HはhelicopterのHなのだと、ようやく理解した。そうなんだろうか? そうなんだろうな!?
画像は高速道路のあるサービスエリアにあったヘリコプター発着場。事故現場から、遠方への救急搬送が必要な場合の発着場なのだろうと思う。広い真四角な舗装広場に円とその中にH。空から観たら、けっこう多くのビルの屋上にもあるのだろう、このマーク。何だか不思議に思われる空間。
牛の等身大像があり、どこか忘れたけれどあったのであり、何故かしら乳房というより乳首を接写したのであった。おっ・・と思ったらスマホでパシャは、ほとんど自動的にやることだ。でも、決して他人の迷惑にはならぬようにはしている。もちろんコンプライアンスも忘れない。
先ほど通ってきた農道の抜け道で、車同士の事故現場があった。一台は田んぼに横倒しで、対向車は落ちかけていて右半分が潰れていた。スマホで撮りたいのだけれど、消防も警察もいて交通整理されてる中では撮れない。こんな時は耳の横に取付ける仕掛けのカメラが欲しい。
横道にそれた。牛の乳首の接写である。牛の乳首は四つだとはっきり知った。乳房は小さいから、まだ経験のない娘だろうか? でも乳首は長くて大きいなぁなどと思う。ネタ切れ種切れでこんなものを取り上げる淋しさ。
面白いと思ってiphoneで撮ったのだけれど、パシャという音をさせてから、『まずい・・・かな?』と思いました。盗撮疑惑をかけられる可能性が無きにしも有らずかも。
幸い事なきを得て、今日に至るわけですが、この画像にニヤリとしました。上の方はあり得るかと思いますが、下の方は「いくらなんでもアータ」
でも下の図の前後逆なら正解か?とツッコミを入れたくなる。以前、『冬でのロシア公衆トイレ事情』のような文を読んだことがある。便座が無くなっていて、足を滑らせぬように最大の注意を払い着膨れした洋服をずり下ろして用を足すのだそうだ。そうして無事終えたときの達成感は並たいていのものではなく、女性皆がトイレから出てくる時は晴れ晴れとしているのだと。
便座を除菌してからでないと座れないような潔癖症は外国旅行に行けない。少しずれるのだけれど、頭にオデキがたくさんできた赤ちゃんを医者に見せたら、動物園に連れて行くようにと言われたという話を又聞きした。
清潔にしすぎて雑菌への免疫力が備わっていないということらしい。かくしてその赤ちゃんは度々動物園に連れていってもらい。その子はすっかり動物園好きになったというオチまでついた。この記事全体のオチはないまま、また次回。
コウモリを間近に見た事は今まで数度しかない。久々に見ることができたけれど、昼日中の日なたである。なぜか木の幹にしがみついていた。iphoneでパシャパシャ撮ったけれど、おびえているのか威嚇しているのか、かなりどう猛な顔つきで歯を剥き出した。
それなのに飛ぼうとしない。太陽に翼を焼かれたとでもいうのか? 昼は空気が粘りついて飛べないのか? とにかく、私が気づいた時が、いきなり日なたの地上から1m程の位置で幹にへばりついていたのだけれど、下へ下へといざり草蔭に隠れた。
木の洞でぶら下がっていた所を、ハチに刺されたのかも知れない。ハチがコウモリの宿を乗っ取って巣作りを始めたのかも知れない。でもハチに刺されても、動けるくらいに大丈夫なものだろうか? アリに噛まれたか? とにかく何かに負けたのだと思う。そうとでも考えないと納得できない気がするのである。田舎の実家での今日本日日中の出来事。
ネットで調べようとしたがすぐにあきらめた。日本にいるのだけでも何十種類もいるそうだ。豚みたいな鼻ではないので、キクガシラコウモリではない。私はそれしか知らない。それよりほんの少し大きいと思う。どう猛な顔つきながら端正な顔立ちだ。
京阪電鉄の中書島駅を出るとこれがある。このピラミッド状の棚の下に大きいコモかぶりの酒樽があってほかにも何かがあったのだけれど、画像のピラミッドが面白くて他は目に入らなかった。
