和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

17通目でようやく返事が。

2012-04-11 | 手紙
バスで行って、電車で帰ってきました。
さて、何をもっていこうと本棚を見回すと、
買ったのに、読まずにあった本に目がいきます。
ということで、
見城徹・藤田晋著「憂鬱でなければ、仕事じゃない」(講談社)を
持っていくことに。
近所田舎にすんでいるのですが、
雨は朝がパラパラ。帰りもパラパラという具合。
帰ってきてから、だんだんと降り出しました。
車中から山を見れば、
あんなところに、桜が咲いている。
田んぼに水がはってある。
背景の山に桜が咲いている。

まあ、トンネルをぬけながら、
本を読みながら、
車窓から眺めながら、
ということで、
読みやすい本だったので
ゆっくりと読めました。

さてっと、
気になったのが「手紙」を語っている箇所でした。
ということで、それをピックアップ。

まずは、これでしょうか。

「角川書店に入社してすぐ、五木寛之さんと仕事をしたいと熱望し、作品が発表されるたびに手紙を書いた。小説だけではない。短いエッセイや対談でも、掲載されたものを必ず見つけて、感想をしたためた。・・・作家に手紙を書くのは、思いのほか大変なことだ。おべっかではいけない。かといって、単なる批判になってもいけない。本人すら気づいていないような急所をつきつつ、相手の刺激になるようなことを書かなければならない。
初めのうちは、返事がなかったが、17通目でようやく返事が来た。
『いつもよく読んでくれて本当にありがとう。いずれお会いしましょう』奥さまの代筆だった。僕は嬉しさの余り、その葉書を持って編集部を走り廻った。その後、25通目の手紙で、ようやく会っていただけた。」(p122~123・見城徹)

もう一箇所

「僕は幻冬舎を、1993年11月12日に設立登記した。その頃オフィスは四谷の雑居ビルの一室にあり、電話とテーブルが12月にやっと入ったばかりだった。その年末年始の休み中、僕は電車賃を節約するため、代々木の自宅から徒歩で出社し、毎日、作品を書いてもらいたい書き手五人に手紙を書いた。・・・これを十日間続け、都合50人に手紙を出した。50人に手紙を出すのは、大変である。それもおざなりではなく、相手の心に突き刺さるものでなければならない。ベテラン作家ならたくさんの著作を読み返し、大物ミュージシャンなら多くのアルバムを聴き直さなければならない。一人につき便箋で七、八枚。もちろん、何回も書き直す。食事はコンビニ弁当で済ませて、朝九時から夜中の二時まで手紙を書いていた。自分は極端なことをやっている。その自負だけが僕を支えていた。」(p60~61・見城徹)





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いやさ、おトミ。

2011-11-23 | 手紙
昨日。注文してあった杉山平一詩集「希望」(編集工房ノア)が届く。
うん。さっそく、パラパラとめくりながら、詩集の余白をみつめます。
そう。そういえば、「取り消し」という詩(p50~51)の最後の3行は

  息づまりのなかに
  風通しのよい空白を見つけて 
  ハハハ・・とわらっている

余白と空白と、どう違うのか笑いながら思ってみます。
さて、ご存知でしたでしょうか?
昭和42(1967)年に出された詩集「声を限りに」のなかに、
「退屈」という詩がありました。それをここに引用。

    退屈     杉山平一

  十年前、バスを降りて
  橋のたもとの坂をのぼり
  教会の角を右に曲つて
  赤いポストを左に折れて三軒目
  その格子戸をあけると
  長谷川君がいた

  きょう、バスを降りて
  橋のたもとの坂をのぼり
  教会の角を右に曲つて
  赤いポストを左に折れて三軒目
  その格子戸をあけると
  やっぱり長谷川君がいた


うん。このたび出版された詩集「希望」のあとがきは、

「何を、今さら、九十七歳にもなって詩集を出すなんて、と思えるが」
と、はじまっておりました。あとがきの最後も引用させてください。

「折しも、この詩集の編纂にかかり始めた時に東日本大震災が起こり、次々と流れてくる報道に動転した。そもそも、私は会津生まれでありながら、東北地方について無知であった。しかし私は、太陽の光に眩しく輝く南の海より、青いインキのような北の海、高村光太郎が『キメが細かい』と言ったような北の青空が、好きである。
うなじや太鼓帯の美しさが背中に隠れているように、東北地方の人たちは後ろ側にその美しさを秘めている。表からは見えないその奥ゆかしさや謙虚さを打ちのめすように、大震災が東北の街をハチャメチャにしていったのだ。今こそ、隠れていた背中の印半纏を表に出し、悲境を超えて立ち上がって下さるのを祈るばかりである。奥ゆかしさを蹴破って、激烈なバックストローク、鵯越(ひよどりごえ)の逆落としさながら、大漁旗を翻して新しい日本を築いて下さるように。詩集の題名を『希望』としたが、少しでも復興への気持ちを支える力になれば、と祈るばかりである。  2011年8月15日  杉山平一 」


この詩集「希望」には、「手紙」と題した詩があります。
そういえば、初期の詩に「郵便函」があったなあ。

    郵便函

 一家は引越したのだろう

 粗末な木の郵便受けが
 捨てられている

 かずかずの夢の
 到着を待ったあの函
 
 いま雨にうたれて
 泥をあびて


ここに「かずかずの夢の到着を待ったあの函」とあるのでした。
さて、詩集「希望」のなかにある、詩「手紙」を引用

   手紙

 久しぶりの手紙
 歌舞伎のセリフをまねて

  ( ええ ご新造さんえ )

 手紙を二つに折って
  ( おかみさん )

 四つに折り返して
  ( お富さん )
 
 八つに折り返して
  ( いやさ、おトミ ) 

 にぎりしめて
  ( 久しぶりだなあ )

