バスで行って、電車で帰ってきました。
さて、何をもっていこうと本棚を見回すと、
買ったのに、読まずにあった本に目がいきます。
ということで、
見城徹・藤田晋著「憂鬱でなければ、仕事じゃない」(講談社)を
持っていくことに。
近所田舎にすんでいるのですが、
雨は朝がパラパラ。帰りもパラパラという具合。
帰ってきてから、だんだんと降り出しました。
車中から山を見れば、
あんなところに、桜が咲いている。
田んぼに水がはってある。
背景の山に桜が咲いている。
まあ、トンネルをぬけながら、
本を読みながら、
車窓から眺めながら、
ということで、
読みやすい本だったので
ゆっくりと読めました。
さてっと、
気になったのが「手紙」を語っている箇所でした。
ということで、それをピックアップ。
まずは、これでしょうか。
「角川書店に入社してすぐ、五木寛之さんと仕事をしたいと熱望し、作品が発表されるたびに手紙を書いた。小説だけではない。短いエッセイや対談でも、掲載されたものを必ず見つけて、感想をしたためた。・・・作家に手紙を書くのは、思いのほか大変なことだ。おべっかではいけない。かといって、単なる批判になってもいけない。本人すら気づいていないような急所をつきつつ、相手の刺激になるようなことを書かなければならない。
初めのうちは、返事がなかったが、17通目でようやく返事が来た。
『いつもよく読んでくれて本当にありがとう。いずれお会いしましょう』奥さまの代筆だった。僕は嬉しさの余り、その葉書を持って編集部を走り廻った。その後、25通目の手紙で、ようやく会っていただけた。」(p122~123・見城徹)
もう一箇所
「僕は幻冬舎を、1993年11月12日に設立登記した。その頃オフィスは四谷の雑居ビルの一室にあり、電話とテーブルが12月にやっと入ったばかりだった。その年末年始の休み中、僕は電車賃を節約するため、代々木の自宅から徒歩で出社し、毎日、作品を書いてもらいたい書き手五人に手紙を書いた。・・・これを十日間続け、都合50人に手紙を出した。50人に手紙を出すのは、大変である。それもおざなりではなく、相手の心に突き刺さるものでなければならない。ベテラン作家ならたくさんの著作を読み返し、大物ミュージシャンなら多くのアルバムを聴き直さなければならない。一人につき便箋で七、八枚。もちろん、何回も書き直す。食事はコンビニ弁当で済ませて、朝九時から夜中の二時まで手紙を書いていた。自分は極端なことをやっている。その自負だけが僕を支えていた。」(p60~61・見城徹)
さて、何をもっていこうと本棚を見回すと、
買ったのに、読まずにあった本に目がいきます。
ということで、
見城徹・藤田晋著「憂鬱でなければ、仕事じゃない」(講談社)を
持っていくことに。
近所田舎にすんでいるのですが、
雨は朝がパラパラ。帰りもパラパラという具合。
帰ってきてから、だんだんと降り出しました。
車中から山を見れば、
あんなところに、桜が咲いている。
田んぼに水がはってある。
背景の山に桜が咲いている。
まあ、トンネルをぬけながら、
本を読みながら、
車窓から眺めながら、
ということで、
読みやすい本だったので
ゆっくりと読めました。
さてっと、
気になったのが「手紙」を語っている箇所でした。
ということで、それをピックアップ。
まずは、これでしょうか。
「角川書店に入社してすぐ、五木寛之さんと仕事をしたいと熱望し、作品が発表されるたびに手紙を書いた。小説だけではない。短いエッセイや対談でも、掲載されたものを必ず見つけて、感想をしたためた。・・・作家に手紙を書くのは、思いのほか大変なことだ。おべっかではいけない。かといって、単なる批判になってもいけない。本人すら気づいていないような急所をつきつつ、相手の刺激になるようなことを書かなければならない。
初めのうちは、返事がなかったが、17通目でようやく返事が来た。
『いつもよく読んでくれて本当にありがとう。いずれお会いしましょう』奥さまの代筆だった。僕は嬉しさの余り、その葉書を持って編集部を走り廻った。その後、25通目の手紙で、ようやく会っていただけた。」(p122~123・見城徹)
もう一箇所
「僕は幻冬舎を、1993年11月12日に設立登記した。その頃オフィスは四谷の雑居ビルの一室にあり、電話とテーブルが12月にやっと入ったばかりだった。その年末年始の休み中、僕は電車賃を節約するため、代々木の自宅から徒歩で出社し、毎日、作品を書いてもらいたい書き手五人に手紙を書いた。・・・これを十日間続け、都合50人に手紙を出した。50人に手紙を出すのは、大変である。それもおざなりではなく、相手の心に突き刺さるものでなければならない。ベテラン作家ならたくさんの著作を読み返し、大物ミュージシャンなら多くのアルバムを聴き直さなければならない。一人につき便箋で七、八枚。もちろん、何回も書き直す。食事はコンビニ弁当で済ませて、朝九時から夜中の二時まで手紙を書いていた。自分は極端なことをやっている。その自負だけが僕を支えていた。」(p60~61・見城徹)