透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

雨降りだ、本でも読もう

2006-05-13 | A 読書日記

『人は見た目が9割』竹内一郎/新潮新書を今朝読んだ。新書は文庫や単行本とは異なり装丁が同じだから書名が勝負だ。興味を惹くように工夫されている。

この本によると、言葉による情報伝達はたったの7%、残り90%以上は言葉以外によるのだそうだ。書名はこのデータに拠っているのだろうが、内容を正確に伝えてはいない。よく売れているようだから、ねらい通りだろうけれど。

確かに、言葉以外の情報伝達を日常的に経験しているし、そのことは小説からも例示することができる。

「白地の夏大島にトンボと花模様を描いた紗紬の帯をしめた師匠は、篠笛を自分で構えて、あるべきかたちを示して見せた。ゆったりと笛をもちながら、凛とした気品に溢れている。」 「何ひとつ痕跡は残していないのだが、あの目は何かを知っていると語りかけているようにも見える」 「ボスの瞳の奥深くに沸騰する怒りが燃え滾っていた」 以上、『ウルトラ・ダラー』手嶋龍一/新潮社 からの引用。

著者の竹内氏は舞台の演出や俳優教育、劇作、マンガ原作などを長年仕事としてきているそうだが、その経験や知識を駆使して様々な具体例を示しながら、非言語による情報伝達について書いている。ただし、それほど深い内容にまで論考は及んでいない。コーヒーを飲みながら気楽に読むのにちょうどいい本だった。 

『ウルトラ・ダラー』 終盤の意外な展開には驚いた。そうか、背後にはあの大国が存在するのか・・・。


スタニスワフ・レム

2006-05-11 | A 読書日記

■ ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムが亡くなったのは今年の3月末だった。新聞で訃報に接したときは、むしろそれまでの存命に驚いた。過去の作家だと思っていたから。

代表作の『ソラリスの陽のもとに』は旧ソ連の監督タルコフスキーによって1972年に映画化されている。2002年にも名前は記憶していないがアメリカの監督によって映画化された。

私はタルコフスキーの「惑星ソラリス」を学生の時に岩波ホールで観た。既知の概念を超越した知的生命体であるソラリスの海は人の記憶を読み取って、それを実在化してしまう・・・。

原作も映画も優れたSF作品だと思う。 先週の週刊ブックレビューで紹介された海外作品のベストセラーにスタニスワフ・レムの『天の声・枯草熱』 国書刊行会 が入っていた。どんな内容の作品なのか全く知らないが、是非読んでみたい。


 


竹風堂の「方寸」

2006-05-10 | A あれこれ

小布施は長野市に隣接する小さな町。長年のまちづくりの努力が実を結び、近年多くの観光客が訪れるようになった。

今朝の信濃毎日新聞に小布施の老舗、竹風堂の広告が載っていた。「方寸」という落雁の広告文。

**混合攪拌された「方寸」の原料は湿り具合が微妙(デリケート)で年中一定しない厄介者。春は乾きたがり梅雨時は湿気(しけ)たがる。**(後略)

寸は長さの単位、方は四角。方寸は約3cm角の菓子だ。1寸の10倍が1尺で、100倍が1丈。だから方丈は1辺が約3mの四角という意味になる。1辺が約2.7mの四畳半より一回り大きい。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」『方丈記』は鴨長明が晩年に結んだ方丈の庵で春に書いた随筆。文庫本でたった40頁。古文の読解力さえあれば、短時間で読了できるが、悲しいかな私にはそれが無い・・・。

広告文はこう結ばれている。 **「方寸」は今日も六万枚造られている。今日も六万枚食べていただいている。**

「方寸」一万枚で方丈の大きさになる。「方寸」六万枚がどのくらいか具体的にイメージできた。


すっぴんの屋根

2006-05-09 | A あれこれ

 松本地方の地域紙「市民タイムス」に先日 木曽地方には赤い屋根の民家が多いという記事が載っていた。 記者が木曽町の教育委員会や板金屋さん、塗料店などに取材してその理由を探って記事にしている。

記事によるとそれまでの板葺き屋根がトタン葺きの屋根に替わリ始めたのは昭和10年頃からのことらしい。トタンの防錆のために塗装するのだが、赤色の塗料が安価で長持ちしたというのが、どうやら屋根が赤い理由のようだ。

現在では塗料の性能が向上して色による寿命の差もなくなったそうで、赤以外の屋根も増えてきているという。 ところで、板葺き屋根は、こけら板葺き屋根というのが建築的にはより正確。地元産のサワラの木などを割って、薄い板状にしたものを重ね葺きしたもの。

