平安時代に源為憲(みなもとのためのり)という人が書いた『口遊(くちずさみ)』という本に出てくる言葉で、実は日本の三大建築物を意味している》。つまり、出雲大社は大仏殿(大和)や大極殿(京都)より高かったということである。島根県制作の「出雲大社ご参拝帖」にも《現在の御本殿は高さ24メートルで1774年に3年半の歳月をかけて完成しました。古くは倍の48メートルの御本殿が建っていました》とある。
しかも井沢によると「出雲」という地名は、「太陽」神である天照大神を隠す「雲」という意味で、天照大神への反逆勢力という意味である。大津皇子が自害させられる直前に詠んだ「百伝(もも)つたふ いはれの池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ」にも出てくるように、雲はもともと「死」の象徴であった…。井沢の推理はまだまだ続き、良質のミステリーを読むようなドキドキ感が楽しめるのだが、この辺で切り上げる。井沢説の詳細は、桑原政則氏のブログをご覧いただきたい。

階段の一番下から見上げたところ。人間が豆粒のように見える
井沢説に相当肩入れしてしまったので、バランスをとるために故樋口清之氏(奈良県桜井市出身)の説を併記しておく。『逆・日本史第4巻』祥伝社刊(P289~)より。国譲り神話は《全体の流れからすると、まことにとってつけた話のような印象を受ける。こんな簡単に国譲りが終了したのなら、天地開闢(かいびゃく)という大事件の次を飾るエピソードに、わざわざ挙げることもないはずである。それを、あえて天孫降臨の前に付け加えたというのには、それ相当の意図が働いていた。そしてそれは、大和の政権にとって出雲地方の勢力が無視できない存在だったからであり、正史の中に『何故、大和が出雲に優越した存在か』という理由づけを、どうしても明記しておく必要があったからである》。
《だが、ここで誤解しないでもらいたいのだが、私は『出雲地方の政権が大和政権に制服された』とする説に賛成している訳ではない。というのも、出雲と大和は血を分けた兄弟、つまり両方とも同じ文化圏に属しており、それは出雲から出土する銅器に、大和とは独立した独自の形式を持ったものが存在しないことからも分かる。確かに、出雲を含む中国地方からは、多量の遺物が見つかっている。昭和59年には、島根県の荒神谷からは358本もの銅剣が発掘され、また銅鐸や銅矛も発見されている。出雲地方の豊かな経済力を物語る遺物と言えよう。この銅剣の量は、これまで全国各地で発見された銅剣の数より多い。とは言え、出雲独自の文化を示す形式のものは何一つ出土しておらず、大和文化の流れを汲むものばかりである。また、言語の点から言っても、出雲と大和は同系なのである》。

これは圧巻、荒神谷遺跡出土銅剣(国宝)。古代出雲歴史博物館に展示されている
《このことから見ても、大和と出雲は文化的に兄弟の関係にあったことは明確である。つまり、この二つの地方の文化的ルーツは同じであり、それが枝分かれして、大和と出雲で強大な勢力に成長した後、兄貴分の大和が弟分の出雲に、『本家は、オレなのだから忘れるなよ。だから、祭礼のスタイルにしても、風俗などの文化形態にしても大和の様式を守り、恥ずかしくないように振舞え』と言うのが国譲りの真相なのであろう。だから、そこに他民族に対するような武力的な征服があったとは、到底考えられない》。
《平安時代に作られた『延喜(えんぎ)式』の中に、天皇の即位の儀式・大嘗(おおなめ)祭の時に、出雲の国造(くにのみやつこ)が、天皇に述べる祝いの言葉が記されている。『出雲国造の神賀詞(かむほぎのことば)』というのがそれだが、この慣例も大和と出雲の友好的な関係を示している。あたかも、お正月に分家の主人が本家へお年始に伺うと言った趣であり、『遠くの身内より近くの他人』という言葉が示すように、そこにはなんらかの確執はあったろうが、根底に癒しがたい対立関係が存在したはずがない》。