 屑かごにほうりこめずに
 目がうるんできやがった


最後は、私が郵便配達員となって、
この詩集のはじまりの詩「希望」をお届けする番。


    希望   杉山平一

 夕ぐれはしずかに
 おそってくるのに
 不幸や悲しみの
 事件は

 列車や電車の
 トンネルのように
 とつぜん不意に
 自分たちを
 闇のなかに放り込んでしまうが
 我慢していればよいのだ
 一点
 小さな銀貨のような光が
 みるみるぐんぐん
 拡がって迎えにくる筈だ
 
 負けるな


       




 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これから湯に入ります。

2011-08-28 | 手紙
まだ、ブリヂストン美術館で開催されている「青木繁没後100年」の展覧会を見に出かけていない私です。最終日が9月4日。それまでに、なんとか行きたい。
とりあえず本を、というので、数冊本棚から取り出し、
パラパラめくっていると、あれこれと連想が働くのでした。
たとえば、青木繁から坂本繁二郎へ。そして坂本の牛の絵から、
たどりつくのは、夏目漱石の手紙でした。
そういえば、夏の今頃に、私は漱石のこの手紙を、毎年思い浮かべているような、そんな気がします(笑)。

「今日からつくつく法師が鳴き出しました。もう秋が近づいて来たのでせう。・・・日は長いです。四方は蝉の声で埋つてゐます。以上  夏目金之助」

大正二年に芥川龍之介へ宛てた手紙でした。
この手紙のなかに、

「どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可(いけま)せん。ただ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。」

という言葉がありました。
その三日後に、また久米正雄・芥川龍之介の二人へと、漱石は手紙を出しておりました。


「あせつては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可(いけま)せん。根気づくでお出でなさい。・・・それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。/是(これ)から湯に入ります。  夏目金之助 」


さてっと、坂本繁二郎著「私の絵 私のこころ」(日本経済新聞社)の最初の絵は、カラーで「うすれ日」が載っております。では、坂本氏の文章から引用。

「大正と改元されたその秋の第六回文展に出品しました『うすれ日』と題した牛の絵・・うれしかったのは夏目漱石の評文を新聞で見たことです。切り抜きを保存しているのですが、『うすれ日は小幅である。牛が一匹立っているだけで、自分はもともと牛の油絵は好きでない。荒れた背景に対しても自分は何の興味も催さない。それでもこの絵には奥行きがある。もっと鋭く言えば、何か考えており、その絵の前に立って牛をながめていると、自分もいつしかこの動物に釣りこまれ、そうして考えたくなる。もしこの絵の前に立って感じないものは、電気にかからない人だ』という意味の文章でした。・・・・牛は好きな動物です。自然の中に自然のままでおり、動物の中でいちばん人間を感じさせません。大正時代の私は、まるで牛のように、牛を描き続けたものです。・・・」(p59~60)

それにしても、坂本繁二郎のあの馬の絵は、私にはわからないなあ。能面の絵は、私はうけつけません。なんて、実物も見ないで、カタログで、かってに判断しております。うん。それはそうと、青木繁展を見に行こう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネット作法・ブログの醍醐味。

2011-05-29 | 手紙
鎌田浩毅の「一生モノ・・」2冊を、今日はパラパラとひらいておりました。
面白いなあ。と、私が感じたことを書きます。
インターネットがはじまって、もう、生活の一部へと浸透している、いくわけですが、たとえば、学校で、ネット上の作法というのを教えるようになる。そんなことを思い描いてしまう端緒が、もう鎌田浩毅氏の本には語られているのでした。

たとえば、「メール作法」。行儀作法は小笠原流。ではメール作法の鎌田流は、こうでした。

「私は、メールをもらったときには、【受け取った】との情報だけでも返すようにしている。こうすれば、送った人はメールが届いたことが確認できるので、まず安心する。そして次の行動がとりやすい。反対に、私からの返信が来なければ、いま長期出張にでも行っているのだろうと推測がつく。私は大事なメールには、いますぐ内容自体への回答ができない場合でも、受け取ったこと、あとであらためて返答すること、を伝える返信メールは、こまめに打つようにしている。このシステムは、野外で無線を使ったことのある人ならすぐに理解してくれるだろう。了解したことだけ伝えるために、『ラジャー』や『テンフォー』と必ず返答するのではないか。
メール世代であるはずのいまの学生たちには、意外なことにこれができない人が多い。効率的で正確な情報伝達と良好な人間関係維持の第一歩として、『受け取ったメールには返事をすぐ出せ』と、私は学生に指導している。
これができるようになった学生は、人間関係も上手にこなせるようになる。反対に、これすらできない学生は、いつまでたっても人間関係が下手なのである。
これは学生にかぎらず、社会人でもまったく同様である。メールで何回かやりとりしてみると、この人は仕事がうまくいっているか・・、ある程度は判断がつく。それくらい、電子メールは人柄までをも映し出してしまうコワイ鏡なのである。
電子メールで効率的にやりとりができるようになると、仕事が速く、意思疎通が上手になる。それぞれ自分に合ったやりかたを工夫してみるとよいだろう。」(p47~48・「ラクして成果が上がる理系的仕事術」PHP新書)


さてっと、今日めくっていた「一生モノの人脈術」(東洋経済新報社)には
「ブログの醍醐味」(p153)という箇所がありました。

「世の中の疑問に自分は何と答えるのかを真剣に模索して、その考えを表明しましょう。一定の読者を想定して、きちんとした論を立ててみることで、自分の思考を磨いてゆくのです。政治・経済や国際関係など、もっと広いテーマについて書くときも同様です。自分が他人や社会に対して何ができるのか。その具体的なメニューを明らかにすることからしか、外部からのオファーは期待できません。私の見るところ、世の中のブログの95パーセントは、個人的な感想や趣味の押しつけで占められているのではないかと思っています。その中では、ごく少数ですが、光る洞察を展開しているブログが確かに存在します。無名の人が、その辺の評論家顔負けのきわめて真っ当な意見を主張することもあります。
こうしたものを発見したり、また自分も負けずに優れた見解を発信することも、ブログの醍醐味の一つといってよいでしょう。」


