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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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下山の思想(五木寛之著)の要点整理

2012年02月19日 | ブック・レビュー
下山の思想 (幻冬舎新書)
五木寛之
幻冬舎

毎朝、食事をしながら「おはよう日本」(NHK総合テレビ)を見るのが日課になっている。2/8(木)のニュースでは、五木寛之著『下山の思想』(幻冬舎新書 777円)を取り上げていた。この本は、日本の成長を登山にたとえ、下山することの大切さを説く、というふれこみである。YAHOO!ニュース(2/16配信)にも、「五木寛之『下山の思想』が初首位~再生への道しるべに共感の声」という記事が出ていた。

《作家・五木寛之が昨年12月に発売した『下山の思想』(幻冬舎)が、2/20付オリコン“本”ランキングBOOK(総合)部門で週間4.7万部を売り上げ、初の首位を獲得した。2008年の同ランキング開始以来、これまでに五木氏の作品は『親鸞 上』(講談社)や『人間の覚悟』(新潮社)など、多くの作品がTOP10入りをしてきたが、総合トップは今回が初。編集部は「30~40代の読者の方々が自身のブログなどで紹介してくださったり、60~70代の読者の方からは感想を綴った長い手紙が届くなど、発売当初から反響がありました」と、幅広い年代からの支持を明かしている》。

《2011/12/26付で30位に入り、2012/1/16付ではこれまでの最高位である2位を獲得していた同書は、人と国の新たな姿を示す画期的思想として新聞やテレビで紹介され、徐々に注目を集めてきた作品。今月8日にNHK総合『おはよう日本』で取り上げられたことが決め手となり、発売から10週目にしてトップとなった》。

《著者独自の世界観で現代社会の再生への道を説いた同書には、「『下山』とは諦めの行動でなく、新たな山頂に登る前のプロセス」であり、「人はどんなに深い絶望からも起ち上がらざるを得ず、日本は敗戦から見事に立ち直り登頂を果たすことができた。そんな今こそ、実り多き明日への『下山』を思い描くべきではないか」と、力強い言葉が綴られている。東日本大震災からまもなく1年を迎えるにあたり、自分たちが進むべき道について改めて考えさせられる1冊として、今後の動向も気になるところだ》。

ベストセラーには時代のニーズが現れるので注目しているし、3月には「奈良の精神文化」に関する講話もお引き受けしているので、「これはチェックしておかねば」と、オンエア当日(2/8)の退社時、啓林堂奈良店に立ち寄った。幻冬舎新書のコーナーには置いていなかったので店員さんに聞くと、「今朝から、すべて売れてしまいました」とのこと。テレビの威力は大したものである。しかし「(同書店の)奈良ビブレ店にはあるかも知れません」とのことだったので足を運ぶと、棚に数冊並んでいたので早速買って、帰りの電車の中で読み始めた。

この本は、五木寛之が「日刊ゲンダイ」紙の創刊当初から執筆している「流されゆく日々」欄に掲載されたエッセイ(五木によれば「雑文」)をまとめた「エッセイ集」であり、「下山の思想」というテーマを掘り下げた「思想書」ではないので、ご注意いただきたい。41本のエッセイのうち8本、多めに見ても計19本だけが「下山の思想」に関するものであり、残りは「いま死と病を考える」(8本)や「ノスタルジーのすすめ」(11本)など、直接には「下山の思想」とは関係ないものなので、ガッカリされないように。

武士道 (PHP文庫)
新渡戸稲造
PHP研究所

「BOOK」データベースには《どんなに深い絶望からも人は起ちあがらざるを得ない。すでに半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根づき私たちは生きてきた。しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。再び世界の経済大国をめざす道はない。敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。「下山」とは諦めの行動でなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる》と出ている。

私が以前、当ブログに書いた「新渡戸稲造著『武士道』の要点整理」(06.6.5)は、今でも毎日20~30人のアクセスをいただいているので、これまでざっと4万人がご覧になった計算になる。忙しい現代人はダイジェストで中身を知りたいだろうし、英語の授業(『武士道』の原文は英語)でこの本を使っている学生は、予備知識を仕入れたいのだろう。20万部を突破した『下山の思想』の中身を手っ取り早く知りたい方も多いと思うので、以下、同書から要所を抜粋しておく。

林住期 (幻冬舎文庫)
五木寛之
幻冬舎

下(お)りる・降りる、下(くだ)る、下(さ)がる、これらの言葉には、どこか負の感覚がともなう。プラス・マイナスでいえば、圧倒的にマイナスのほうだろう。

要するに「下から上へ」の動きはプラスであり、「上から下へ」の行動はマイナスと見られているらしい。それはかつてそうだったし、いま現在もそうである。

上昇するということは、集中するということだ。これまでこの国は、集中することで成長してきた。戦後60数年、私たちは上をめざしてがんばってきた。上昇する。集中する。いわば登山することに全力をつくしてきた。

前に1冊の本を書いた。『林住期(りんじゅうき)』という題名の本だった。そのタイトルは、古代インドの、人生を4つに分ける思想からとったものである。「学生期(がくしょうき)」「家住期(かじゅうき)」「林住期」「遊行期(ゆぎょうき)」。中国にも似たような言葉がある・「青春」「朱夏(しゅか)」「白秋」「玄冬(げんとう)」の4期である。登山というのは、ある意味で前半の2期にあたるのではあるまいか。そして、後半の2つの季節に相当するのが、「下山」であるような気がする。人間の一生でいうなら、50歳までと、それ以後である。今の時代なら、さしずめ60歳で定年退職してから後と考えるのが自然だろう。

登るときは必死で、下界をふり返る余裕もなかったかもしれない。だが、下りでは遠くの海を眺めることもあるだろう。平野や町の遠景をたのしむこともできるだろう。足もとに高山植物をみつけて、こんな山肌(やまはだ)にも花は咲くのかと驚くこともあるだろう。岩陰からふと顔を出す雷鳥に微笑するゆとりもあるだろう。

この国が中国に抜かれるまで、世界第2位の経済大国であったということが、じつにすごいことだったのである。まさに一時代を画した歴史の奇蹟といっていい。私たちはそれを誇っていい。しかし、すごいことというのは、相当な無理をしなければできないことである。そして、当然のことながら、ずっとすごいことを続けることはできない。そこには相当な無理があった。無理をしなければすごいことなどできない。その証拠が、年間3万3千人から4千人の自殺が10数年も続いていることだろう。

下山する、ということは、決して登ることにくらべて価値のないことではない。一国の歴史も、時代もそうだ。文化は下山の時代にこそ成熟するとはいえないだろうか。私たちの時代は、すでに下山にさしかかっている。そのことをマイナスと受けとる必要はない。実りある下山の時代を、見事に終えてこそ、新しい登山のチャレンジもあるのだ。少子化は進むだろう。輸出型の経済も変っていくだろう。強国、大国をめざす必要もなくなっていくだろう。そして、ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望が開けるのではないか。下山にため息をつくことはないのだ。


抜粋は以上である。『足るを知る経済―仏教思想で創る二十一世紀と日本』という著書がある安原和雄氏(元毎日新聞記者)は、ブログ「安原和雄の仏教経済塾」で『下山の思想』を詳しく紹介され、以下のように感想を述べられている。

足るを知る経済―仏教思想で創る二十一世紀と日本
安原和雄
毎日新聞社

<安原の感想>(1) ― 「下山することの価値」に着目
時代は「下山のとき」、という認識が本書『下山の思想』の出発点であり、ユニークな視点となっている。たしかに著者の五木さんも指摘するように、山に登ることは三つの要素、すなわち山に登ること、山頂をきわめること、さらに下山すること、が切り離しがたくつながっている。ところが下山することの価値はこれまでほとんど無視されてきた。その盲点に着目したのが本書の魅力である。この盲点に光を照らすためには次のような「ローマ帝国崩壊」に関する著者の図太い歴史観が支えとなっている。その骨子は以下のようである。

私たちは歴史について、ある偏(かたよ)った先入観を抱いているようだ。それは時代の変化が、一朝(いっちょう)にしておこるように思っている点である。例えばローマ帝国の崩壊という。ある日、大きな事件がおこって、たちまちにして帝国が滅びたように考える。これは明らかに間違ったうけとり方だ。「ローマは一日にしては成らず」という。だとすれば、同時に、「ローマは一日にして滅びず」ともいえる。歴史は一夜にして激変はしない。長い時間をかけて変化がきざし、それが進行する、と。

さらに以下のように説きすすめてもいる。

下山の時代がはじまった、といったところで、世の中がいっせいに下降しはじめるわけではない。長い時間をかけての下山が進行していくのだ。戦後半世紀以上の登山の時代を考えると、下山も同じ時間がかかるだろう。しかし、下山の風は次第にあちこちに吹きはじめている。いつか人々は、はっきりとそのことに気づくようになるはずだ、と。

<安原の感想>(2) ― 脱「経済成長」と脱「軍事力」と
上述のように「下山の時代」の到来を繰り返し説いている。では下山時代の特質はどのように認識したらよいのか。その一つは経済力、軍事力の否定である。例えば次のように指摘している。

・私たちも大志を抱くべきだ。しかしそれは果たしてどのような国の姿だろうか。
・経済力ではあるまい。軍事力でもない。
・私たちはふたたび世界の経済大国という頂上をめざすのではない。
・輸出型の経済も変わっていく。強国、大国をめざす必要もなくなっていく。

これは「経済力と軍事力」の神話の否定であり、いいかえれば脱「経済成長」と脱「軍事力」を意味し、脱「日米安保体制」にもつながっていく。もともと日米安保は日米間の経済同盟(経済成長と経済協力の同盟)であり、同時に軍事同盟(在日米軍基地を足場とする対外軍事侵攻と日米軍事力の一体化をめざす同盟)である。だから、経済成長や軍事力を否定する以上、やがて脱「日米安保」となるほかない。「経済力と軍事力」の神話の否定はもちろん脱「原子力発電」にもつながっていく。

<安原の感想>(3) ― 夜の濃さの再発見、そして心の余裕を
もう一つはGDP(経済成長を測るモノやサービスの量を示す概念)では把握できない非経済的、非市場的価値の重視である。例えば以下の指摘に注目したい。

・下山は「林住期」から「遊行期」への時期だ。そこに人生のつきせぬ歓びと、ひそかな希望を思う。
・日は堂々と西の空に沈んでいく。それは意識的に「下山」をめざす立場と似ている。
・(大震災と原発惨事のため)節電の運動が普及して、街は暗い。しかし夜の濃さを再発見したような気がして、節電の街があまり不安ではない。
・下山の過程は、どこか心に余裕が生まれる。遠くを見はるかすと、海が見えたり、町が見えたりする。

人生のつきせぬ歓び、ひそかな希望、堂々と西の空に沈んでいく日(太陽)、暗い街で夜の濃さの再発見、心の余裕 ― などはいずれも経済成長とは無関係であるが、精神的充実感を味わうのに大切な要素である。経済成長や日米安保への精神的奴隷ともいえる惰性的な生き方から精神の離脱をめざし、「生き生きと生きよう!」というのが「下山の思想」のもう一つの提案と受け止めたい。


同書に、登山と下山の折り返し点は「人間の一生でいうなら、50歳までと、それ以後」とあるように、50歳を超えた私のような者にとって「下山」の思想は納得できる話ではある。しかし「若い人は共感できるだろうか」という疑問が残る。だからAmazonのカスタマーレビューでも、若い人の感想には厳しいものがある。

ベストセラーは時代を映す鏡であるといわれる。「下山」の時代を迎えた日本が、これからどの方向をめざすべきか、「新たな山」はどこにあるのか。その回答は同書には書かれていないが、「ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望が開ける」ということも確かである。ゆとりを持って来し方をふり返るのも、悪くはない。
コメント (7)
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