和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

嬉しかった。

2010-04-07 | 手紙
「詞花集」をお送りした方から、はがきが届きました。
うれしいなあ(返事は四人目。はがきは二人目)。
「・・面白く読ませて頂きました。読書の範囲が広く、しかもそれが輪のようにつながって次々に展開して行く様子、発想が独得です。・・・・私が昔関わりを持った人の言葉や作品の名が出て来たりして驚き、また懐かしく思いました。・・・・」

詩を語るのに詩を書かれる方へ、お送りしたのがよかったのかもしれません。
おかげで、返事がもらえました。うれしいなあ。


渡部昇一著「国民の見識」(到知出版社)読了。

マイケル・ディルダ 高橋知子訳「本から引き出された本」(早川書房)が
今日届く。日めくりカレンダーの貴重な格言が、テーマごとにならんでいるような、なんとも楽しくなる一冊。うん。ちょっとたとえが悪いなあ。こういうときは引用するにかぎりますね。
では

「人間としての成熟 ―― それは子供のころ、遊んでいたときに見せた真剣さをふたたび得たことをいう。(フリードリヒ・ニーチェ)」(p54)


「『いい本』を押しつけるのはやめよう。学校で読むように言われた本が、どれほどつまらなかったか憶えているだろうか。ニューベリー賞やコレッタ・スコット・キング賞を受賞したというだけで、子供に無理やり読ませることほど、小説のおもしろさを損なうことはない。ロアルド・ダールが適確なことを言っている――子供向けの本でほんとうに大切なのは、『読書は非常に楽しいものだと子供に思わせる』くらいおもしろいことだ。」(p123)


「芸術の目的は瞬間的なアドレナリンの放出ではなく、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することである。 (グレン・グールド)」(p154)

「詩に完成はない、断念あるのみだ。  (ポール・ヴァレリー)」(p156)

「真の批評が追求するのは、証明ではなく指摘である。 (E・R・クルツィウス)」(p157)


「・・・実のところ、現代の詩を楽しむいちばんの方法は、雑誌を拾い読みしたり、ニュース報道を聞いたり、会話を立ち聞きしたりしているつもりで読むことだ。大げさに考える必要はない。言葉なり内容なりを、ただ楽しめばいいのだ。批評家のマーヴィン・マドリックはこう言っている。『理解するために読むのではない。楽しみのために読むのだ。理解は楽しみの産物である』。すべての詩を読んだあとで、強く印象に残った詩に戻り、何度でもじっくりと味わうといい。」(p188)


ついつい詩についての引用になりました。
うん。はがきの返事をいただいたときに、
「面白く読ませて頂きました」とあったのが嬉しかった。
今日は午後から雨。午後6時から話し合い。
意思疎通は難しく、言葉はぶっきら棒に口からでてくる。
めげることは多いのですが、
返事のはがきを思うと嬉しさが戻ります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵葉書。

2010-03-25 | 手紙
「詞花集」をお送りした方から、昨日絵葉書が届きました。
「・・・さつそく読ませて頂き、有益なおもしろいブックレビューで大変参考になりました。いくつかは、私も読んでおりましたので、よくわかりました。・・・・」。
ついつい一部を引用したくなりました。
葉書の宛名下半分への書き込み。裏はモネ「バラ色のボート」の絵葉書。
うん。お返事をいただけた。梨のつぶてじゃなかった。うれしいなあ。お送りした方の最初のご返事。くりかえし読みました。

ちなみに、BK1のメール・週刊ビーケーワン(20100317)では、
『書評フェア』詞花集について、一行。
「魅力的な詩歌が引用された、心のやすらぐ書評をどうぞ」と紹介しておりました。
うれしいなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