このあとに

「たとえば、フランス思想研究家の内田樹さん、編集工学者の松岡正剛さんのブログは、たいへん読みごたえがあります。そのほかにも博物学者の荒俣宏さん、コピーライターの糸井重里さん、作家の田口ランディさん、写真家の藤原新也さん、国際問題評論家の田中宇さん、作家のいとうせいこうさん、経営者の平川克美さん、総務官僚の岡本全勝さんなどのブログもおすすめです。もし、更新から目が離せないようなブログがあったならば、自分のブログと何が違っているのかを問うてみましょう。・・・何をどう伝えればよいのかを真剣に探ってみるのです。その訓練は、後々自分がアウトプットする際にもきっと役に立つに違いありません。」(p154)


私は、内田樹・松岡正剛のお二人のブログしか、見ておりませんでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ままへ。

2011-05-27 | 手紙

 子はいつもうんともすんとも
     言わぬのに大地震の時メールが届いた


東京歌壇(5月15日)佐佐木幸綱選の最初に選ばれた一首。
江戸川区 皆芳浩子さんの歌。




戦場カメラマン・一ノ瀬泰造氏の写真で、
わたしに忘れられない一枚があります。
戦場での一場面らしいのですが、野外で
中年夫婦が腰掛けて手紙を読んでいる。
夫のそばに、拳銃が立てかけてあり。
傍らの女性は、さまざまな経験をして、
どのような感情をあらわせばよいのやら、
もう思いつかないような、そんな表情をしております。
けれども、夫が、手紙を読んで笑っている。
まるで伝染(うつ)ったように、妻がよりそって笑っている。


その手紙には、いったい、
どのようなことが書かれていたのだろう。
閑話休題。


「新潮45」5月号の曽野綾子連載「作家の日常、私の仕事」。
それが最終回で、その最終回の文の最後は、こうでした。

「3月31日付の読売新聞は、この災害の中でもっとも胸迫る詩を書いた四歳の詩人の作品を載せた。宮古市の津波で、両親と妹を失った昆愛海(こんまなみ)ちゃんは、避難先の親戚の家の炬燵で、長い時間かかって一人でまだ帰らないママへの手紙を書いた。そして疲れてしまったのか、鉛筆を握ったままうたた寝をした。

   『 ままへ。
     いきてるといいね
     おげんきですか  』             」


それについて、「よみうり寸評」(4月26日読売夕刊)で、
「・・避難先の親戚の家のこたつで一時間近くかけて書いたママへの手紙だ。ここまで書いて、愛海ちゃんは疲れたのか寝入ってしまった。読んで泣かされた。・・・」

その3月31日読売の古新聞をひらいてみました。
一面にその写真があります。その下にこうありました。

「・・22日午後、『ママに手紙を書く』と言い出した。親戚の家のこたつの上にノートを広げ、色鉛筆を持つ。1文字1文字、1時間近くかけて書いた。・・そこまで書いて疲れたのか、すやすやと寝入った。・・・」

その日の社会面には、愛海ちゃんの関連記事。そこから

「・・父親は、養殖ワカメで生計を立てる漁師をしていた。地震の日。保育園にいた時に強い揺れがあり、迎えに来た母親と自宅に戻った。入り江を望む高台の家は、震災時の避難場所となっている小学校とも隣接している。もう怖い思いはせずに済むはずだった。だが、帰宅した瞬間、巨大な津波が襲った。地元の災害対策本部によると、入り組んで狭くなった小さな湾に押し上げられ、波は30メートル以上もの高さに達したのだという。両親と2歳の妹は引き潮にさらわれ、行方不明になった。愛海ちゃんだけは助かった。すぐ駆けつけた親族によると、背負っていた通園用のリュックが漁に使う網に引っかかったようだ。・・・」


 
ちなみに、「東日本大震災 読売新聞報道写真集」のp136~137に、その写真が掲載。
「カラー版読売新聞特別縮刷版 東日本大震災 一か月の記録」に、その箇所の記事が読めます。

お父さんお母さん妹へ、手紙よ届け。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塞がれたポスト。

2011-05-10 | 手紙
毎日歌壇5月8日の伊藤一彦選の3首目でした。

 投函にくればポストに紙貼られ塞がれてをり
地震(なゐ)のためにと
         横手市 浦部昭人

思い浮かんだのは、「1995年1月・神戸」(みすず書房)。
その中井久夫氏の「災害がほんとうに襲った時」のこの箇所でした。

「・・・・郵政の末端は非常な努力で震災の翌々日には私の家にも配達を実施してくれた。特定郵便局の老局長さんみずからのバイク姿の御出馬であった。普通ハガキで四日から七日、速達はずっと早かった。郵便小包も次々に配達された。私も20年前に診てなお入院中の方から一万円、10年前に一度相談に乗った方から多量の鉱泉水などを頂いて驚いた。他にもかつての患者さんからの物資、見舞い、手紙がもっとも多かった。しかも年賀状を欠礼してしまった前任地、前々任地からの御贈り物もあった。これらの意義をさとって配達された郵政省の職員に敬意を表したい。
地震当日が私どもの地区の荒ごみ収集日であった。さすがに当日は清掃局の収集車が来なかったが二日遅れできちんと収集され、次回からは定時に収集が行われた。驚くべきことである。・・・それほど、私のあたりは被害が少なかった。不条理な話であるが、ふだんは意識しない地盤と家屋構造と破断の走り方とによって明暗は大きく分かれたのである。」

明暗がわかれるといえば、
3月23日読売新聞に山崎正和氏が「震災克服への展望」という談話をのせておりました。
その最後に、こんな箇所があります。

「阪神大震災で被災した16年前、私は『おにぎりも、文化も』を合言葉に文化復興に奔走した。発生からほどなくして、荷物をまとめ兵庫県西宮市の自宅から京都方面に避難したのだが、(西宮・尼崎市境の)武庫川を渡った途端、被災地とは別世界が広がっていた。それを思い起こすと、今回の大震災は被害がけた違いだ。文化を含めて人々が心理的安定を取り戻し、できるところから平常心をよみがえらせていくことは大切ではあるが、その事を口にするにはもう少し時間がかかるかもしれない。」

