透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

てっぺんの鳥

2010-08-15 | F 建築に棲む生き物たち


撮影場所、撮影年月共に不明 なんということだ

**これは珍しいんです。ここに雀がとまるから、すずめ踊りとかすずめ遊びと言います。実は、これが相当重要な問題を孕んでいると私は見ているわけです。**(前稿に載せた藤森照信展のカタログより)

藤森さんは小屋根のてっぺんにのっている「ヘンなもの(藤森さんの表現)」、菱形のてっぺんの木片を鳥を意識したものではないか、と指摘する。屋根の上に鳥を飾る習慣が古くからあって、これは天と人間を鳥がつないでいるという思想に基づくものではないかと。銅鏡に描かれた古墳時代の絵にも屋根の棟に鳥がとまっているものがあるそうだ。

日本でも行われていたとされる鳥葬は死んだ後の魂が鳥に運ばれて天に行くという考え方によるものだった。それが現在のすずめ踊りに残ったのではないかというのが藤森さんの説。

5千年も前の土葺きが芝棟として現代まで伝わっているのだから、この鳥も古墳時代のものが伝わったのではないかとの指摘。

小屋根のてっぺんの仕口(接合部)を雨水から保護するために、大工さんが用心深く付けた単なる覆いとしての部材に過ぎないのではないか、と私などは思ってしまうのだが・・・。

藤森さんの説に従って本稿を「建築に棲む生き物たち」のカテゴリーに入れる。

メモ)芝棟を土葺きのなごりとする説もおもしろい。

1942


えっ、竪穴住居は茅葺きではなかった?

2010-08-15 | A あれこれ



出展:IPA「教育用画像素材集サイト」

 教科書には縄文時代の竪穴住居としてこのような写真が載っていて、**縄文時代の人々は、地面を掘って床をつくり、柱を立てて、草ぶきの屋根をかけた竪穴住居に住んでいた。**(「新しい歴史教科書」扶桑社から引用)といった説明がされている。平出遺跡や尖石遺跡、登呂遺跡の復元住居ももちろん草葺きだ。

教科書を疑うなどということはなかったから「そうだったんだ」と素直に思っていた、つい先日まで。



このカタログに収録されている「諏訪の民家の特徴と謎」という藤森さんの講座の内容を編集したテキストを読んでいて、**縄文住居もほとんどが萱葺き(テキストでは「茅」ではなく「萱」が使われている)で復元されております。ただ、それに対して最近、間違いではないかという説があるんです。**というくだり(142頁)に驚いた。

竪穴住居は茅葺きではなかった?

発掘では茅は出てこない、腐ってしまうから。火事で焼けた住居がいくつも発見されていて、焼けた材木の上に炭化した植物が層になって、その上に焼けた土が出てきた、と藤森さんは説明している。この後も興味深い説が出てくるが省略する。

そもそも縄文時代には茅を刈ることができる道具などなかったのでは、と藤森さん。そういえば、稲作が始まってからは稲穂だけを石器でほとんどちぎるようにして収穫していたことも教わったと思うが、その時はそんなことで、茅を刈ることができたのだろうか・・・、などということなど疑問に思わなかった。



手元にあるこの本では一体どう記述しているのだろう・・・。少し長くなるが引用する(230、231頁)。

**「カヤ葺きの家」も、問題をはらんでいた。文化人類学者が北方民族の例を引いて、〝縄文時代の住居は土葺き〟であったと示唆したにもかかわらず、登呂遺跡(説明省略)の竪穴住居の復元以来、カヤ葺きの家が一般的な集落景観として固定していったようだ。焼失した竪穴住居が全国で多く発掘され、焼け落ちた柱材の上に焼けた土が載っているのを見ても、なかなか偏見は変わらなかった。**

藤森さんの説明の通りの記述だ。そういうことか・・・。

ただこの後、**カヤ葺きだけでなく、土葺き屋根も相当普及していたのである。**と記述し、茅葺の存在も否定していない。

常識とされていることでも本当かな、と考えてみることってやはり必要なのかもしれない。そういえば前方後円墳 (←過去ログ)について松本清張は前が□で後ろが○とする通説というか常識に疑問を呈していたっけ。

① 藤森照信展 諏訪の記憶とフジモリ建築 カタログ/茅野市美術館
② 『日本の歴史01 縄文の生活誌』岡村道雄/講談社