伏見の酒造会社は19社あるそうだ。だから19銘柄ということになるのだろうけれど、このひな壇には15種類。この上下の段取りは熾烈な闘いがあったのだろうか? 単なる協賛金の多寡で決めたのか。『さいごは金目でしょ!』という品のない発言を思いだす。TOPがキンシ正宗というのが面白い。
名前にカタカナが使われているのには何か深い訳がありそうだ。またまた憶測と推理をするならば、キンシの意味くらい調べないといけない。良い意味のものを列挙すると、錦糸、金糸、金鵄、金紙くらいか。おそらく金鵄だろうけれど、畏れ多いという理由でカタカナにしたものと思われる。
『玉の光』とか「桃の滴』にウフフと喜んでいると、『神聖』なんてのもあって、それぞれ何かの折りにはコレと決められていたりする酒でもあるんだろうな・・・と思う次第。
『左 おぐりす道 岡本尺角(真ん中の棒が突き抜けた旧字)建之』
『だいご一言寺是より十七丁』
建之は『けんし』とか『これをたつ』と読み、一丁の距離は60間でおよそ109mだそうだ。十七丁は1.8km余り。丁を使う道しるべの時代は、どれくらい前だろう。その古い時代にすでに指差す手が彫られているのが面白い。
左の方は『左』の字だが、右の方角を差すのは左手。右ではなく左の方とは直角の方角ということでこうなったか。
電柱を立てるときに電気工事屋さんが困っただろうと思われる。『絶対傾かないように終るまでしっかり支えておけよ』などと命令されて困り顔の若い衆の顔が思い浮かぶ。そんなことを言う意地の悪い先輩やら親方がいるんですよ往往にして。
これは私鉄駅のホームで撮った。どう読むんだろう。読むとしたら『さんぴしゃ』か、『さんとびらしゃ』か。文字は意味が伝わったら良いわけだけれど、必ず声に出す読み方を伴うのが普通だ。
これの意味はすぐ解る。3カ所扉がある車の②番目、つまり真ん中の扉位置を示しているはずだ。これは読み方などを想定はしていないのかも知れない。漢字がほとんど記号化というか絵文字として用を成していて、語源を想わせる。
扉という字はトビラらしい字だ。車という字など車輪そのものだ。『さんぴしゃ』と読むのだろうかなどという詮索は間抜けの閑人がやることか。文字も自由にあつかっていくと、先祖返りが起きるのかも知れない。
『考えて、あなたが話すその言葉』の意味がわからなかったので解読してみようと考えた。(考えて)は、考えてくださいねという呼びかけであることは間違いないだろう。
(話すその言葉)とは何を示すのだろうか。この桃陵地域はどういう特色があるのか全く知らないのだけれど、人権問題とか偏見問題からの標語かも知れない。
そうだとしても、話す内容を問題視しているのか、偏見を含む言葉自体を問題視しているのかが解らない。一言一言を慎重に周りに配慮して発するようにということなのだろうか。
考えようによっては、言葉狩りが始まっているから皆さん気をつけようねという呼びかけのようにも思われる。この標語を見て、とっさにある緊張を覚える人たちもいるのだろうか。
標語というのは判る人だけに解れば良い暗号なのかも知れないと思った次第。判る人だけに解るという漢字の当て方は合っているのか出鱈目か。私が書くこの言葉も考えているうちに、どれも何だか変に思われて何もかもわからなくなる。
ちょっと用があって、久しぶりに電車に乗り、中書島で降りて大手筋まで歩いた。大手筋通りというのは、アーケードのある商店街では全国でも珍しい位にシャッターを閉ざした店など一軒もないほどに繁盛している。
その大手筋に直角に交わるのがこの竜馬通り・・なのかな? とにかく途中で面白いと思って撮ったのがこの画像。竜馬通りの次郎長だ。生年月日を調べてみると、次郎長の方が16歳上だ。
同じ時代を生きたとも言えるが、違う世界を生きたとも言えそうだ。接点は全くなかっただろうけれど、ひょんなところで名を連ねている。次郎長は竜馬が31歳で暗殺された慶応三年から、明治時代を四半世紀生きた。で、それがどうした・・・という話。
追記:大政奉還が明治維新の始まりなら、それが明治元年だと思い込んでいましたが、明治元年は翌年でした。
次郎長と竜馬の生年没年月日を示しておきます。
次郎長:1820年(文政3年)12月14日~1893年(明治26年)6月12日 満72歳6ヶ月
竜馬:1836年(天保6年)1月3日~1867年(慶応3年)12月10日 満31歳11ヶ月
流派と右から読んでしまった。なぜ支流と言わないのかと思いつつ、とりあえず撮っておいて帰宅してから調べてみた。上流では谷あいからの小川がだんだんと集まり大きな川となる。つまり多くの支流から一本の本流になる。
ところが、下流になると、扇状地などでは川が別れてしまうことがある。本流から別れた川を派流と言うそうだ。この宇治川派流は、物資運搬舟の航行目的で作られた人工的分流のようだ。そうだ・・分流という言葉があるのになぜ派流とも言うのか!? 分流は分かれた一本の流れを示し、派流はいくらでも枝分かれしたそれぞれを示しているようなイメージが湧いたけれど、合っているのかどうか。
前に琵琶湖から瀬田川が流れ出し、宇治川になり、淀川になり、大川となって海にでると書いたことがあるけれど、大川は淀川の派流のようだ。淀川は淀川で海にそそぐ河口がある。この派流は結局宇治川に戻るからバイパスということなのか・・。いずれにせよ、みな淀川水系だから一級河川というわけだ。
STAP細胞についての研究者たちは、流派或いは派流を比喩として考えると解りやすいのだろうか・・と思ったけれど、足で情報を得る立場にはなく、マスコミとインターネットの記事でしか判断することができないので、僭越なことは止めておこう。淀むことなく流れができて、早く結果を見せて欲しいと願う今日この頃。
ついにSTAP細胞研究のキーマンの一人が命を絶ってしまった。どれだけの人間が『シマッタ』と思っているのだろうか? 惜しむ声をニュースで流しているのを見聞きすると、再生医学界の損失というよりも、世界的頭脳の逸失ということになったようだ。
後付けながら、早くアメリカに脱出すれば良かったのに・・と思う。日本は一度大きな失敗をすると、なかなかやり直しがきかない偏狭な国だ。先般のNHKの『調査報告STAP細胞 〝不正の深層〟に迫る 疑惑の論文を徹底検証』でもある人が、笹井氏のことを『今回のことでものすごく多くのものを失った・・』とまるで、今までのES細胞の研究業績まで無に帰したような言い方をしていた。
日本はそういう精神風土なのだ。やっかみと、冷やかしと、あげ足取りと、寄ってたかってのいじめ。画像のテレビ番組は昨日のものだが、そこでのコメンテーターが、『自殺は決してやってはいけなかったと思う・・』などと死者を責めていた。
何を言っているのだ!馬鹿者が!と思わずどなりそうになった。自殺せざるを得ないほどに追い詰められたということではないか。正常にモノを考えられなくなって、精神を病んでしまったということじゃないか!それをもまだ非難するという薄っぺらな人間が常識人然としてモノを言っていた。これが日本だ。残念なことだ。小保方さんも早くアメリカに脱出すると良い。
最近壊れた電気ドリルと、かなり前に動かなくなった電気ドリルを解体して比較してみた。メーカーは別でも外観はよく似ているので、中の部品はほとんど同じなのではないかと思っていたが、違った。
銃の形が半分に割れるのだが、フタになる左右からして違う。壊れた電気ドリルは歯車のギザギザが部分的に折れてしまったので、動かなくなった方をはめようとしたのだが、微妙に銃口部分の円盤が入らなかった。0.5mm程厚みが違う。
プラスチックのケースの方を削ろうと思ったが、決定的に違うのは歯のギザギザ角度が正反対だったこと。これでは全然駄目。他を目視で比べてもどこの部品も似ているのに同じのがない。同じ部品メーカーのそれぞれを使っているとしても改善や寸法違いということなのかも知れず、あっちをこっちにというわけにはいかない。
だいぶ前にうごかなくなったヤツは、何度も断線を繰り返して、その都度繋いでいた。また断線しているに過ぎないだろうと思われるので、壊れた方の電線をそっくり外してそちらに換えることにした。
すぐに確かめたらいいのだけれど、方針ができると八割方満足して、なかなか最終行程にかかれない。がっかりするのがイヤだということもあってグズグズしている。それより、断線の方の電ドルがあるのを忘れていて、こちらと同じメーカーの新品を買ってしまったから切羽詰った必要性がない。
新品を分解したりは決してしない。もしもそれがもとで、不具合が生じてやぶ蛇になったら悔いが残るから。私の密かな趣味の分解は故障してからのことで、分解したいがために故障させたりするような本末転倒は決してしない。そういう点で、私は自分を普通で正常な人間だと自負している。
昨日から四国地方では大変な降雨量で被害もでている。アナウンサーが 言っていた『雨が地面を激しく叩きつけています』に引っかかってしばらく考え込んでしまった。
『雨が降っている』という場合は、感覚的にぴったりして疑問は生じない。雨粒がひとつひとつ降っているのであり、雨というのは上空から落ちてくる雨粒の集合だからそれらが降っているということでしっくりくる。
ところが『雨が地面を激しく叩きつけています』となると、地面を〔何に〕叩きつけているのか?・・と思ってしまう。
結論として考えたことは、雨という擬人化されたモンスターが雨粒を地面に叩きつけているイメージ。そういうことなんだろうなと思うことにした。『雨が地面を激しく雨粒で叩きつけています』でも何だか納得しがたいけれど・・・。
画像は一ヶ月ほど前にどこかで撮った紫陽花。
石碑のような道しるべの反対側にあったのが、にぎにぎしくも解りやすい道しるべ。左下に赤く見えているのは、初老の男があんパンとジャムパンを食べていたベンチ。
新島襄の洗礼名は『Joseph Hardy Neesima』のようだ。NiijimaではなくNeesimaであるところがミソ。
ジーニアス英和辞典を引いたら用例が出ていた。
Mrs. Ann Smith, nee Brown ⇒ アン=スミス夫人,旧姓ブラウン
ジョ―ゼフ=ハーディ,旧姓シマ ということなんだろうか? 旧姓を表す nee に 新(にい) を掛けて ネイシマ とは、なかなかに凝っている。Gravesiteは墓地。
哲学の道だけが『Tetsugaku no michi』という、そのまんまなのが面白い。英訳するにしても、『哲学の道』は哲学的な道なのか、哲学をする道なのかで違う訳になるだろうし・・・これでいっか・・となったのだろうと、哲学的想いが湧くのである。
1時間ほどで行けるところなのに、今までこの辺りを観光したことがない。例によって仕事でたまたま行き、昼飯を調達するためにコンビニがないかと徘徊していた途中に撮った。観光客相手の小洒落た食事処ばかりで、しかも店の用意したベンチに坐ってあき待ちをしている客もいるような土地柄でコンビニはなかった。
小さな酒屋があったので、ガラス戸越しに覗いたらパンの陳列ケースが見えた。昔からあるジャムパンとあんパンを買って、この道しるべの前に置いてあるベンチに腰掛けて食べた。仕事の途中で昼食をはさむことはほとんどないのだけれど昼休みをとるようにということなのでこうなった。
パン一個でいいのだけれど、一個食べると呼び水になって空腹感が湧いてくるので二個。観光の外人がよく通る。そんな観光コースの道端で、汚れた服装の前期高齢者がペットボトルの清涼飲料水を呑みながら独りパンを食べているのであります。風紀を乱してすみません。
前置きがながくなりました。書いている内に何だか語調が変わってしまいます。この道しるべはNHKの『八重の桜』以後に建てられたのだろうか。こういうのを道に建てるのは議会に誰かが動議を出して決まるんだろうなとか、この文言は何故このように決まったのだろう・・お互いを『先生』と呼び合ってる先生方だから何の疑問も反対もなく決まったんだろうなとか、想うわけです。