ちなみに、山崎氏の談話のはじめのほうには、こうありました。

「戦後最大の国難というほかない。・・・・再び戦後復興に取り組むくらいの覚悟が必要だ。救いは全土が焼け野原だった戦後に比べて、今回は東京以西のインフラ(社会基盤)がほぼ無事なことだ。日本人は『災害復興型』の国民だと思う。太平の時代、文化は爛熟するが、元気に乏しい。だが、いざ国難に直面すると、奮起する国民性なのだ。今回も、日頃はとかく『内向き』と評される若い世代が頑張ってくれるのではないか。そう考えるのは、私もまた、災害復興型の心理状態にあるのかもしれない。」


さて、もう五月になっておりました。
今日「文藝春秋」6月号が発売。
巻頭随筆は立花隆氏。そこに

「・・大震災以後しばらく、TVから商業コマーシャルがいっせいに消え、その代りうるさいほどに『日本は強い国』『みんな一緒』『絶対乗りこえられる』を強調するACジャパンの公共コマーシャルが流された。あの連呼を聞いていると、私のような世代は、戦争時代の『国民精神総動員運動』を思い出してしまう。何か危ない時代に突入しつつあるような気がして、逆にこの道を行くと国家的苦難を絶対乗りこえられないのではないかという気がしてきてしまう。」


かたや、戦後復興型。
こなた、戦争時代の思い出。

ところで、「塞がれたポスト」
あれから、投函できたのでしょうか。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貴君は、きっと。

2011-03-13 | 手紙
はじめて知るエピソードというのは、印象に残るんですね。
たとえば、竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)に
黒柳徹子さんのエピソードが、一読忘れられないなあ。

「黒柳徹子さんは中学生のとき、東京・東急池上線の長原駅前で易者に手相を見てもらった。
  結婚は、遅いです。とても遅いです。お金には困りません。あなたの名前は、津々浦々に、ひろまります。どういう事かは、わかりませんが、そう、出ています。
        ―― (黒柳徹子「トットチャンネル」、新潮文庫)

・ ・・・・ 〈とても遅い〉という黒柳さんの結婚に注意を払っている人が世間に何人いるかは知らないが、筆者(竹内政明氏のこと)はその一人である。」(p120~121)


黒柳徹子さんの名前は、津々浦々にひろまりましたが、それでは池部良の名前は、どうでしょう。ということで、以下は池部良の強運を予言しているエピソード。それは池部良著「ハルマヘラ・メモリー」(中央公論社・古本ですが、文庫本もあるようです)。そこに、輸送船でバシー海へと出る直前にもらった手紙というのが、あるのでした。では、その手紙を以下に、

「私は、第三軍兵器部、技術将校、高田翔一郎大尉です。」

こう手紙は、はじまっておりました。
ちなみに、池部良著「江戸っ子の倅」に
「僕みたいな東京生まれの育ちと来てる男は、どういうわけか【律義】という重箱みたいなものが好きなようだ。」(p84)とあります。私は、この手紙も実際にもらったものだと思いながら読んでおりました。では手紙の文面をつづけます。

「先般、貴君の訪問を受けた際、拳銃を世話してくれとのことでしたが、貴君が、私の弟、順二と大学が同級であり、しかも英語会とかで共に過した間柄であることを知り、貴君に親近感を持ち、喜んで拳銃をお世話することになりました。貴君は、近く、南方へ進発するとか。・・・・貴君のおられる第三十二師団は、来る五月五日、ウースン港を出発、フィリッピンのミンダナオ島に向かう由であります。輸送船団は、最近になく大型船団で・・・更なる情報に依れば、台湾、フィリッピン間の海域、バシー海、揚子江河口、南支那海には、アメリカ軍潜水艦が跋扈(ばっこ)しているとのことです。我が国は、漸く電波探知機、即ち、敵を遠距離に於いても発見出来る電波機器の初歩が製作されつつありますが、アメリカの如く能力が高くなく、普及率が低いので、敵からは迅速に発見され、大いなる被害を被(こうむ)るわけです。戦況に著しい差が現われているのが現状です。従って、輸送船の如く、速力は鈍く、火砲が貧弱とあっては、敵の容易な標的になります。・・・通過せざるを得ないバシー海で、何も起こらないことを望む方が、おかしいのでありまして、私の想像では、必ずやアメリカ潜水艦群に襲われ、海没する輸送船が続出、兵員、一万二、三千名は戦死することになると思っています。これが、杞憂であればと祈るわけですが、技術将校として、敵を素早く発見出来る電波機器を保有している方が勝ち、と睨んでいますから、到底、我が軍は比べようもなく、脆くも、打ちのめされる結果になります。・・・私は、本職の軍人でもなく、兵科の将校でもありませんから、大本営の、無知にして無謀とも思える作戦指導に、腹を立てるのは間違いかも知れません。しかし、心を痛めずにはいられません。
私の心配が、的を外れていることを願っております。貴君は、運の強い人だと、私は思っております。この運を信じて、南方へ出撃して下さい。お互い、しなくてもいいことで青春の命を失う羽目に陥っているわけですが、この戦争が勝つにしろ、負けるにしろ、貴君は、きっと命を完(まつと)うすると思っております。私も人間でありますから、嘘をつくこともありますが、私には予感めいた閃きがあって、これは外れた例(ため)しがありません。貴君は、必ず、命を失うことはありますまい。私の言を信じて下さい。・・・・」(章「天空丸接岸」。単行本のp152~)


池部良は1918年2月11日生まれ。そして昨年2010年10月8日死去。
「貴君は、きっと命を完(まつと)うすると思っております」という高田翔一郎氏の言葉が、いまになって鮮やかに浮かび上がるようです。