出雲大社神楽殿。2,000人収容270畳の大広間がある。出雲大社の注連縄の向きは普通と逆で向かって右が(豚の尻尾のような)「綯始(ないはじめ)」。井沢曰く《死者の着物を「左前」にするのと同じ》
なお冒頭に引用した『世界大百科事典』の「オオクニヌシ像の変遷」によると《オオクニヌシの祖型としてのオオナムチ(大己貴、大穴牟遅)はスクナビコナ(少名毘古那)と組みをなして記紀以外の文献,伝承にもっとも多く語られた神である。そこでは『出雲国風土記』に見える〈五百 (いお) つ妊(すき) の妊猶 (なお) 取り取らして天の下造らしし大穴持 (おおなもち) の命〉との呼び方や,『播磨国風土記』に伝える2神の我慢くらべ譚,オオナムチが〈屎 (くそ) まらずして〉スクナビコナが赤土の重荷を背負ってどこまで歩き続けられるかを競った話のような土着臭の強い神としてあらわれ,記紀の時代以後も諸書に伝承の痕跡を残している》。

松江市No.1の縁結びスポット・八重垣神社。注連縄の向きは普通と同じである(出雲大社とは逆)
《オオナムチあるいはオオナモチの名義は,〈大穴持〉の文字よりすれば洞窟にいる神を意味し,その在地性に即した名といえよう。なお平安末期には大黒天(だいこくてん)を食厨の神として寺院の庫裏にまつる風が生じており,近世期には七福神のひとつとして流布されるが,その過程でオオクニヌシは大黒天と習合されるにいたった。〈大国〉あるいは〈大己貴〉の音をもって通わせたといわれるが,大黒天像の袋を背負い米俵をふまえた姿はなお古代の農神の面影を伝えており,西日本において大黒天が〈田の神〉として信仰されたのも同様の理由によると思われる。またオオクニヌシは現在も“縁結び”の神とされるが,これは記紀のオオクニヌシが子福者であり,〈其の子凡て百八十一神ます〉 (日本書紀) とされたことの世俗化であろう》。
古事記が献上された当日の1月28日、出雲大社にお参りしたところ、「死の世界の王」大国主神は、偉大なる「縁結びの神さま」に、見事に変身していた。AllAboutの「【島根】神々おわす出雲で縁結びを祈る女子旅」によると《日本のパワースポット真打ち登場! 国造り神話の里・出雲では「ミッション縁結び」が進行中。良縁を求める女子が続々と訪れています。八百万の神々に祈りを捧げて良縁を願い、温泉で肌に磨きをかけて、「ご縁力」をチャージする旅に出かけましょう!》。

HPによると《八重垣神社は出雲の縁結びの大神として知られている。八岐大蛇退治で名高い素盞嗚尊と、国の乙女の花と歌われた稲田姫命の御夫婦が主祭神》
《「今回の行き先は出雲です」と、オールアバウトのスタッフN嬢(30代)。なぜかソワソワ気味。理由を聞くと「だって縁結びの神様、出雲大社に行きたいじゃないですか!」と。婚活中の彼女、すでに頭には鳥居がイメージされている模様。(中略) 東京から出雲は意外と近い。羽田から飛行機で1時間半。空港の愛称はズバリ「出雲縁結び空港」。地元を挙げて縁結びの地をアピールしてます。実は寝台特急「サンライズ出雲」なら、東京から出雲市まで乗り換えなしで行けるのですが、夏休みの寝台券はプラチナチケットと化すのであえなく断念》。
《縁結びの神様として知られる出雲大社ですが、ここ数年は、良縁を求める女子の間では最後の聖地とさえ言われています。(中略)商工会で作成したという「出雲大社ご参拝ガイド」によると、出雲大社でお祀りしているのは大国主大神(おおくにぬしのおおかみ=だいこくさま)。縁とは男女の縁に限らず、人や生きるものすべての縁をさすともいいます。驚いたのが、大神さまゆえ、一度に多くの人が複数のお願いをしても聞き入れてくださる、という点。なんという偉大なだいこくさま!》。

《やはり境内で目立つのは、女性ひとり旅やグループ。そして、大半が必要以上に着飾らないナチュラル系美人。素の自分に戻れる場所なのかもしれません。拝殿でのお祈りは二礼四拍手一礼という独自のもの。だいこくさまはあらゆる縁(えにし)を結んでくださる神様。横でただならぬ真剣さを漂わせながら祈るN嬢が気になりながらも、私もここに来た何かの縁に不思議と感謝せずにはいられませんでした。(※現在本殿は「平成の大遷宮」という改修工事のため、平成25年5月までは御仮殿での参拝となります)》。
通常の参拝は、2礼「2拍手」1礼だが、出雲大社は2礼「4拍手」1礼。『逆説の日本史』によるとこの「4」は「死」なのだという。井沢曰く《オオクニヌシの「死」こそ、この世を治める大和朝廷にとっては、何よりもめでたいことなのだ。オオクニヌシが自分の「死」を自覚せず、この世に戻って来ること、それが1番恐ろしい。そのためには社頭で「死」を呼ぶ「シ拍手」をうつのが1番いい、「祀る」側はそのように考えたのだろう》。「縁結びの神さま」となった今ならさしずめ、「4は幸せのシ」とか理由づけるところか。
「神さまのご利益は、時代のニーズが作り出す」という話がある。昔は交通が未発達だったはずだが、今、やたら「交通安全の神さま」が多いのは「時代のニーズ」の賜物である。「受験の神さま」が多いのも同様で、これは納得できる。ニーズさえあれば「死の世界の王」は、たやすく「ミッション縁ポシブル」の神さまに変身するのである。
それにしても古事記の読み解きは、興味が尽きない。井沢説が正しいのか、樋口説が正しいのか、はたまた最近公になった梅原猛の説(『葬られた王朝』)が正しいのか、私には判断がつきかねるが、あれこれ考えながら書物を渉猟するのは楽しい。皆さんも、そんなことを頭に置きながら、古事記ゆかりの地をお訪ねいただきたい。
※トップ画像は大黒天(「筆まめVer.8」より)。七福神の大黒天は、大国主神と密教の大黒天(マハーカーラ)が習合した神である
《大国主にはなお大己貴命 (おおなむちのみこと), 葦原醜男 (あしはらのしこお),八千矛神(やちほこのかみ), 顕国玉神 (うつしくにたまのかみ)などの別名がある。これはこの神が多くの神格の集成・統合として成った事情にもとづいており,そこからオオクニヌシ神話はかなり多様な要素を含むものとなっている。ただ多くの別名のうちオオクニヌシの原型をなすのはオオナムチである》。

こちらは、出雲大社境内にある大国主神のご神像。1月28日撮影
日本書紀と違い、古事記には、大国主を主人公とした多くの出雲神話が登場する。三浦佑之著『古事記講義』(文藝春秋刊)によると《7世紀以前の王権に向き合いながら世界を語ろうとする古事記にとって、出雲という世界は強大な対立者として存在しました。そして、その出雲を打ち倒すことによってヤマトの王権は成立したのだということを語るために、古事記では、オホクニヌシを中心とした出雲の神がみの物語が必要だったのです》。以前、当ブログで紹介した『古事記の世界』(西郷信綱著)の「範疇表」を思い出していただきたい。高天原系の神さま(天つ神)との対立軸として出雲系の神さま(国つ神)がおり、その頭目が大国主だったのである。
甲類 高天の原(a) 天つ神(b) 伊勢(c)日向(ヒムカ d)大和(e)
乙類 葦原中国(a')国つ神(b') 出雲(c')襲(ソ d') 熊野(e')
乙'類 黄泉の国・根の国(a'')
古事記では「大国主神の国譲り」により、出雲系の神さまが治めていた葦原中国(日本の国土)は、天照大神など高天原系の神さまに“平和裡に自主的に譲渡”されたことになっている(葦原中国平定)。大国主神は平和的に国を譲るための条件として、壮大な建物を要求した。鈴木三重吉著『古事記物語』によると、大国主神はこのように語る。《私にはもう何も異存はございません。この中つ国はおおせのとおり、すっかり、大神のお子さまにさしあげます。その上でただ一つのおねがいは、どうぞ私の社(やしろ)として、大空の神の御殿のような、りっぱな、しっかりした御殿をたてていただきとうございます。そうしてくださいませば私は遠い世界から、いつまでも大神のご子孫にお仕え申します》。その「社」が出雲大社なのである。

出雲大社宝物殿の前にあった古代の本殿(高さ48m)の心柱模型(太さは実物大)。3本セットで組まれていて、1本だけでも大仏殿の柱より太い。モデルは、出雲に同行した同僚のSくん(身長約180cm)
この“平和的国譲り”という通説に異を唱えたのが、井沢元彦である。小学館文庫『逆説の日本史(1)古代黎明編』によると、大国主神は、高天原の神により国土を奪われ、自殺に追い込まれた(または処刑された)。不幸な死に方をした霊は「怨霊(おんりょう)」となって祟(たた)る。「どうか祟りませんように」との願いをこめて建てたのが出雲大社なのだという。
だから《出雲大社は大怨霊オオクニヌシを封じ込めた神殿である》《出雲は、オオクニヌシという「死の世界の王」が封じ込められている「死の国」なのだ》《私はオオクニヌシは実在したと思う。少なくとも、その有力なモデルとなった人物はいたはずだ。それは大和朝廷に抵抗した先住民族の王であり、大和朝廷はこれを滅ぼしたために、この人物の怨霊を、あるいはもっと正確に言えば祭祀を絶やすことによって怨霊化することを恐れた。それゆえ、天皇の宮殿「御所」よりも国教の神殿「東大寺」よりも「大きな」建物にオオクニヌシを祀り込めたのだと思う》。

島根県立古代出雲歴史博物館に展示されていた、平安時代の出雲大社本殿(1/10模型)
出雲大社が、平安京の大極殿や東大寺の大仏殿より大きかった、という根拠は、「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という言葉である。井沢によると《これは平安時代に源為憲(みなもとのためのり)という人が書いた『口遊(くちずさみ)』という本に出てくる言葉で、実は日本の三大建築物を意味している》。つまり、出雲大社は大仏殿(大和)や大極殿(京都)より高かったということである。島根県制作の「出雲大社ご参拝帖」にも《現在の御本殿は高さ24メートルで1774年に3年半の歳月をかけて完成しました。古くは倍の48メートルの御本殿が建っていました》とある。
しかも井沢によると「出雲」という地名は、「太陽」神である天照大神を隠す「雲」という意味で、天照大神への反逆勢力という意味である。大津皇子が自害させられる直前に詠んだ「百伝(もも)つたふ いはれの池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ」にも出てくるように、雲はもともと「死」の象徴であった…。井沢の推理はまだまだ続き、良質のミステリーを読むようなドキドキ感が楽しめるのだが、この辺で切り上げる。井沢説の詳細は、桑原政則氏のブログをご覧いただきたい。

階段の一番下から見上げたところ。人間が豆粒のように見える
井沢説に相当肩入れしてしまったので、バランスをとるために故樋口清之氏(奈良県桜井市出身)の説を併記しておく。『逆・日本史第4巻』祥伝社刊(P289~)より。国譲り神話は《全体の流れからすると、まことにとってつけた話のような印象を受ける。こんな簡単に国譲りが終了したのなら、天地開闢(かいびゃく)という大事件の次を飾るエピソードに、わざわざ挙げることもないはずである。それを、あえて天孫降臨の前に付け加えたというのには、それ相当の意図が働いていた。そしてそれは、大和の政権にとって出雲地方の勢力が無視できない存在だったからであり、正史の中に『何故、大和が出雲に優越した存在か』という理由づけを、どうしても明記しておく必要があったからである》。
《だが、ここで誤解しないでもらいたいのだが、私は『出雲地方の政権が大和政権に制服された』とする説に賛成している訳ではない。というのも、出雲と大和は血を分けた兄弟、つまり両方とも同じ文化圏に属しており、それは出雲から出土する銅器に、大和とは独立した独自の形式を持ったものが存在しないことからも分かる。確かに、出雲を含む中国地方からは、多量の遺物が見つかっている。昭和59年には、島根県の荒神谷からは358本もの銅剣が発掘され、また銅鐸や銅矛も発見されている。出雲地方の豊かな経済力を物語る遺物と言えよう。この銅剣の量は、これまで全国各地で発見された銅剣の数より多い。とは言え、出雲独自の文化を示す形式のものは何一つ出土しておらず、大和文化の流れを汲むものばかりである。また、言語の点から言っても、出雲と大和は同系なのである》。

これは圧巻、荒神谷遺跡出土銅剣(国宝)。古代出雲歴史博物館に展示されている
《このことから見ても、大和と出雲は文化的に兄弟の関係にあったことは明確である。つまり、この二つの地方の文化的ルーツは同じであり、それが枝分かれして、大和と出雲で強大な勢力に成長した後、兄貴分の大和が弟分の出雲に、『本家は、オレなのだから忘れるなよ。だから、祭礼のスタイルにしても、風俗などの文化形態にしても大和の様式を守り、恥ずかしくないように振舞え』と言うのが国譲りの真相なのであろう。だから、そこに他民族に対するような武力的な征服があったとは、到底考えられない》。
《平安時代に作られた『延喜(えんぎ)式』の中に、天皇の即位の儀式・大嘗(おおなめ)祭の時に、出雲の国造(くにのみやつこ)が、天皇に述べる祝いの言葉が記されている。『出雲国造の神賀詞(かむほぎのことば)』というのがそれだが、この慣例も大和と出雲の友好的な関係を示している。あたかも、お正月に分家の主人が本家へお年始に伺うと言った趣であり、『遠くの身内より近くの他人』という言葉が示すように、そこにはなんらかの確執はあったろうが、根底に癒しがたい対立関係が存在したはずがない》。

出雲大社神楽殿。2,000人収容270畳の大広間がある。出雲大社の注連縄の向きは普通と逆で向かって右が(豚の尻尾のような)「綯始(ないはじめ)」。井沢曰く《死者の着物を「左前」にするのと同じ》
なお冒頭に引用した『世界大百科事典』の「オオクニヌシ像の変遷」によると《オオクニヌシの祖型としてのオオナムチ(大己貴、大穴牟遅)はスクナビコナ(少名毘古那)と組みをなして記紀以外の文献,伝承にもっとも多く語られた神である。そこでは『出雲国風土記』に見える〈五百 (いお) つ妊(すき) の妊猶 (なお) 取り取らして天の下造らしし大穴持 (おおなもち) の命〉との呼び方や,『播磨国風土記』に伝える2神の我慢くらべ譚,オオナムチが〈屎 (くそ) まらずして〉スクナビコナが赤土の重荷を背負ってどこまで歩き続けられるかを競った話のような土着臭の強い神としてあらわれ,記紀の時代以後も諸書に伝承の痕跡を残している》。

松江市No.1の縁結びスポット・八重垣神社。注連縄の向きは普通と同じである(出雲大社とは逆)
《オオナムチあるいはオオナモチの名義は,〈大穴持〉の文字よりすれば洞窟にいる神を意味し,その在地性に即した名といえよう。なお平安末期には大黒天(だいこくてん)を食厨の神として寺院の庫裏にまつる風が生じており,近世期には七福神のひとつとして流布されるが,その過程でオオクニヌシは大黒天と習合されるにいたった。〈大国〉あるいは〈大己貴〉の音をもって通わせたといわれるが,大黒天像の袋を背負い米俵をふまえた姿はなお古代の農神の面影を伝えており,西日本において大黒天が〈田の神〉として信仰されたのも同様の理由によると思われる。またオオクニヌシは現在も“縁結び”の神とされるが,これは記紀のオオクニヌシが子福者であり,〈其の子凡て百八十一神ます〉 (日本書紀) とされたことの世俗化であろう》。
古事記が献上された当日の1月28日、出雲大社にお参りしたところ、「死の世界の王」大国主神は、偉大なる「縁結びの神さま」に、見事に変身していた。AllAboutの「【島根】神々おわす出雲で縁結びを祈る女子旅」によると《日本のパワースポット真打ち登場! 国造り神話の里・出雲では「ミッション縁結び」が進行中。良縁を求める女子が続々と訪れています。八百万の神々に祈りを捧げて良縁を願い、温泉で肌に磨きをかけて、「ご縁力」をチャージする旅に出かけましょう!》。

HPによると《八重垣神社は出雲の縁結びの大神として知られている。八岐大蛇退治で名高い素盞嗚尊と、国の乙女の花と歌われた稲田姫命の御夫婦が主祭神》
《「今回の行き先は出雲です」と、オールアバウトのスタッフN嬢(30代)。なぜかソワソワ気味。理由を聞くと「だって縁結びの神様、出雲大社に行きたいじゃないですか!」と。婚活中の彼女、すでに頭には鳥居がイメージされている模様。(中略) 東京から出雲は意外と近い。羽田から飛行機で1時間半。空港の愛称はズバリ「出雲縁結び空港」。地元を挙げて縁結びの地をアピールしてます。実は寝台特急「サンライズ出雲」なら、東京から出雲市まで乗り換えなしで行けるのですが、夏休みの寝台券はプラチナチケットと化すのであえなく断念》。
《縁結びの神様として知られる出雲大社ですが、ここ数年は、良縁を求める女子の間では最後の聖地とさえ言われています。(中略)商工会で作成したという「出雲大社ご参拝ガイド」によると、出雲大社でお祀りしているのは大国主大神(おおくにぬしのおおかみ=だいこくさま)。縁とは男女の縁に限らず、人や生きるものすべての縁をさすともいいます。驚いたのが、大神さまゆえ、一度に多くの人が複数のお願いをしても聞き入れてくださる、という点。なんという偉大なだいこくさま!》。

画像は「筆まめVer.8」より
《やはり境内で目立つのは、女性ひとり旅やグループ。そして、大半が必要以上に着飾らないナチュラル系美人。素の自分に戻れる場所なのかもしれません。拝殿でのお祈りは二礼四拍手一礼という独自のもの。だいこくさまはあらゆる縁(えにし)を結んでくださる神様。横でただならぬ真剣さを漂わせながら祈るN嬢が気になりながらも、私もここに来た何かの縁に不思議と感謝せずにはいられませんでした。(※現在本殿は「平成の大遷宮」という改修工事のため、平成25年5月までは御仮殿での参拝となります)》。
通常の参拝は、2礼「2拍手」1礼だが、出雲大社は2礼「4拍手」1礼。『逆説の日本史』によるとこの「4」は「死」なのだという。井沢曰く《オオクニヌシの「死」こそ、この世を治める大和朝廷にとっては、何よりもめでたいことなのだ。オオクニヌシが自分の「死」を自覚せず、この世に戻って来ること、それが1番恐ろしい。そのためには社頭で「死」を呼ぶ「シ拍手」をうつのが1番いい、「祀る」側はそのように考えたのだろう》。「縁結びの神さま」となった今ならさしずめ、「4は幸せのシ」とか理由づけるところか。
「神さまのご利益は、時代のニーズが作り出す」という話がある。昔は交通が未発達だったはずだが、今、やたら「交通安全の神さま」が多いのは「時代のニーズ」の賜物である。「受験の神さま」が多いのも同様で、これは納得できる。ニーズさえあれば「死の世界の王」は、たやすく「ミッション縁ポシブル」の神さまに変身するのである。
それにしても古事記の読み解きは、興味が尽きない。井沢説が正しいのか、樋口説が正しいのか、はたまた最近公になった梅原猛の説(『葬られた王朝』)が正しいのか、私には判断がつきかねるが、あれこれ考えながら書物を渉猟するのは楽しい。皆さんも、そんなことを頭に置きながら、古事記ゆかりの地をお訪ねいただきたい。