藤村の『夜明け前』の時代は木曽路はすべてこけら板葺きの屋根であった。

今日、5月9日はメイクの日だそうだ。そう、5月は英語でMAYだから。赤いメイクをした屋根の街並みもそれなりに綺麗だが、夜明け前のすっぴんの屋根の連なりも周囲の自然環境によく馴染んで綺麗だったに違いない。


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花咲じいさん 海峡を渡る

2006-05-08 | A あれこれ

津軽平野(昭和61年)吉 幾三 作詞/作曲  

津軽平野に
雪降る頃はよ
親父ひとりで 
出稼ぎ支度

『ウルトラ・ダラー』手嶋龍一/新潮社を読み始めました。精巧な偽百ドル紙幣 ウルトラ・ダラーをめぐるサスペンスといったところでしょうか・・・。

1968年の暮れに東京・荒川の町工場 荒井機械彫刻所の腕のいい職人が失踪するところから手嶋氏は物語をスタートさせています。この職人の出身地が津軽。 で、意味も無く今夜は「津軽」についてなにか書こうと思ったのです。

まず、浮んだのが吉幾三の「津軽平野」というわけです。他にも石川さゆりの「津軽海峡冬景色」もありますね。太宰治の『津軽』、水上勉の『飢餓海峡』・・・

でも今回は花咲じいさんの全国ツアーについて。

全国の県別の桜の開花状況が分かるサイトをしばらく前に見つけてときどき覗いていました。先程確認しました。北海道も開花したようです。花咲じいさんは、先週末に津軽海峡を渡ったのでしょう。沖縄をスタートしたのが2月だったでしょうか、全国縦断の長旅もいよいよ終盤。

日本の昔ばなし「花咲じいさん」灰を撒いて桜を咲かせたんですよね。確か薄、おっと、臼を燃やした灰。灰を撒いて桜を咲かせる、なんとユニークな発想でしょう!昔ばなしには結構ユニークな発想のものがいくつもありますネ。

桃太郎は、川を流れてきた桃から生まれるし、かぐや姫は竹から生まれ、最後は月に行ってしまう・・・。 こんなストーリー、とても私には思いつきません。やっぱり脳みそを常に柔らかくしていないとダメなんでしょうね・・・。

なにを書くのかきちんと考えもせずに始めてしまったのでどうもまとまりません・・・ 石川さゆりは ♪ごらんあれが龍飛岬、北のはずれと・・・って歌っていますが、津軽半島の先端は龍飛崎なんだって、地図を見て気がつきました。

津軽海峡冬景色を見にいつかひとり旅をしたい・・・かなり前からそう思っています。

あぁ~、まとまらないので、今回は無理やりこれでおしまい。 


「薄い」建築

2006-05-07 | A あれこれ

昨晩、知性と感性という対概念によって建築を捉えるということについて書いてから、もう少し分かりやすく捉えることができないだろうか・・・と改めて考えていた。

技術と芸術という対概念も相似的だが抽象的で分かりにくい。もっと具体的に・・・。真夜中に思索的になるのも時には悪くない。 対を成す概念ではないが数学的と材料的という捉え方ができるかもしれない。ふと、そう思った。

数学的な建築と材料的な建築。他に知的な建築を捉える具体的な指標は無いだろうか・・・。

友人がブログに書いていた。東野圭吾の「容疑者Xの献身」と「白夜行」の読後感として・・・うすい・・・と。もちろん、東野ファンに気を使いながら。

うすい、薄い。

「薄さ」は具体的な指標になるかもしれない・・・ここでは物理的な指標としての薄さ、厚さであって、先のうすいとは勿論異なる。もっと具体的に、建築を構成する壁や床の薄さによって建築を捉えてみよう。 金沢21世紀美術館の間仕切壁は確か6mmの鋼板、外皮は全てガラス。富弘美術館、こちらも薄い! こちらは1辺が52mの正方形の建築だが、やはり着陸した宇宙船のような印象。金沢と同じだ。

このふたつの美術館の設計者、妹島和世さんとヨコミゾマコトさんの「師匠」の伊東豊雄さんの建築はどうだろう。せんだいメディアテークの最初のイメージスケッチは有名だが、そこには<スラブは極力うすく>と記されている。