混乱しました。

2010-03-02 | 手紙
年賀はがきに毎年お薦めの本を10冊ほど紹介しております。
昨日、そのお薦め本を読んだとお葉書をいただきました。
「完本 紳士と淑女」(文春新書)を読んだが、
「混乱しました。」
「シニカルにあげつらう著者には共感できませんでした。」
というようなお葉書をいただきました。
う~ん。
それで、あらためて、コラム「紳士と淑女」のことを昨晩は思っておりました。
う~ん。私はコラムが好きです。
雑誌「諸君!」の巻末コラムを書いていた山本夏彦氏の文が好きでした。
順番はその後に、巻頭コラム「紳士と淑女」を覗いていたような気がします。
「紳士と淑女」はコラムというよりも、なにやら箇条書き風読み物という具合で
読むというので判断すると、限りなく坐りが悪い読物でした。
この新書のまえがきにこうあります。

「三十年という長い年月、私は休むことなく『紳士と淑女』の材料を探しながら暮らした。雑誌『諸君!』巻頭の七ページに何を書くか?  月によって違うが毎月十八~二十日に〆切りが巡ってくる。その日に備えて、一日も休まずに日本語三紙、英語一紙の新聞を切り抜く。関係のある資料を探す。材料をひねくり回し、ほぼ一週間かけて書き上げる。読み返し、ときには改稿する。・・・・」(p5)


「諸君!」最終号で
「なお、三十年にわたって、ご愛読いただいた『紳士と淑女』の筆者は、徳岡孝夫という者であった。」と、まあ、最後になって名乗りを上げておりました。

それまでは、徳岡孝夫氏を読んだことがなかった私にとって、
これは驚き。あらためて徳岡氏の著作を読み始めた次第です。
そして、その魅力に気づいたのでした。
私の馴れ馴れしい言葉遣いを許してもらえるなら、
徳岡氏は、なんとも不器用な方なのであります。
その不器用さが、巻頭コラム「紳士と淑女」の表現方法にそのまま現れているような気さえするのです。


さて、お葉書をいただいた方へと、どう返事を書こうかと思っております。
まず、思いついたのは、「完本 紳士と淑女」の65~66㌻に載っている、竹山道雄氏の死亡記事でした。ここから私は徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和日本」(文藝春秋)に載っている「『ビルマの竪琴』と朝日新聞の戦争観」をコピーして読んでもらおうかと思っております。

雑誌「諸君!」2009年6月の最終号にある。『諸君!』という雑誌の特色も、少し紹介しながら、読んでもらって判断してもらおうかと思っております。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すべて省略。

2010-02-07 | 手紙
板坂元著「何を書くか、どう書くか」(php文庫)に
「『面と向かって話すつもり』で書く」という箇所があるのを思い出します。
そこに、こうある。

「第二次世界大戦中に『タイム』誌で大活躍したジャーナリストで、今では歴史家とも言われているT・H・ホワイトは、最近『歴史を求めて』という自伝を書いたが、その中で彼は、ハーバード大学で学問的にも人間的にも彼を援助してくれたフェアバンク教授についてふれ、『自分はフェアバンク教授に読んでもらうということを頭に置かないで、書いたことは一度もない』と言っている。
フェアバンク教授は、現在アメリカにおけるアジア問題の権威だが、若き日の教授の物心両面にわたる援助を受けたホワイトは、その恩に報いるために一生懸命に書いたのである。ホワイトの文は、名文として広く愛読されているが、その名文の陰には『恩師に手紙を書くつもりで書く』という基本精神があったのである。・・・」(p60)

ちなみに、このもとの単行本は1980年に出ており、
この文庫は、1997年。いまはもう絶版で古本でしか手にはいらないだろうなあ。

この文庫の1ページ前に、こんな箇所もありました。

「あるジャーナリストが『文章を書くコツは、自分が尊敬する先輩や友人に、個人的な手紙を書くつもりで書け』と言っている。手紙の場合、読み手がどれだけ知っているかは、われわれは前もってよく知っている。そして、そういう情報はすべて省略するのが礼儀でもある。文章を書くときも、相手の知っていることをくどくどと書くのは失礼だし、気の短い読み手ならカンシャクを起こしてしまうだろう。」

