■ えんぱーく(塩尻市市民交流センター)で行われた民俗学者・学習院大学教授の赤坂憲雄さんの講演「民俗知を掘り起こすために」を聴いた(*1)。
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♪ しずかな しずかな 里の秋 おせどに 木の実の 落ちる夜は
ああ かあさんと ただ二人 栗の実煮てます いろりばた
「せど」という言葉が童謡「里の秋」の1番の歌詞(作詞:斎藤信夫)に出てくる。「せど、背戸」は家の裏口、裏門。または家の後ろの方、裏手などという意味だと説明されている。
講演で赤坂さんはこの「せど」という言葉を取り上げて、民俗学的に意味を説明された。まず紹介されたのが寺山修司が作詞した「浜昼顔」という歌。講演会場に五木ひろしの歌声が流れた。
♪ 家のない子のする恋は たとえば瀬戸の赤とんぼ
ねぐら探せば陽が沈む 泣きたくないか日ぐれ径(みち) 日ぐれ径
ネット検索で見つかる「浜昼顔」の歌詞には瀬戸という漢字があてられている。赤坂さんはこの歌の「瀬戸の赤とんぼ」は野口雨情が作詞した「信田の藪(しのだのやぶ)」の歌詞、お背戸のお背戸の赤蜻蛉 狐のお話聞かせましょう を明らかに意識しているという見解を示された。
五木ひろしは「せとの赤とんぼ」と歌っているけれど、美空ひばりは、せとではおかしいと、「せどの赤とんぼ」と歌っているとのことだった。ネットで美空ひばりの歌を探して聴くと、確かに「せどの赤とんぼ」と歌っている。
寺山修司が書いた 家のない子のする恋は たとえば瀬戸の赤とんぼ とはどういう意味なのか・・・。
背戸(せど)には人に知られたくない秘密、というような意味があるとのこと。ネットで調べると**会津地方では家の中のプライベートな空間、お客様に見せない部分といった意味合いで使われることが多いですが**という記述があった。赤坂さんは「せどのぞき」という言葉があることを紹介して、裏側から訪ねられることをいやがるという意味だと説明をされた。訪問したことを他人に見られたくないので背戸に廻るということもある、とも。
「浜昼顔」の2番の歌詞には人妻と恋に落ちた男の寂しさが綴られている。この歌の作曲は古賀政男。哀愁を帯びたメロディーがいい。ぼくはこの歌を知らなかったが、一人旅の鄙びた宿で酒でも飲みながら聴いたらきっと涙するだろう。そうか、この歌は秘密にしておかなければならない、人妻との恋の歌なんだ、だから瀬戸(背戸)の赤とんぼなんだ・・・。
カルメン・マキが歌ってヒットした「時には母のない子のように」の歌詞も寺山修司が手掛けた。ふたつの歌詞に共通するのは「根なし草の寂しさ」だろうか。
話が横道に逸れるが、♪ 水にただよう浮草に 同じさだめと指をさす と始まる牧村三枝子の「みちづれ」も根なし草の寂しさを感じている男女を歌っている。
取材時に発せられる常民の言葉を手掛かりに民俗的世界にアプローチし、深く思索する。民俗学については何の知識もないが、どうやらそのようなことから入り込む世界らしい。
講演後の質疑応答も含めて2時間。有意義な時間だった。
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読書の秋、講演会場で赤坂さんの著書『武蔵野をよむ』を買い求めた。
講演会の定員は60人、その中に高校の同期生が女性ばかり3人いた。予期せぬ事だった。講演会終了後、会場外で彼女たちと30分程雑談した。日常の中の非日常とも言えるようなひと時だった。
「本の寺子屋 講演会」、次回は9月18日(日)に東京新聞編集員・加古陽治さんの講演「文学取材の流儀」。
*1 8月28日(日)午後2時から4時まで