また、昨年末東京銀座に完成した「MIKIMOTO Ginza2」に関して伊東さんは雑誌「新建築」で<壁厚はわずか20cmである>と書いている。

薄い床や壁を志向していることが分かる。 「薄さ」というゲージは案外有効かもしれない。


GWな日に考えたこと

2006-05-06 | A あれこれ

昨日、安曇野ちひろ美術館に出かけてきました。同行者達はもちろん展示作品を熱心に観賞していましたが、私は作品は二の次で、天井を見上げたり、壁を見たり・・・。

外観の印象。この美術館は安曇野の風景に歓迎されているな~、美術館も居心地がよさそうだな~ 要するにこういう印象なのです。

内藤廣さんの設計意図がよく分かります。 内藤さんは昨年の「新建築」10月号の巻頭論文でこう書いています。

**スペースモダニズムという言葉を使ってモダニズムを批判したことがある。人工環境を携えてどこにでも着陸する月面着陸船を思い浮かべたからだ。モダニズムは場所を選ばない。場所の特殊性を拒絶し、歴史の個別性を無視する。**

この一文を読んで、あの美術館を思い浮かべました。金沢21世紀美術館。 **まるで宇宙船のようだと斬新なデザインが話題になっている**

と建築雑誌が報じていました。かたちは直径113mの真円、確かに巨大な宇宙船。

ふたつの美術館のデザインは対極にあります。 内部空間。ちひろ美術館の天井は、カラ松材の棟木とタル木のシンプルな構成の繰り返し、化粧野地板もムクのカラ松板。壁は珪藻土塗り、くし引き仕上げ。そして床は、カラ松のフローリング。材料の質感をストレートに表現しています。

一方の金沢21世紀美術館。フラットな天井はアルミパネルなどにたぶん塗装した仕上げ、壁は継ぎ目無しの鋼板に白のペンキ仕上げ。床、コンクリート金ゴテ仕上げ。

この極端な違い、建築デザインの多様性を実感します。 ところで、「建築は設計者の知性と感性の統合の所産」であり「建築は利用者の知性と感性によって受容される」と私は考えています。ここは敢えて難しい表現、というか平易に表現できないんです・・・。

設計者も利用者も両者のバランスが皆違います、当然ですが。 知性的な建築を成立させるための技術の指標は具体的で分かりやすいのです。例えば壁の仕上げ、できるだけフラットに。対して、感性に訴える建築の技術的な指標は曖昧です。壁の仕上げはもっと柔らかい雰囲気でというように・・・。

先のふたつの美術館、どっちがどっち? 当然、ちひろ美術館が感性優位な設計、利用者の感性に訴えてくる建築。金沢21世紀美術館が知性優位な設計で利用者の知性に訴えてくる建築。

どちらが優れているとかではなくて、どちらが好みかと捉えておくべきかも知れません。


合併しなかったふたつの村

2006-05-05 | A あれこれ

昨晩(0504)のプロ野球、阪神―巨人戦。阪神のサヨナラ勝ち。中継を見るほどではありませんが、結果は気になります。

きのうとりあげた北杜夫さんは大の阪神ファン。『マンボウ阪神狂時代』が文庫化されたし(新潮文庫)、以前からエッセイにそのことをよく書いています。

ところで、小川洋子さんの『博士の愛した数式』にも野球の話題が出てきますね。そう、小川さんも大の阪神ファンで野球場に足を運ぶこともあるとか。

先日の新聞に  という記事が載っていました。長野県は先の大合併で市町村の数が120から81に減りましたが、小川村は残ったのです。その小川村のイベントで全国の小川さん集合!っていう企画をしたんですね。

私はその記事を目にしたとき、小川洋子さんを招いて講演会を開催したら・・・なんてふと思ったんです。と同時に、そうだ川上村だってある!!と気がつきました。でも、私は川上ではない・・・。川上さん集合!のイベントには参加できない。残念!(←ギター抱えて絶叫)

小川さんの新刊が中央公論新社からでました。そして川上弘美さんの新刊もやはり中央公論新社からでました。書店では仲良く並んで平積み状態。さっそく『夜の公園』を読みました。 川上村の村長は、藤原さん。 

小川村の村長が藤原さんだったらネタにできたのに・・・。

『博士の愛した数式』を書くために小川さんは「あの」数学者藤原正彦さんに取材しているんですよね。 村長の名前は一字違い、忠彦さん。


春寂寥

2006-05-04 | A あれこれ

上高地は神が降り立つ地・神降地が転じたものと記憶しているとしばらくまえに書いた。確か北杜夫がどこかに書いていたような気がする・・・。

**塩尻の駅を過ぎると、西の窓に忘れることのできぬ北アルプス連峰が遥かに連なっているのを、係恋の情を抱いて私は望見した。黒い谿間の彼方に聳える全身真白な乗鞍岳は、あたかもあえかな女神が裸体を露わにしているかのようであった。**

松高に入学する為に東京から松本に向かう列車の窓からみたたおやかな乗鞍の山容を「私」はこう表現している。

『神々の消えた土地』北杜夫/新潮社

戦争中、麻布中(旧制)の生徒だった私は東洋英和女学校の生徒、知子と知り合う。戦争が激しくなって知子は甲府に疎開、私は松本に向かう。知子から松本高校思誠寮気付として私に手紙が届く。やがてふたりは松本で再会、美ヶ原に登る、そしてそこでふたりは結ばれる・・・。

再会を約束した日、知子が松本駅に現れない。数日後、私は列車で甲府へ出かける。そこで目にしたのは大空襲で焦土と化した街だった。八月、終戦。ひとりで上高地に向かい西穂高や前穂高に登る私。大自然は荘厳で美しい、だが神々は死に、消え失せてしまっていた・・・。

タイトルからして、神降地と出てくるのはこの小説だろうと再び読み始めたが結局最後まで出てこなかった。 ふたりが美ヶ原に登る途中、こんな一節が出てくる。

**私は今まで気づかずにいたが、見まわすと辺りの林はほとんど落葉松であった。しかも、かなり登ってきたので、その葉はまだ若芽から萌えでたようなういういしい薄緑色を呈していた。**

この私も「私」と同様、落葉松の芽吹きを美しいと思う。 この小説は、文庫化されたが残念ながら絶版となってしまったようだ。


偶然!

2006-05-03 | A あれこれ

泰平の
眠りを誘う
缶ビール
たった1本で
ブログも書けず


■ 昨晩は早く寝てしまいました。 さて、今回は「偶然!」について。

川上弘美さんに『なんとなくな日々』というエッセイ集があります。出版社は岩波書店。 ブログを始めるときタイトルをいくつか考えました。この書名そのままってのもなんだかな~。で、「はひふへほな日々」というタイトルを思いついたんです。まあ、ありそうにないタイトル。 それでも・・・と思って検索してみると・・・、なんとヒット! 関西在住の方のブログのタイトルでした。

少し読んでみると、**この1年半くらい 川上弘美さんの本を ちょくちょく借りてよんでいる。**なんて、この方も川上作品が好きなんでしょうね。

ブログのブックマークのところを見てビックリ。私の友人のブログが載っているではありませんか! この国のブログの数は現在700万くらいでしょうか、「偶然!」なできごとです。

さらに偶然。

その友人から最近届いたメールに、あるブログが紹介されていました。引用されていたブログの一節を読んで、もしかしてあのブログのことでは・・・ と、確認してみると、やっぱりそうでした。

松本清張の推理小説に『十万分の一の偶然』文春文庫 という作品がありますが、この一連のできごとって、それ以上にあり得ないことでしょうね。 「はひふへほな日々」ブックマークしました。


星新一の「緑」

2006-05-01 | A 読書日記

幸田文はエッセイ集『木』新潮文庫の中でこう書いている。

**私は花の、葉の、はじまりというか生まれというかが好きだ。だから新緑になってしまうと、なんだか一段落したような、気を抜いた眺め方になる。むろん美しさにはみとれるのだが、芽吹きでは見守る目が、新緑では見やる目になって、そこにいささかの気持ちの隔りがある。**

冷静な分析だ。 幸田文が草木に心をよせるようになったのは幼い頃の父親、露伴の教えによるところが大きいと、このエッセイ集の別のところに書いている。

木々の芽吹きの季節になった。落葉松の芽吹きがとりわけ美しい。この緑色をどう表現したらよいのだろう・・・。浅緑、若緑 淡緑・・・。 文庫本の背表紙にも緑色が使われている。落葉松の芽吹きに近い色は・・・。 星新一(新潮文庫)の色は黄色が強くて明かに違う。重松清(新潮文庫)の色は鮮やか過ぎる。帚木蓬生(ははきぎほうせい 難しい名前だ)の新潮文庫も違う。

手元の新潮文庫にはどうやら無い。 講談社文庫の帚木蓬生の背表紙の色が近い! この時期、落葉松は阿川弘之(新潮文庫)の色から帚木蓬生の色に変わっていく・・・。 因みに幸田文の背表紙は白。