そういえば、福原麟太郎著「シェイクスピア講演」の文庫解説を外山滋比古氏が書いていた中に、こうあったのを思いうかべるのでした。

「ところで、この本にはシェイクスピアの作品について目のさめるような解釈が随所に見られるが、創見だからといってとくに強調されているわけではない。低い声で静かに語られていることもあって、うっかりすると見落とされかねない。」

この言葉。外山氏が福原麟太郎氏の文からうける印象は、私が外山滋比古氏の文を読みながらうける印象と重なってくるのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郵便。

2010-02-06 | 手紙
福原麟太郎随想全集3「春のてまり」福武書店。
そこに「郵便」と題した文あり。
こうはじまっております。

「郵便を待ち焦がれているのは、私ばかりであろうか。
返事はなかなか書けないくせに、来る手紙には、来るべき義務があるかのように、毎朝何かしらを期待して、郵便配達夫の足音を待っている。私の家へ彼がやって来るのは大体午前九時である。・・・」

うん。外山滋比古氏のエッセイを読むと、同様の言葉をみつけることが可能なのを面白く思うのでした。胸襟を開いた言葉が、お弟子さんに自然と、同意とともに、その言葉のバトンが受け継がれていっているような按配みたいに思えます。

さて、福原麟太郎氏の「郵便」には、
こんな箇所もあります。

「英国では18世紀から19世紀の半分までの150年が手紙文学の黄金時代であった。その先蹤として、トマス・グレイ、あの『墓場にて詠める挽歌』というエナヂーの詩人は、手紙をたくさん残している。グレイは詩の数が少なく、13篇ぐらいしか無い。ほかの断片を合わせても、一冊にはならないので、手紙をたくさん挟んで、長い伝記をつけ、それへ詩を添えて出した。それは詩人自身でなく、メーソンという友人が詩人の死後、編集したのだが、それが俑をなして、手紙を材料とした長い伝記を書き、手紙に内面的自伝をさせる方法が起ったといわれる。グレイにしてもクーパーやラムにしてもはなはだ自由に、うそを吐かないで、しかも、ヒウマーを含んだ手紙を書いている。そして自然身の上話をしている。そういうところに面白味があるので、つまり、随筆、いわゆるエッセイ的な興味を多分に持っている。・・・この頃われわれの手紙に、そんなのんきなのは、はなはだ少ない。」


「ふたたびラムの話になるが、ラムの手紙の面白さは無双である。おそろしく長い手紙を出す。何日もかかって一本の手紙を書いている。P・S・すなわち『追伸』として、またもう一つくらいの長さになる文句を書き続けている。用事などなくてもよい。・・・」

どうやら、福原麟太郎氏にとっての手紙というのは、重要な意味を含んでいたようです。
さて、同じ福原麟太郎随想全集の8巻月報に福田恆存氏の文が掲載されておりました。
そこに、こうある。

「私は英文学の他のどの先輩よりも先生を身近かに感じたのである。私は直ぐ思った、『この人は英国のために英文学を研究した人ではない、日本の文学を豊かにするために英文学を研究した人だ』と。・・・」

日本の文学を豊かにするためにというのは何だろうと、
「郵便」の文を読みながら、思うわけなんです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筆不精。

2010-02-05 | 手紙
外山滋比古氏のエッセイを読んでいると、
手紙についての言葉が印象にのこる。
たとえば、ことわざについでも印象に残っているのですが、
それはそれ、ちゃんと単行本としてテーマを深めておられる。
けれども、手紙については、とても印象的なのに、
それについての、ちゃんとまとまった一冊の本を出しておられない。
不思議におもえます。

ということで、外山滋比古氏と手紙ということで拾ってみます。

「とにかく根本は筆まめである。ひところは、年にハガキ三百枚、封書を百本くらい書いていたことがある。年賀状は別としてである。一部で、礼儀正しい人といわれたが、それはきちんと礼状、あいさつを書くからであろう。原稿を送るときにも、原稿だけではなく、かならず、短いあいさつを添える。それで受取った人は、礼儀正しい人だと思うらしい。」(p132)

これは外山滋比古著「コンポジット氏四十年」(展望社)の言葉。
この本には、また、こうもありました。

「現代、乱れているいちばんは、返事を書かなくなったことだと根本は考える。
手紙を書かないのを筆不精といったが、いまさら筆をもち出す人はいない。ペン不精などということばはないが、めったなことでは手紙を書かない。かなりこみ入ったことででも、電話ですます。こみ入っているから電話にするのだという人もあるが、本来、難しい話は電話ではムリ。相手にじっくり考える時間を与えないのは不親切である。電話でとっさの返事をすれば、あとでトラブルになりかねない。いった、いわなかった、ということになったりもする。手紙なら、すくなくとも、一両日は考える時間がある。」(p129~130)


うん。外山氏の手紙に関する文は、さまざまなエッセイの箇所で登場するのですが、一つだけ読むのなら、この「コンポジット氏四十年」が概してよくまとまっているような感じをうけます。

面白いのは、外山滋比古著「自分の頭で考える」(中央公論新社)にある「手紙のたしなみ」。同じ題材を扱ってもスパイスが違うと味わいがかわるという例。

ここから、福原麟太郎の手紙についての文と、外山滋比古の手紙の文との比較。
それから、板坂元著「何を書くか、どう書くか」(php文庫)の
「恩師に手紙を書くつもりで書く」(p60)へと引用を重ねようと思うのですが、

また機会があれば。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵手紙。

2010-01-23 | 手紙
daily‐sumus氏のブログ。その1月20日に小林勇著「娘への絵手紙」(アートデイズ)を紹介しておりました。そのページが写真入りでブログに掲載されている。普通は、こういう本を買わないようにしているのですが、魔がさして買うことにしました。ちなみに、ブログでの紹介文が決め手。

「『小林勇 娘への絵手紙』(アートデイズ、一九九七年一一月一〇日、装丁=山本ミノ)。小林勇の絵手紙集。娘夫婦へ一九六五〜六六年(丙午)にかけて一年二ヶ月の間に百二十枚送ったもので、そのうちの六十二枚を収録する。当時小林は六十二、三歳、岩波書店会長の職にあった。

三十九歳で絵を始めたというから、仕事の合間を見ては、二十五年ほども描き続けていた時期のものである。生前は文春画廊、吉井画廊などで個展を重ねていた。没後も吉井画廊で何度か展覧会が開かれ、何年か前に小生も展示を見た記憶がある。絵のセンスはまちがいなく持っていた。もし最初から画家を目指していたら一派を立てただろう。・・・」

とありました。古本で注文。今日届く。最初に青木玉さんの「小林さんの絵手紙」という3ページの文あり。最後には小松美沙子さんの「父の絵手紙」という15ページの文あり。

私事。手紙を書かずに、関連本を買うのは、ちょっとどうかなあ。
とは思うのですが、とりあえず、ページをパラパラとめくってます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記念切手。

2010-01-22 | 手紙
今年、手紙を書こう。
そう、思う一月。
まず、手紙なら切手。
とて、今日発売の記念切手を買いに。
それ、「ケロロ軍曹」という1シート10枚のアニメ記念切手。
なに、80円切手絵柄に、キャラクターが葉書をもつ。
これ、手紙を出すきっかけに。
うん、今年最初の記念切手占い。
てな、感じでたのしい手紙を書こう。
さて、切手ばかりたまる一年にならないように。
さあ、手紙を書こう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文字が寒々と。

2010-01-12 | 手紙
1月の新聞。その歌壇・俳壇。

読売俳壇1月11日
正木ゆう子選の最初

 逆境を逆さまにして枇杷(びわ)咲きぬ   千葉県 滝沢ゆき子

【評】逆境を逆さにしたら順境になるのか。或いは逆手に取るのか。このちょっと意味不明の言い回しが面白い。俳句というもの、時々は読み解けないところを楽しむのもいい。

ちなみに、読売新聞1月4日「新春を詠む」での正木ゆう子氏の俳句は

  松籟(しょうらい)に風を知りたる初景色

  大樟(おおくす)のこゑ聞きにゆく大旦(おおあした)