とりあえず、池部良著「ハルマヘラ・メモリー」を開いて(通読していないのですが)、要所らしい箇所を読んでいたら、この手紙を読めたのでした。


うん。「ハルマヘラ・メモリー」を通読してみたいけれど。
もう、幻戯書房の池部良著「天丼はまぐり鮨ぎょうざ」を注文(笑)。
「貴君は、きっと命を完(まつと)うする」と言われた。
他ならぬ、そう言われた当人の文章を読むために注文。
ちなみに、幻戯書房「江戸っ子の倅」の最後のページに、好評既刊の紹介があります。そこから以下に引用しておきましょう。
まあ、本が届くまでの楽しみに。


「『天丼はまぐり鮨ぎょうざ』
 銀幕の大スター逝く ―― さりげなく人生を織りこんだ、この痛快な食物誌は、練達の技で、エッセイのあるべき姿のひとつを、私に教えた(北方謙三)。落語のように軽妙洒脱な文章で綴った、季節感溢れる「昭和の食べ物」の思い出。おみおつけ、おこうこ、日本人が忘れかけた味がここにある。生前最後の随筆集。」


こう引用していると、主役・池部良による
なにか、映画の予告篇みたいになります(笑)。
ワクワクして、読めるのを楽しみしております。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そいつはいい。

2011-03-07 | 手紙
外山滋比古氏のエッセイを読んでいると、前の本と重複するエピソードが出て来ます。内容も重なることが多い。ひょっとして、ご自身も繰り返し、本になるたび読み直しされているのじゃないのでしょうか。そうですよね。また、それを落語家の噺でも聴くようにして、読むのが新米のファンの楽しみ。


さてっと、だいぶ前に読んで忘れられない箇所が、そういえば、ありました。河上徹太郎氏の「座右の書」という2ページほどの文(「史伝と文芸批評」作品社・p122~123)

そこから一部だけ引用。

「いつか女房連れで福原麟太郎氏に合つた時、氏は御愛想に『河上さんはうちでよく本を御読みでせうね』といはれたら、女房が『ええ、ところが何かと思つて見ると、自分で書いたものを一生懸命で読んでるんですよ』と答へた。福原さんは、『そいつはいい』とわが意を得たやうに笑つて下さつた。」


この箇所を最初に読んだ時は、へ~、そんなことがあるのかと、不思議な感じで印象に残っていたのですが、昨日自分の以前のブログを読み返していたら、すっかり忘れていた引用に出くわして、その時々で、連想するのもいろいろと変わってゆくのをあらためて感じたのでした。
たとえば、和田浦海岸のブログ2010年2月5日は「筆不精」とあり、外山滋比古著「コンポジット氏四十年」(展望社)からの引用があり。その引用箇所に

「とにかく・・筆まめである。ひところは、年にハガキ三百枚、封書を百本くらい書いていたことがある。年賀状は別としてである。・・・原稿を送るときにも、原稿だけではなく、かならず、短いあいさつを添える。・・・」(p132)

という箇所を引用しておりました。手紙ということで、今回の連想。
昨日、福原麟太郎随想全集1(福武書店)の月報に、ふれて、そのままになっておりました。その月報には白洲正子・加藤楸邨・巌谷大四の3人が書かれているというところまで書いておわったのですが、今日は、それに触れてみたいと思います。

まずは、白洲正子氏の文。
そこでは、随筆に「この頃は土筆や蕗の台がなくなって寂しくなった」とあり、白洲さんが御自身の家で生えている野草を摘んで送った話をしておりました。以下引用。

「先生は大そう喜ばれ、ていねいなお礼を書いて下さった。馬鹿の一つ覚えで、それがわが家の年中行事となり、毎年春になると、初物の野草を先生に送るならわしとなった。その度に自筆で心のこもったお礼状が来た。・・・福原先生と私の付合いは、そういった他愛のないもので・・以外に私には何もできなかったが、その滋味あふるるお手紙は、人との付合いはこうあるべきものだ、どんな小さなこともおろそかにしてはならないと、そういうことを教えるようであった。」

これが、2~3ページほどの文の書き出しでした。
加藤氏の文は、「私がいただいた先生の本の中で、最も惹かれたのは『チャールズ・ラム伝』で・・・」と始まります。こちらは、手紙という言葉が出てこないので次にいきます。
巌谷大四氏の文はこうはじまっておりました。

「去年の春、手紙の整理をしていたら、福原先生から頂いた封書や葉書が十数通あった。それを一つ一つ読み返し、しばらくの間先生の面影を偲んだ。先生は私のつたない著書を全部読んで下さっていた。お手紙の殆んどはその温いご批評であった。・・・」

そして、巌谷氏の文の最後は、頂いたお手紙からの引用なのでした。

(うん。昨日書き残したことを、引用できてよかった)



話がかわりますが、
寺田寅彦と中谷宇吉郎のお二人のエッセイは似ておりますね。
福原麟太郎と外山滋比古のお二人のエッセイも、その意味では似ております。
たとえば、外山滋比古著「失敗の効用」に「郵便好き」という文。
はじまりは「郵便が好きである。うちにいる日に郵便の来る時刻になると落ち着かない。玄関の方で音がすると飛び出していく。空耳のこともあるが、配達さんとハチ合わせということもある。郵便は一日のハイライトだ。」
福原麟太郎のエッセイに「郵便」と題した文。
そのはじまりは、
「郵便を待ち焦がれているのは、私ばかりであろうか。返事はなかなか書かないくせに、来る手紙には、来るべき義務があるかのように、毎朝何かしらを期待して、郵便配達の足音を待っている。私の家へ彼がやって来るのは大体午前九時である。私は、九時以後まで宅にいる朝には、きょうは郵便を見て出られると喜び、九時前に家を出る日には、今日は帰ってからの楽しみがあると思って靴をはく。・・・」

ちなみに、これは「福原麟太郎随想全集3 春のてまり」(福武書店)では14ページほどの文となっており、手ごたえあり。



え~と。私はなんでこんなことを書いているのだろうなあ。
じつは、最近「詩集」を二冊いただきました。
一つは、郵送でした。
一つは、直接詩人がもってきて、手渡しでくださいました。
そのどちらにも、私はお礼の手紙を書いていないのでした。
おそらくは、そんなことを無意識に思いながら、このブログを書きこんでおります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名セリフ。

2011-02-27 | 手紙
新刊の竹内政明著「名セリフどろぼう」(文春新書)。
う~ん。この新書を一言で紹介するなら、2011年版「お楽しみはこれからだ」(笑)。
この新書では、テレビドラマのセリフをすくい上げております。
「テレビドラマのセリフも命は短い」。
あとがきには
「心に残るセリフを一つひとつ丁寧に布でぬぐい、手製の宝石箱に並べてみたい。そんな思いから、この1冊を編んだ。・・・ひとさまが心血をそそいで編み出した言葉に寄りかかり、余談と蛇足を継ぎ足してエッセイを僭称するのは・・・二冊目である。」(p206~207)

二冊目なので、肩の荷がおりた感じで書いております。前作「名文どろぼう」より、私は気楽に入り込めました。ちなみに、あいうえお順の目次となっており、最初の「あ」が挨拶で、「ん」があとがき。

今ぱらぱらと読んでいるところなので、最初の「あ」だけ紹介しときます(笑)。
一項目が4頁。余談と蛇足がひかります。
最初の1ページをつかって倉本聰『前略おふくろ様』から9行の会話。
一行づつの短いやりとりを引用しておりました。
つぎのページから、竹内政明氏の料理。
料理の素材は、野村克也著「野村ノート」(小学館)
谷沢永一著「文豪たちの大喧嘩」(新潮社)
村山吉廣著「評伝・中島敦」(中央公論新社)
この3冊から適宜素材をもってきて組み合せての3ページ。
年賀状・手紙の返事という内容なのです、
私、そこからはじめることに、まず感心しちゃいました。

すこし引用しましょ。

「評論家、谷沢永一さんの『文豪たちの大喧嘩』によれば、荻生徂徠は若いころ、尊敬する伊藤仁斎に教えを乞う書簡を出した。返事が来なかったので、仁斎を一生憎み通したという。大儒学者にして、かくのごとし。たかが手紙一本、年賀状ひとつと片づけられないところが人交わりのむずかしさである。」

「『山月記』などで知られる作家、中島敦もかなりの筆不精だったらしい。旧制一高に通っていたとき、両親は満州にいたので、敦は東京・本郷にひとり下宿していた。わが子を不憫に思ってだろう、満州からは季節季節に衣類やら何やら、心のこもった小包が届く。敦はいつも返事を書かない。たまりかねてか父親が小包に手紙を添え、『これからは必ず、荷物が着いたかどうかを知らせろ』と叱りつけてきた。
ある日、一高の友人が敦の下宿を訪ねると、投函するつもりの葉書が机の上に置いてあり、文面にはただ一文字『着』と大きく書かれてあった。この返事のために父親からいっそう厳しく叱られた・・・」


う~ん。手紙の返事を書かなかった例を出してくるという余談が、何より返事を書かない私の肩の荷をおろさせ、しかも書かなければいけないと思わせる(笑)。
「前略おふくろ様」のセリフは、え~と、読んでのお楽しみ。
名コラムニストによる、これからはじまるお楽しみ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

棋士の持ち時間。

2011-02-13 | 手紙
板坂元著「発想の智恵表現の智恵」(PHP研究所)は新書サイズ。
発想のタネになる格言を2~3行引用してコメントを1~2頁書いて、つぎつぎと並べております。その最初の箇所に「手紙」が登場しているので、それじゃあ、この一冊に手紙が何ページに出てくるのか、ぱらぱらとめくってみることにしました。

まずは、最初の箇所。
「・・・アイデアとはそういう努力の果てに生まれるものなのだ。その意味では、人と話したり手紙を書いたりすることが、大いに役立つことがある。私の場合は、知人に手紙を書いているうちに、うまい考えが出ることが多いので、何か仕事を始めると、同じ日に二度も友人に手紙を書いたこともある。状況を詳しく説明するような手紙を書くとき、頭の中が整理されてきて、気のつかなかったアイデアが飛び出してくるものだ。」(p14)

「慣れれば人を待つ五分間でハガキ一枚くらい書くことができる。手帳を開いてスケジュールをチェックしたり、ショッピングリストを作ったり、いろいろなことが五分間で果たせる。棋士の持ち時間のように無駄なく使えれば、人生は豊かになる。・・・」(p16)

「日本の企業はレターヘッドにあまり関心を払わない。・・・・
そして何より日本の会社に手紙を出しても返事がこない、というのはアメリカ人の間で定評になっている。心すべきだろう。」(p52~53)

「『自分はフェアバンク教授に読んでもらう、ということを頭に置かないで書いたことは一度もない。 T・H・ホワイト』
・・・・フェアバンク教授・・若き日の教授の物心両面にわたる援助を受けたホワイトは、その恩に報いるために一生懸命に書いたのである。その名文の陰には『恩師に手紙を書くつもりで書く』という基本的精神があったのだ。手紙の場合、読み手がどれだけ知っているかは先刻承知している。そして、そういう情報はすべて省略するのが礼儀でもある。文章を書くときも、相手の知っていることをくどくど書くのは失礼だし、気の短い読み手ならカンシャクを起してしまうだろう。」(p72)

「手紙を書くことによるコミュニケーションは、面と向かって話すことや電話で話すことよりも難しい。アメリカの社会人類学者アルバート・メラービンの説によると、実験の結果・・・
目とか口などで相手に通じるものがもっとも有力で、つぎが声の調子、そして言葉によってわずかなものが相手に伝達されるというわけだ。つまり、面と向かって話せば100%、電話で話せば45%、手紙で書けば7%しか効果が上がらないことになる。だから『手紙を書くように』というのも、説得のためには相当に難しい仕事と覚悟しなければならない。文章も、文体とか言葉づかいは別にしても、欲を言って『手紙を書くように』からさらに一歩進んで『面と向かって話すつもり』『電話をかけて説明する』といった気持ちで書くように努力すべきなのだろう。」(p73)

「たとえどんな小さな問題でも、既に学会の定説になっているもの以外は、いちいち断ってその説を立てた人の名前を記す必要がある。几帳面な人は『何月何日の何々との談話による』とか『某氏の手紙による』などとフットノートをつけている人もいるが、そういうクセを若いときから身につけておくことは非常に大切だ。」(p74)

「『かつて永井荷風は毛筆書きの手紙でないと読まずに破り捨てたという。』
私は、若い人からよく手紙をもらうが、ときどきノートを破りとった紙に手紙を書いてくる人がいる。永井荷風ほど偏屈ではないが、あまりうれしくは思わない。同じことで、絵葉書や航空書簡を使うのも場合によっては失礼になる。用件が多かれ少なかれビジネスなり公用に関するもので、特に未知の人や目上の人には絵葉書を出すものではないし、航空書簡も親近感がない人には出すべきではない。・・・・・
私信はできるだけ手書きがより。水茎のあと麗しき便りが廃れて久しい今日この頃、ワープロ打ちの手紙の最後に自分の手で署名することさえしない人が多い。・・・・アメリカでも、結婚祝いに対するサンキューレターや、パーティなどへの招待状に対する返事、お祝いの手紙、弔問・慰めのレターなどは手書きが普通になっている。年長者とか新しい知り合いに対しても、自筆の手紙のほうが親しみの度を深めるものだ。
年賀状や挨拶状なども、せめて自分の氏名の部分だけは手書きにしたほうが人間的ぬくもりが生れてくるだろう。・・・」(p76~77)

あと、夏目漱石から芥川龍之介への手紙(p138~139)や
小説『チャリング・クロス街84番地』(ヘレン・ハンフ著)(p140)などもありました。

以上「 発想の智恵 表現の智恵 」における手紙のしめる割合。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年賀葉書文面。

2010-12-24 | 手紙
毎年年賀葉書は、前年発売された新刊案内をしております。
その文面を紹介。
どうも、年賀葉書を書く相手よりも、ブログを見てくれている方のほうが多そうです。
ということで、私の年賀葉書は以下のとおり。

  謹賀新年 2011年 新春に感銘本の紹介

○守屋淳編訳「渋沢栄一の『論語講義』」(平凡社新書)
 維新功労者をまじえて語る論語講義。それを簡潔的確に紹介した一冊。
○「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ新書)
 「知的生産の技術」の著者のスケールを座談で気軽に味わえる魅力。
○鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)
  連載7年間分の短文が詰まった一冊。一回が2ページほど。
○山内昌之著「幕末維新に学ぶ現在」(中央公論新社)
  新聞連載。現政治から幕末へと一人3頁で語る歴史人物の奥行き。
○竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)
  「編集手帳」の筆者による、思いもよらない名文の行列。
○丸谷才一著「あいさつは一仕事」(朝日新聞出版)
  ご自身の祝辞などを集めた挨拶本。これが待望の3冊目。
○宇野直人・江原正士著「漢詩を読む 2」(平凡社)
  NHK ラジオ第二放送での軽快な対話形式の漢詩その歴史。
○黒岩比佐子著「パンとペン」(講談社)
  売文社を活写。昨年氏のブログから目が離せませんでした。
○高橋鎭子著「暮しの手帖と私」(暮しの手帖社)
  戦後の雑誌出版にまつわるあざやかな人間模様。
○芸術新潮「いざ鎌倉」2010年11月号
  一冊に鎌倉が写し込まれて、まぶしい鮮度。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宛名書き。

2010-12-18 | 手紙
今年も、手紙を書かない一年でした。
そんなことが、思い浮かぶのも、ひとえに年賀はがき。
年賀はがきを、まだ書いてません(笑)。
せいぜいが50枚ほどの年賀はがきですが、ご両親の喪中の葉書が数枚とどいておりました。毛筆で宛名をかいてくださっている方もおられます。
話がそれますが、古本屋に注文して本が届くと、手書きで宛名をしたためている古本屋さんがわりにあります。
私の名前を、いろいろな方が書いて下さっていて、
つい、捨てるのが惜しい宛名書きもあったりして、
自分が字が下手なので、ぞんざいに書かれている筆致に、自分の字を重ねあわせて、思わず笑ってしまったり、下手は下手なりに丁寧にかかれている宛名書きには、捨てがたいものがあります。ということで、印刷の宛名以外は、何となくとってあります。まあ、いずれは捨てちゃうんですが、すぐには捨てがたい。ペンやサインペン、筆、筆ペン、ボールペンとさまざまですが、私の住所と名前を、さまざまな方に書いてもらっていると、さまざまな書体の自分にであっているような味わいがあり、それだけで、なにやら有難い気分になったりもします(笑)。まあ、こんなふうにボンヤリして、年賀はがきを書き始めるまえに、とりとめもないことを思うのでした。毎年こんな感じで、年賀はがきまで、たどり着くには、まだ数日かかりそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グリーティング。

2010-12-15 | 手紙
毎年。クリスマスにあわせ、
グリーティングカードを送ってくださる方がいて、
今年も届きました。
それがきれいで、つい語りたくなります。

はがきの上4分の1ほどが星空。
星空の下は雪の原。
雪の原はゆっくりと波のようにうねり、
夜空を切り取っています。
白い波の原には、裸木が12~13本。
裸木には、それぞれ無数の枝が伸び、
一本一本の枝ぶりが、
丸、三角、それに牧場サイロの形。
白波には、無数の粉末のラメがまぶされていて、
きらきらと銀の輝きのように、室内灯に反射します。
グリーティングカードをもって、
ゆっくり左右に傾けると、ある角度で、全体が輝く。
パソコンに立てかけると、
そばを通るたびに、カードが輝いていたりします。

ということで、12月の後半は、
この華やぎのなか、ブログを書くことになります(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

便せん十数枚。

2010-11-20 | 手紙
古書検索をしてたら、2008年12月号「彷書月刊」が見つかりました。
特集が「わたしの先生」。
そこに黒岩比佐子さんが2ページほど書いています。
届いたので、さっそく、そこだけ読みます。
題名は「十一年前の出会い」。
ジャーナリストの、むのたけじ(本名・武野武治)が紹介されておりました。

これ古本値500円でしたので、しっかりと引用しておきましょう。
ちょうど真ん中の箇所を引用。


「・・・実際にお話をうかがってみてさらに驚嘆した。むのさんはそのとき八十二歳、私は三十九歳。ところが、話しているうちに、年齢のことなど完全に忘れてしまっていた。なぜか、強く心に感じるものがあった。帰宅後、お礼の葉書を出すと、むのさんから返事をいただき、それからずっと文通が続くことになった。
いま思えば、それは運命的な出会いだった、といえるだろう。二十代後半からフリーランスのライターとして活躍していた私は、三十代後半になって、本当に書きたいものは何か、何を書くべきか、と暗中模索を続けていた。むのさんに出会ったのは、ちょうど私がある人物の評伝を書こうと決意して、出版できるあてもなく、取材を始めたときだったのだ。
 手紙で相談すると、むのさんはそのたびに、長い人生経験から、直感から、日本の社会状況から、いろいろなアドバイスをしてくださった。便せん十数枚もの厚い手紙が届くこともあった。その重みがうれしかった。何をしてもうまくいかず、意気消沈しているようなときでさえ、それを読むと不思議に勇気がわいてきた。会社にも組織にも所属していないライターである私は、むのさんの手紙にどれほど励まされたことか。
 それから現在までに、七冊の本を出すことができた。最初の著作も含めてそのうち三冊が評伝だが、人の見方やものの見方について、むのさんには多くのことを教えていただいた。秋田と東京に離れているため、お会いしたのは六回にすぎないが、むのさんによれば、私が書いた手紙は百通以上になるという。目が悪くなったため、むのさんからは電話が多くなったが、これまでに七十通近い手紙をいただいている。私の大事な宝物だ。
 むのさんのメッセージのなかには、忘れられない強烈なものもある。たとえば、物書きとして忘れてはいけないことの一つに挙げた『死にもの狂いの努力と、その貫徹』。
 なかなかその境地に達することはできないが、怠け心が出そうになると、私はこのフレーズをつぶやいて自分を戒めている。
 そして、今年五十歳になった私に、九十三歳のむのさんが贈ってくださった言葉は『人生は六十歳から本番』。もう五十歳か、と落ち込みかけていたときに、まだこれから十年は勉強期間であり、六十歳でようやく本当の力を発揮できる、人生はそこからが本番だ、と言われてかなり気持ちが楽になった。・・・・」


黒岩比佐子さんが聞き書きをした、むのさんの新書が、そういえば読んでいない。
さっそく注文しなくちゃ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

切り詰める。

2010-07-06 | 手紙
竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)に「手紙と名文」という箇所があります。
そこにパスカルの有名な言葉がちゃんと引用してありました(p142~)。

「この手紙がいつもより長くなってしまったのは、もっと短く書き直す余裕がなかったからにほかなりません。(パスカル「プロヴァンシアル」第十六の手紙)」

それなら、清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)も引用しておきましょう。

「文章のイロハを学びたいという方は、いろいろなチャンスを利用して、精々、手紙を書いた方がよいと思います。電話で用が足りる場合でも、手紙を書くべきでしょう。
面倒だ、というのですか。いや本当に面倒なもので、私にしても、毎月の原稿が一通り済んでから、まるまる一日を使って、何通かの手紙を書くことにしています。原稿料とは関係ありませんが、実際、手紙を書くのは一仕事です。しかし、それも面倒だ、というようでは、文章の修業など出来たものではありません。」(p68)

今度、黒岩比佐子氏が「堺利彦」の評伝を出版されるとブログで書かれておりました。
うん、そうすると堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫)を思い浮かべます。

そこに「省略」について書かれている箇所があります。

「元来、文章はすべて事実の略記だということもできる。事実そのままは無限無究のものである。大にも際限がなく、小にも際限がない。そこでその無際限のうちから、要点の部分部分を抜き取って、それを排列し、接続し、組み合わせたのが人の思想で、その思想を外に現したのが文章である。故に文章の根本生命は省略にあるということもできる。例えば写真を撮る。写真は実物をそのままに写すというけれど、実はわずかにその一部分を写すのである。・・・ところで要点の選び方が最も大切なことになる。要点とは必ずしも重大な事物ばかりではない。場合によっては、極めて些細な事物を要点として挙げることができる。例えば、大火事の記事を作るに、渦巻き上がる黒煙の間に、悪魔の舌のごとき深紅の炎が閃き出るというようなことも必要であろうし、蒸気ポンプのけたたましいベルの音が群集を押し分けて響きわたるというようなことも必要であろうが、その他の大事件、中事件、小事件をいちいち細かに書き立ててみても、ただ文章がごたごたするばかりであるから、それらの雑件はほんの二三句に概括して略記しおき、ただ一つ、裏長屋の路次口から寝巻に細帯という姿で飛び出した一人のカミさんが、左の手には空の炭取を一つ提げて、右の手には生れたばかりの赤ん坊を逆様に抱いていたというようなことでも、少し委しく描きだしたら、このとるにも足らぬ些細な事件が、あるいはかえって火事場の混雑を読者に感じさせる、最も有効な材料になるかも知れぬ。・・・」(~p59)

じつは、この箇所を〈狐〉さんが清水幾太郎著「私の文章作法」の文庫「解説」で見事に引用しておられるのでした。

最後はどうしましょう。

薄田泣菫「完本 茶話」(冨山房百科文庫・下)には向井敏の「解説」が掲載されておりました。その解説文の最後は、どうしめくくっておられたか。

「『演説の用意』と題するコラムのなかに、『長い文章なら、どんな下手でも書く事が出来る。文章を短かく切り詰める事が出来るやうになつたら、その人は一ぱしの書き手である』という一節が見える・・・・」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする