前立腺癌との遭遇は、四十年余り前の父の発病だった。
入院していた父を見舞ってから医師に会い、私が父の前立腺癌の告知を受けた。
長兄に電話で相談し、両親には癌であることを伏せることにした。
当時は本人に癌告知はしないのが普通だったけれど、今にして思えば内緒にすることの傲岸さや不自然さが悔やまれる。
『三年持てば良い方でしょう』と言われたのだったけれど、去勢をし、女性ホルモンを打ち、始まったばかりのコバルト照射治療を受け、十年余りを生き延びて最期は不意の脳出血で逝った。
晩年はヨロヨロしていたが、頭はしっかりしていて、独りでバスに乗って病院にも通う元気はあり、寝たきりになることもなく癌の再発や転移があったとは聞いていない。
入院していた当初の六人部屋の全員が同じ病で次々と亡くなっていき、同期の中では父が最後に残った。
皆がタマを取った人たちなのだと聞いたが、病院の方針だったのか、その当時はそれ以外に方法がないということだったのか。
男同士というものは、どういう組み合わせであれ、程度の違いはあるが、いつも牽制し合い、何かと張り合い、能力を競い合い、経験や知識を誇示し合うものだと私は思っている。
父親と男の子は、母親を取り合うライバルで仇同士だ。
思春期から反抗心をずっと父に対して持ち、具体的な幾つかの恨みも持っていた私は、父が手術をしてから、子どもの頃に見た雄牛の去勢シーンを描いたエッセイを仲間内の同人誌に書いた。
そうして帰省の時、闘病中の父にわざわざそれを見せた。
父は黙って読んだのだろうと思う。
感想を言うこともなかった。
私は父に対し隠微な復讐をしたのだが、澱(おり)のようなモノが残った。
じつにつまらないことをした。
我が身にも返ってくるだろう。
血は争われないものだから。
画像は、運動公園のカリンの横に植わっているザクロ。
タコ・ウィンナーのような赤い花といい、先々の実がはじけてからの様子といい、これも何となく我が身に起きていることの象徴のように感じて撮った。