1月11日の読売歌壇。
岡野弘彦選のはじまりは

 仕返しをしたき男が一人おったシベリアを語らぬ父の一言
           草加市 斎藤宏遠

【評】シベリアの抑留生活を体験した人達は誰も語ることをしない。作者の亡き父も、この短い一言のほかは語らなかった。この歌の上の句は呪言(じゅげん)の重さで心に残る。


さてっと。
毎日新聞1月10日の毎日歌壇。
その伊藤一彦選が、面白かった。

一筆も手書きのあとのない賀状 住所名前も他人のごとし
            幸手市 川俣英男
【評】手書きのあとの少しもない賀状のよそよそしさを下の句で端的に表現。今週は以下の二首も賀状の歌である。

「手書き派は少ないけれどガンバロ!」と友との賀状手書き同盟
            厚木市 伊藤 慶

数秒で読み捨てられるかも知れぬ年賀葉書を丹念に書く
            能美市 山上秋恵


普通は、見過ごすだろう歌なのですが、
今回はちょっと違いました。思い浮かんぶ文があります。

外山滋比古著「ことばの教養」(中公文庫)。そこに

「せっかく印刷したのだから、手書きの文字などでよごし?たくないという気になるのかもしれない。印刷しただけの文字が寒々と並んだ年賀状を出す。若いときはものを知らない。それはしかたがないが、ものを学ぼうという心のすくないのは困る。気をつけてみると、趣を解するほどの人は多く、印刷した賀状でも何かひとこと手書きの文句を添えてくる。それを見ればいいなと思うだろう。そしたら、自分も一行でも半行でもメッセージを書き添える習慣をつけるのである。
印刷だけの賀状と添え書きのあるものと、もらってどちらがうれしいかわからないような人は心が荒れている。情操教育を受け直さないといけない。それが必要なのが若い人に多いのは当然だが、いい年をした、いわゆるエライ人にもあるのだからおもしろい。」(p69)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

賀状。

2010-01-06 | 手紙
今年は手紙を書こう。
といつも思うのにね(笑)。

産経新聞1月5日の産経歌壇。
伊藤一彦選の一番最初は、

 賀状だけになった友にはびっしりと近況を書く笑顔想(おも)って
         羽曳野市 西村真千子

【選評】結句が特に印象的。毎年三百五十枚くらい賀状を出す作者というが、真心をこめて書かれたこんな賀状をもらった人は何度も読み返すはず。



ははははは。賀状に数行書くのに一夜を費やす私でした。

よし。今年は手紙を書こう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変人の笑い。

2009-12-28 | 手紙
今年はおくればせながら、外山滋比古著「思考の整理学」を読んで、外山氏の著作を読もうと思いたちました。というわけで、何冊か読み始めたのですが(笑)。遅々としてすすまないなあ。けれども、手ごたえは十分。その守備範囲は、私が漠然と思うその前を進んでおられるという、そういう意味での安心感があって、ゆっくりと読みすすめられます。もっとも私はエッセイを読むのがおもなのですけれど。

さて、昨日読んだのは「ユーモアのレッスン」(中公新書)。
ユーモアの守備範囲をどこいらまで置くかによって、その本の包容力が伝わるものです。
最初に気になった引用箇所はこれでした。

「新しいアイディアをつかんだ人は、だれでも変人になる。その考えが成功するまでは。」(p53)

う~ん。変人の間は、対人関係はギクシャクするものです。自分から巧まずしてユーモアを醸し出すようでなければ、変人もキツイだろうなあ。と思ったりするわけです。

音訳ということも取り上げております。

「音訳の傑作のひとつに簿記がある。
英語ではブックキーピング(bookkeeping)。
これを早口でなんども言っていると、ボキになるといういわけで、しかも、帳簿をつける(記)という文字をのせたところが心にくい。この訳語をつくった人はさぞ得意だっただろうが、いまではそういう苦心の作であることも忘れられてしまっている。それくらい名作である。」(p88~89)

ここで、ちょっとあとがきから
「ユーモアの正体をとらえるのは、すこし調べてみると、古来、難事となっていることがわかった。・・・ふつうにはユーモアの扱いをされてこなかった日本の俳諧、川柳、ことわざにも、ユーモアの心が流れていると考えて、いくつかとりあげた。これも新しい試みであるかもしれない。」(p227)

ということで、パーキンソンの法則から、夏目漱石・モンテーニュ・阿房列車・佐々木邦・徒然草・大岡政談・火焔太鼓・山吹・連句から座談会・スピーチと随筆の特性をいかして、アチラと思えば、すぐコチラと取り上げながら、昔からの枠にとらわれない笑いをさぐっており、私にはたいへん参考になりました。

う~ん。ここでは、とりあえず。パーキンソンの法則から、
有閑の老婦人のことを引用しておりました。

「このひとは、ボグナー・レージス(避寒地)にいる姪あてにはがき一本書くのに、まる一日を費やしてしまう。はがきはどこだったかとさがすのに一時間、メガネを見つけるのにもう一時間。アドレスさがして三十分。文面を書いて一時間と十五分。近くのポストへ投函しにいくのに傘をもっていこうか、どうしようかと迷って二十分かかる。忙しい人だったら、ひっくるめて、ものの三分とはかかるまいと思われることが、ひまな人には、こうして、迷い、心配し、あたふたして一日仕事になってしまうのである」

こうして引用したあとに、外山氏は「老婦人を思いうかべて、口もとがほころぶような文章である」(p173)としております。

そういえば、外山滋比古著「ことばの教養」(中公文庫)の最後の文は、「あとでなく、いま書く」という題でした。その文のおわりをつい引用したくなりました。


「こまめに手紙を書くには、手もとに七つ道具がそろっていることが案外、いちばん、大切なように思われる。便箋に封筒、切手、はがき、郵便番号帳、住所録など。手紙を書こうと思ったが、便箋が切れている。はがきを出そうと思うがはがきがない。あすにしようと思うと、もうだめである。きょう書くのをあすにのばすな。それが手紙を書くこつだ。郵便が来たときの何とも言えない気持をほかの人に贈るのだと考えて手紙を書くくせをつける。」

え~と。とりあえず昨日までで何枚でもないのですが、年賀はがきを出しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読み書き喋り。

2009-12-25 | 手紙
産経新聞2009年12月25日の一面左上。
曽野綾子氏のコラム「小さな親切、大きなお世話」が掲載されておりました。
今日のテーマは、「『郵政問題』が示す暗い現実」。

さて、その最後を引用します。

「・・・郵政の取り扱い量が減っているという事実だ。
私は正直なところ日本郵政という会社の未来には冷たいような気もするが、郵便事業を守るには、日本人の『読み書きしゃべり』という3つ国語力表現を完璧にする教育をしなければならない。つまり現在の日本人は、まともな日本語も喋(しゃべ)れず漢字も知らず、ましてや作文能力も開発しなかった結果、短い手紙さえ気楽に書けるひとはごく少なくなった。これでは郵便の量も増えるわけがない。
その国の文化を支える完全な人間は、どの国語でもいいから、『読み書きしゃべり』の3つが揃って可能だという最低条件がある。それに該当する日本人が、今どれだけいるかという危惧が、郵政の問題より深く私の心に残ったのである。」


以上は、コラムの最後の箇所だけ引用しました。
そうか。来年私は「郵便事業」を守る。
そんなことを、年賀はがき一枚に苦戦しながら思うのでした。
ということで、手紙とは別ですが、
このブログ、来年もよろしくお願いいたします。
と、年賀はがきに代えまして、ご挨拶。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡文講話。

2009-12-14 | 手紙
外山滋比古の「ことばの教養」「文章を書くこころ」とパラパラめくっていたら、書簡についての興味がわきました。

話はかわりますが、以前読んだ本を破棄したりして、本棚にはこれから読みたい本をならべていたことがありました。まあ、今も一度読んだ本というのは、塵をかぶって読まずにいるわけで、そのままに打ち捨ててあるのと同様な感じではあります。
ただ、やっぱりもう一度読みたいという本は、本棚に置くようにはしております。

さて、書簡文ということで、思い浮かぶあれこれ。
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)に

「文章のイロハを学びたいという方は、いろいろなチャンスを利用して、精々、手紙を書いた方がよいと思います。電話で用が足りる場合でも、手紙を書くべきでしょう。面倒だ、というのですか。いや、本当に面倒なもので、私にしても、毎月の原稿が一通り済んでから、まるまる一日を使って、何通かの手紙を書くことにしています。原稿料とは関係ありませんが、実際、手紙を書くのは一仕事です。しかし、それも面倒だ、というようでは、文章の修業など出来たものではありません。」(p68)

ところで、手紙ということで、何を読んだらよいか?

向井敏著「本のなかの本」に、中野重治著「本とつきあう法」を紹介した見開き二ページの文が入っております。そこで向井氏は、中野重治が芳賀矢一・杉谷代水著「作文講話及文範」、「書簡文講話及文範」という二冊に触れた章をとりあげているのでした。

「文章と手紙の書き方を説いたこの古い二冊の本のために、中野重治はその美質を簡潔的確に評したうえ、書評史上まれに見るすばらしい言葉を捧げた。その頌辞に親しく接するだけのためにも、この本はひもとくに値する。いわく、
  『ああ、学問と経験とのある人が、
材料を豊富にあつめ、手間をかけて、
実用ということで心から親切に書いてくれた
通俗本というものは何といいものだろう。』            」


ここまでくれば、中野重治著「本とつきあう法」の、その箇所を読みたくなるじゃありませんか。そこで重治は


「芳賀とか杉谷とかいう人がどんな人か知らぬ人でも、二冊のうちどつちか一冊を読めば、二人の学者がどれほど実地ということを腹において、少しでもヨリよくということを目安にして、善意をかたむけてこの本をつくつたかが流れこむように心に受け取られてくる。四十年ぐらいまえに書かれているから古いといえば古い。とはいつても、日本語・日本文がそれほど変つたわけではない。またこういつたものは、ある意味では古いものがいいためにこの本がいいのだ。・・・・『作文』の方は千三百ページほど、『書簡文』の方は千ページほどあり、それぞれ七百ページ、六百五十ページほどが『文範』つまり実例になつていてこれがおもしろい。・・・・」

  ちなみに、この文の発表は1953年とあります。
  そして、向井敏が引用した最後の箇所をもう少し丁寧に引用しておきます。

「ああ、学問と経験とのある人が、材料を豊富にあつめ、手間をかけて、実用ということで心から親切に書いてくれた通俗の本というものは何といいものだろう。僕はこれを刑務所の官本で楽しんで読み、出てから古本屋で見つけて今に愛蔵している。僕の待つているのは縮刷版だ。発行は冨山房だ。」



そうして、私は「作文講話及文範」「書簡文講話及文範」を古本で購入してあったわけです。
ちなみに「作文講話及文範」は、一時文庫に入っておりました。私といったら、そのどちらも中野重治が感銘した「文範」としての実例を読まずに、そそくさと、講話を速読して本棚にしまいこんでおりました。いつか読もうとおもいながら、もう古本の上に、塵が積もっております。

と、もう一度、この二冊にチャレンジのつもりで、書き込んでおります。いつも途中で挫折する。せめて、本棚から取り出して再読の始まりだけは記しておきたいじゃありませんか。まあ、そんな感じの埃をはらいながらの書き込みです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

添え書き。

2009-12-11 | 手紙
「思考の整理学」が、卒業論文をあつかっていたように、
「ことばの教養」は、手紙をテーマとしているように読めます。
さてっと、私事なのですが、
祝賀会の取りまとめ役を縁あってひきうけました。はじめての経験。
まずは、出欠席の葉書きを送付。この12月12日にその会がある。
こういう出欠の葉書きは、私はまず、すぐに返事を出したことはありませんでした。ところが、いざ私が取りまとめ役となる段になると、これがいやはや(笑)。
ハガキを送付して、まっさきに返事が来る人がいる。それからしばらくしてだんだんと返信はがきが来るわけです。そして期限が過ぎても、梨のつぶての方が数人。

ちょっと引用箇所を探し出せないでいるのですが、
外山滋比古氏の文に、子供の結婚式か何かの出欠席の返事を、すぐに出して、相手の親に喜ばれた話を書いておりました。相手側にしてみると、出したが出席してくれるかどうか不安がある。まっさきに返事が来たので嬉しかった。というようなやりとりがあったそうです。

さて、そういう外山氏の手紙・葉書きに関する文なので、
思わず襟を正して読んでしまいます。たとえば、
「印刷だけの賀状と添え書きのあるものと、もらってどちらがうれしいかわからないような人は心が荒れている。」(p69「ことばの教養」)という箇所がある。ちょっと引っかかる。自分はプリントしたのを、そのままに送っていたことを普通のことと思っていたのだから、何か不思議な感じがする。そういえば、もらった年賀葉書きに、かならず手書きの数行を書いておられた方が思い浮かぶ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しみは。

2009-12-09 | 手紙
外山滋比古著「ことばの教養」(中公文庫)を読みました。
私は、まだ年賀はがきを書いていないのですが、
手紙・ハガキについてもふんだんに登場します。
う~ん。ここでは「楽しみは」の列挙。

「一日の仕事が終って、寝る前のひととき、さて今夜は寝ながら何を読もうかと思いをめぐらすのは、下戸にとって左党の寝酒にもまさる楽しみである。」(p135)

「一日でもっとも楽しいのは郵便のくるときだ・・」(p79)

「午前中うちにいる日は、いつも郵便のくるのを心待ちにしている。玄関に近いところに書斎がある。郵便受でカサッという音がすればもちろんわかる。配達さんの自転車のきしむ音だけで、きたッ、と思う。すぐ飛び出す。」(p57~58)

「手紙で人とつき合うコツは、こまめに返事を書くことにつきる。こまめ、というのは、すぐということである。【あとで】は結局、【失礼する】ことになる。」(p61~62)


「辞書のおもしろさは、わかり切っていると思っていることばの項をていねいに読むことにある。そこをのみこまないと辞書とは仲良しになれない。昔、中学生のとき、何だか忘れたが、ひどくおもしろくないことがあって、毎日くさくさしていた。勉強も頭に入らない。しかたがないから英和辞典を開いてぼんやりながめていると気がまぎれる。これはいい。・・・」(p147)

「われわれのような凡人は、時々虚栄心をくすぐり、ひょっとすると自分も相当なものかもしれないという錯覚に陥らせてくれる人間がいてくれないと、せっかくの読書の楽しみも薄くなるのである。・・・」(p163~164)


「やはり、おもしろくなくてはいけない。おもしろいというのは、おもしろおかしいのと同じではない。いまの世の中には本当におもしろい本にめぐり合うことは昔に比べて本が多くなっているだけに困難である。真の良書、かけ値なしにおもしろい本はどれかということをいまほど問われている時代はないと言ってよい。」(p191)

「欲を言えば、ほめてくれる人が身近にあるといい。
ある老詩人が、自分を育ててくれたのは、ほめられたことばであると告白している。料理の腕を上げるのにもほめ上手がいなくてはいけないが、文章を書く苦労を吹き飛ばしてくれるのは、【おもしろかった】という知友のひとことである。われわれはお互い、もっとほめ上手になりたい。」(p202~203)


「郵便が来たときの何とも言えない気持をほかの人に贈るのだと考えて手紙を書くくせをつける。」(p227)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする