2/10(金)、春日大社権宮司(ごんぐうじ=副代表)である岡本彰夫さんによる「奈良の観光についての所感と提言」という90分の講演をお聞きする機会に恵まれた。昨年12/7(水)にも、同じ演題による岡本さんの講演会が奈良県立大学で開かれ、聞いた人が「とても面白かったけど、途中で終わってしまって残念だった。ぜひ、あの続きを聞きたい」と言っていた。
※追記 2015年1月22日にも、岡本権宮司は同タイトルの講話をされた。その内容はこちら。
県立大の講演会は60分だったが、今回はたっぷり90分とってあったので「きっと最後までお聞きできるだろう」と大いに期待して出席した。以下、配布資料と私が書いたメモ、そこにネットで調べた情報を加え、tetsuda流に講演の概要を再構成してみる。
○皆さんのなかには「環濠(かんごう)集落にお住まいの方がいらっしゃると思う。私は曽爾村に生まれ、郡山高校に入学して初めて国中(くんなか=奈良盆地)に出てきて、立派な環濠集落が多いことに驚かされた。環濠集落は大和の宝である。環濠集落に人を連れてきて地域の活性化を図りたいと思うが、住民がそれを嫌われるのではないかという懸念があるのと(稗田環濠集落は大和郡山市が力を入れている由)、おカネを落してもらう仕組みづくりができていないのがネックである。環濠集落にお住まいの皆さん、ぜひ中から(住民から)気運を盛り上げていただきたい。
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○日本3大勅祭とは、春日祭(春日大社)、 葵(あおい)祭(上賀茂・下鴨の両神社)、 石清水(いわしみず)祭(石清水八幡宮)の3つである。《春日祭(かすがのまつり/かすがさい)とは、奈良県奈良市の春日大社の例祭。かつては2月・11月の上申日(当該月の最初の申の日)に行われたが、明治19年(1886年)以後は新暦の3月13日に統一されている。通説とされる春日祭の創始は、嘉祥3年(850年)とされている(『一代要記』)》(Wikipedia)。
《春日祭は藤原氏の祀りとして藤氏長者・斎女またはその名代の使者の参詣、朝廷でも上卿・弁が定められて使者が派遣され、天暦元年(947年)には興福寺が関与するようになり、永祚元年(989年)には一条天皇の行幸が実現するなど、摂関政治の繁栄とともにその規模を拡大させてきた。中世後期(戦国時代)以後には衰退し、江戸時代には復興の動きが見られるが、上卿・弁の派遣の停止など簡略化された。明治4年(1871年)には祭日を2月1日とする官社祭式で行われることとなった。明治18年(1885年)に明治天皇の旧儀再興の意向を受けて翌年勅祭に列せられ、今日の形式になった》(同)。
○3大勅祭のうち、葵祭も石清水祭も、応仁の乱後に中断がある。しかし、奈良はほぼ断絶がない。春日祭だけでなく、お水取りも、おん祭りも然り。
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○春日大社の式年遷宮は770年以来途絶えることなく行われた(伊勢神宮の式年遷宮は戦国時代に一時途絶えた)。式年造替を陰で支えてきたのは様々な職人、工人。20年毎に行われるのは、その技術、技能を絶やさないための知恵であり、これが30年では継承できない。儀式の中にも職人、工人に対する顕彰が入っており、日本は、これら匠の技術を尊び、守ってきた。日本の工業生産力が世界に冠たるもとは、「匠の技」だといわれるが、職人、工人の技術・技能を尊び、守り、彼らが誇りを持って研鑽できる環境が次第に失われようとしている。そのような中にあって、春日大社の式年造替は、日本の心を伝え守るよすがとなっている。
○公慶上人は、いわば奈良観光の先駆者である。《慶安元年11月15日(1648年12月29日)~宝永2年7月12日(1705年8月30日))は、江戸時代前期の日本における、三論宗の僧の一人である。東大寺の大仏および大仏殿の再建に尽力した人物。丹後国宮津(現・京都府北部宮津市)の生まれである。(中略) 永禄10年(1567年)の兵火によって大仏殿が焼失し、大仏が露座のまま雨ざらしとなっていることを嘆き、大仏殿再建を決意する。貞享元年(1684年)江戸幕府の許可を得て、「一紙半銭」をスローガンに全国に勧進を進め、7年後には1万1千両にまで達した。これは現在の貨幣価値に換算するとおよそ10億円にも及ぶ。徳川綱吉の援助もあり、元禄5年(1692年)に大仏の修理が完成して開眼法要を行った》(Wikipedia)。大仏開眼の法会中は、大坂の高麗橋から奈良までの道は、籠が数珠つなぎになって動けなかったそうだ。
○奈良は日本人が誇りを取り戻すところ。精神性・心の文化重視を(教育や心の問題につながる本来の観光、国益を重視した観光に最適の地。自然との共生など)。
○日本人はモノとカネに走ったので、今や誇りを失い、自信をなくしている。日本人は自らの技術について誇りを持ち、向上心があり、真心を持っている。そして探究心が強く、事物の蘊奥(うんおう)に迫ろうとする。とにもかくにも、日本人は誇りを取り戻さなければならない。
○奈良は「1300年前固定型」(1300年前という「時点」にとらわれている)から脱却しなければならない。奈良は神話時代から近代まで、連綿と続いているし、それだけの素材がある。社寺(=心のよりどころ、伝統文化の継承母体)、神話・伝承、町並み、菓子など。
○菓子の発祥地は奈良である。遣唐使が運んできた唐菓子がルーツ。春日大社には古代から受け継がれている神仏へささげるお菓子が今もあり、祭事のたびに手作りしている。
○こんなに歴史のある奈良に、うまい食べ物がないわけがない。江戸時代に編纂された地誌に、県が大和野菜としてPRしている川西町産のネギ「結崎(ゆうざき)ネブカ」が絶品と記述されている。食の根源に触れるのは面白いこと。大和にはうまいものがいっぱい隠れている。
○大和の人は、大和に誇りを持っていない、だから地元に関する知識も乏しい。それが残念である。今年は「古事記完成1300年」なので、間違いなく観光客が来る。しかし県民は、予備知識を持っているだろうか。例えば、今は田んぼになっている「宇陀の血原(ちはら)」(神武東征ゆかりの地)など、各所に神話にちなむ場所が伝承されていて、大和では民のレベルで神話を守り伝えてきたことがわかる。
○私は祖母に育てられ、祖母から大きな影響を受けた。曽爾村(宇陀郡)にある国見山は神武天皇が国見をしたと伝えられる山である。その伝説を祖母は昨日のことのように話してくれた。1940年(昭和15年)の紀元2600年奉祝行事は、国民的行事として盛大に開催された。しかし1990年(平成2年)の紀元2650年は、実に寂しいものだった。
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○来年(2013年)は、天誅組(てんちゅうぐみ)150年である。天誅組の伴林光平(中宮寺宮の侍講)は「雲を踏み嵐を攀(よ)じて御熊野(みくまの)の 果無(はてな)し山の果ても見しかな」というすさまじい歌を残している。全く「若気の至り」とでもいうほかない無謀な蹶起であったが、彼らは自分のために死んだのではなく、天下国家のために命を擲(なげう)ったのである。東吉野村天誅組顕彰会は、天誅組サミットと天誅義士の慰霊法要の開催を予定しているそうだが、他にめぼしい動き(大河ドラマ「天誅組」など)が出てこないのが寂しい。
○奈良は社寺と文化と自然が共生している。観光客には泊まってもらわなければ、その良さはわからない。現状は京都に泊り奈良は日帰り。県中南部の振興なくしては北和も栄えることはない。
私のメモの追いついた範囲内での概要は、以上のとおりである。奈良まほろばソムリエ仲間のkozaさんが、ご自身のブログ「大和・桜井の歴史と社会。季節に合わせてゆっくり歩く」で、岡本さんのご著書を紹介していた。《大和古物拾遺を読んだ。昨年の秋の刊行である。ペリカン社。著者は岡本彰夫さんという。同じシリーズで大和古物散策、大和古物漫遊という本がある。10年来の刊行である。散策が3000部、漫遊が5000部の初版で絶版、普通では手に入らない。古本屋だと今では定価の10倍もする(著者による)とのことである》。
《著者の岡本彰夫さん、春日大社の権宮司である。77年に国学院大学を修了され、春日大社一筋という方である。岡本さん、もともとは春日さんの宮司の家系の方ではなく、宇陀は曾爾村の「どこへやらまでは他人の土地を踏まずに行けた」という山持ち、豪農の子であり、書画骨董は子供の時からの素養でもあろう。話は骨董品のこと?そうなんだけど、これがおもしろい。とにかく書画骨董に造詣が深く、器物の本来の姿を見つめ、骨董品を通してその時代を見極める「中世」考古学を読むようで楽しい》。
《書画骨董を通しての人物像もかたられており、森川杜園、奥田木白はもちろんのこと、川路聖謨、伴林光平、公慶上人、湛海律師とか筒井順慶まで幅広い。今ではすたれた奈良の工芸技術にも思いを寄せられる。おん祭りの「装束賜り」のときに使う千切台(ちきりだい)、奈良の三茶碗、瑠璃之燈籠などの解説、宮司だからこそという解説もあり興味深い。森川杜園の辞世も紹介している。罷出(まかりで)て あらぬ手業(てわざ)を世に残し さも恥つかしと 身は隠れつる 森川杜園》 。
2/10の講演は、とても斬新で内容の濃いものだった。名人の落語を思わせる語り口で、90分があっという間であった。レジメ「奈良観光についての所感と提言」だけで8ページ、付属の史料集が32ページ(「作るのに30年かかった」とのこと)もあり、これを90分で語り終えるのは、到底ムリな話である。すべてお話しいただくためには、帯ドラのような「連続講演会」にするほかないだろう。
レジメを拝見すると、「提言 調査研究の必要性(奈良町悉皆調査の推進、有識者による奈良懇話会) 公開の必要性(奈良史料叢書の刊行、近世までの基本文献、大和文化研究の続刊)」「博物館・美術館の活用」「観光の細分化 濃厚と淡泊 いわゆる通好みの取り揃え(古墳、隠れ寺、隠れ里)」「大和名所図会的観光(歩く奈良)」「奈良の夜の楽しみ方」「中南和地方への送客協力」「体験型・ボランティア型観光の試み」「知られざる奈良を知れ」など、興味深いキーワードがてんこ盛りである。それぞれのテーマで、各1回90分の講演会が組めそうだ。
今回のお話と、レジメのキーワードを参考に、私も奈良観光に関する提言を発信していきたいと思う。また「環濠集落」については、これからの大きな観光テーマとして、当ブログでも取り上げてみたい。
岡本さん、有難うございました。これからも引き続きご指導を賜り、奈良の観光を盛り上げてまいります!
※追記 2015年1月22日にも、岡本権宮司は同タイトルの講話をされた。その内容はこちら。
県立大の講演会は60分だったが、今回はたっぷり90分とってあったので「きっと最後までお聞きできるだろう」と大いに期待して出席した。以下、配布資料と私が書いたメモ、そこにネットで調べた情報を加え、tetsuda流に講演の概要を再構成してみる。
○皆さんのなかには「環濠(かんごう)集落にお住まいの方がいらっしゃると思う。私は曽爾村に生まれ、郡山高校に入学して初めて国中(くんなか=奈良盆地)に出てきて、立派な環濠集落が多いことに驚かされた。環濠集落は大和の宝である。環濠集落に人を連れてきて地域の活性化を図りたいと思うが、住民がそれを嫌われるのではないかという懸念があるのと(稗田環濠集落は大和郡山市が力を入れている由)、おカネを落してもらう仕組みづくりができていないのがネックである。環濠集落にお住まいの皆さん、ぜひ中から(住民から)気運を盛り上げていただきたい。
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※写真はすべて「ナント・なら応援団」向け講演会(2/10)で撮影
○日本3大勅祭とは、春日祭(春日大社)、 葵(あおい)祭(上賀茂・下鴨の両神社)、 石清水(いわしみず)祭(石清水八幡宮)の3つである。《春日祭(かすがのまつり/かすがさい)とは、奈良県奈良市の春日大社の例祭。かつては2月・11月の上申日(当該月の最初の申の日)に行われたが、明治19年(1886年)以後は新暦の3月13日に統一されている。通説とされる春日祭の創始は、嘉祥3年(850年)とされている(『一代要記』)》(Wikipedia)。
《春日祭は藤原氏の祀りとして藤氏長者・斎女またはその名代の使者の参詣、朝廷でも上卿・弁が定められて使者が派遣され、天暦元年(947年)には興福寺が関与するようになり、永祚元年(989年)には一条天皇の行幸が実現するなど、摂関政治の繁栄とともにその規模を拡大させてきた。中世後期(戦国時代)以後には衰退し、江戸時代には復興の動きが見られるが、上卿・弁の派遣の停止など簡略化された。明治4年(1871年)には祭日を2月1日とする官社祭式で行われることとなった。明治18年(1885年)に明治天皇の旧儀再興の意向を受けて翌年勅祭に列せられ、今日の形式になった》(同)。
○3大勅祭のうち、葵祭も石清水祭も、応仁の乱後に中断がある。しかし、奈良はほぼ断絶がない。春日祭だけでなく、お水取りも、おん祭りも然り。
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○春日大社の式年遷宮は770年以来途絶えることなく行われた(伊勢神宮の式年遷宮は戦国時代に一時途絶えた)。式年造替を陰で支えてきたのは様々な職人、工人。20年毎に行われるのは、その技術、技能を絶やさないための知恵であり、これが30年では継承できない。儀式の中にも職人、工人に対する顕彰が入っており、日本は、これら匠の技術を尊び、守ってきた。日本の工業生産力が世界に冠たるもとは、「匠の技」だといわれるが、職人、工人の技術・技能を尊び、守り、彼らが誇りを持って研鑽できる環境が次第に失われようとしている。そのような中にあって、春日大社の式年造替は、日本の心を伝え守るよすがとなっている。
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○公慶上人は、いわば奈良観光の先駆者である。《慶安元年11月15日(1648年12月29日)~宝永2年7月12日(1705年8月30日))は、江戸時代前期の日本における、三論宗の僧の一人である。東大寺の大仏および大仏殿の再建に尽力した人物。丹後国宮津(現・京都府北部宮津市)の生まれである。(中略) 永禄10年(1567年)の兵火によって大仏殿が焼失し、大仏が露座のまま雨ざらしとなっていることを嘆き、大仏殿再建を決意する。貞享元年(1684年)江戸幕府の許可を得て、「一紙半銭」をスローガンに全国に勧進を進め、7年後には1万1千両にまで達した。これは現在の貨幣価値に換算するとおよそ10億円にも及ぶ。徳川綱吉の援助もあり、元禄5年(1692年)に大仏の修理が完成して開眼法要を行った》(Wikipedia)。大仏開眼の法会中は、大坂の高麗橋から奈良までの道は、籠が数珠つなぎになって動けなかったそうだ。
○奈良は日本人が誇りを取り戻すところ。精神性・心の文化重視を(教育や心の問題につながる本来の観光、国益を重視した観光に最適の地。自然との共生など)。
○日本人はモノとカネに走ったので、今や誇りを失い、自信をなくしている。日本人は自らの技術について誇りを持ち、向上心があり、真心を持っている。そして探究心が強く、事物の蘊奥(うんおう)に迫ろうとする。とにもかくにも、日本人は誇りを取り戻さなければならない。
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○奈良は「1300年前固定型」(1300年前という「時点」にとらわれている)から脱却しなければならない。奈良は神話時代から近代まで、連綿と続いているし、それだけの素材がある。社寺(=心のよりどころ、伝統文化の継承母体)、神話・伝承、町並み、菓子など。
○菓子の発祥地は奈良である。遣唐使が運んできた唐菓子がルーツ。春日大社には古代から受け継がれている神仏へささげるお菓子が今もあり、祭事のたびに手作りしている。
○こんなに歴史のある奈良に、うまい食べ物がないわけがない。江戸時代に編纂された地誌に、県が大和野菜としてPRしている川西町産のネギ「結崎(ゆうざき)ネブカ」が絶品と記述されている。食の根源に触れるのは面白いこと。大和にはうまいものがいっぱい隠れている。
○大和の人は、大和に誇りを持っていない、だから地元に関する知識も乏しい。それが残念である。今年は「古事記完成1300年」なので、間違いなく観光客が来る。しかし県民は、予備知識を持っているだろうか。例えば、今は田んぼになっている「宇陀の血原(ちはら)」(神武東征ゆかりの地)など、各所に神話にちなむ場所が伝承されていて、大和では民のレベルで神話を守り伝えてきたことがわかる。
○私は祖母に育てられ、祖母から大きな影響を受けた。曽爾村(宇陀郡)にある国見山は神武天皇が国見をしたと伝えられる山である。その伝説を祖母は昨日のことのように話してくれた。1940年(昭和15年)の紀元2600年奉祝行事は、国民的行事として盛大に開催された。しかし1990年(平成2年)の紀元2650年は、実に寂しいものだった。
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○来年(2013年)は、天誅組(てんちゅうぐみ)150年である。天誅組の伴林光平(中宮寺宮の侍講)は「雲を踏み嵐を攀(よ)じて御熊野(みくまの)の 果無(はてな)し山の果ても見しかな」というすさまじい歌を残している。全く「若気の至り」とでもいうほかない無謀な蹶起であったが、彼らは自分のために死んだのではなく、天下国家のために命を擲(なげう)ったのである。東吉野村天誅組顕彰会は、天誅組サミットと天誅義士の慰霊法要の開催を予定しているそうだが、他にめぼしい動き(大河ドラマ「天誅組」など)が出てこないのが寂しい。
○奈良は社寺と文化と自然が共生している。観光客には泊まってもらわなければ、その良さはわからない。現状は京都に泊り奈良は日帰り。県中南部の振興なくしては北和も栄えることはない。
私のメモの追いついた範囲内での概要は、以上のとおりである。奈良まほろばソムリエ仲間のkozaさんが、ご自身のブログ「大和・桜井の歴史と社会。季節に合わせてゆっくり歩く」で、岡本さんのご著書を紹介していた。《大和古物拾遺を読んだ。昨年の秋の刊行である。ペリカン社。著者は岡本彰夫さんという。同じシリーズで大和古物散策、大和古物漫遊という本がある。10年来の刊行である。散策が3000部、漫遊が5000部の初版で絶版、普通では手に入らない。古本屋だと今では定価の10倍もする(著者による)とのことである》。
《著者の岡本彰夫さん、春日大社の権宮司である。77年に国学院大学を修了され、春日大社一筋という方である。岡本さん、もともとは春日さんの宮司の家系の方ではなく、宇陀は曾爾村の「どこへやらまでは他人の土地を踏まずに行けた」という山持ち、豪農の子であり、書画骨董は子供の時からの素養でもあろう。話は骨董品のこと?そうなんだけど、これがおもしろい。とにかく書画骨董に造詣が深く、器物の本来の姿を見つめ、骨董品を通してその時代を見極める「中世」考古学を読むようで楽しい》。
《書画骨董を通しての人物像もかたられており、森川杜園、奥田木白はもちろんのこと、川路聖謨、伴林光平、公慶上人、湛海律師とか筒井順慶まで幅広い。今ではすたれた奈良の工芸技術にも思いを寄せられる。おん祭りの「装束賜り」のときに使う千切台(ちきりだい)、奈良の三茶碗、瑠璃之燈籠などの解説、宮司だからこそという解説もあり興味深い。森川杜園の辞世も紹介している。罷出(まかりで)て あらぬ手業(てわざ)を世に残し さも恥つかしと 身は隠れつる 森川杜園》 。
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岡本彰夫 | |
ぺりかん社 |
2/10の講演は、とても斬新で内容の濃いものだった。名人の落語を思わせる語り口で、90分があっという間であった。レジメ「奈良観光についての所感と提言」だけで8ページ、付属の史料集が32ページ(「作るのに30年かかった」とのこと)もあり、これを90分で語り終えるのは、到底ムリな話である。すべてお話しいただくためには、帯ドラのような「連続講演会」にするほかないだろう。
レジメを拝見すると、「提言 調査研究の必要性(奈良町悉皆調査の推進、有識者による奈良懇話会) 公開の必要性(奈良史料叢書の刊行、近世までの基本文献、大和文化研究の続刊)」「博物館・美術館の活用」「観光の細分化 濃厚と淡泊 いわゆる通好みの取り揃え(古墳、隠れ寺、隠れ里)」「大和名所図会的観光(歩く奈良)」「奈良の夜の楽しみ方」「中南和地方への送客協力」「体験型・ボランティア型観光の試み」「知られざる奈良を知れ」など、興味深いキーワードがてんこ盛りである。それぞれのテーマで、各1回90分の講演会が組めそうだ。
今回のお話と、レジメのキーワードを参考に、私も奈良観光に関する提言を発信していきたいと思う。また「環濠集落」については、これからの大きな観光テーマとして、当ブログでも取り上げてみたい。
岡本さん、有難うございました。これからも引き続きご指導を賜り、奈良の観光を盛り上げてまいります!