和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

平信。

2009-11-22 | 手紙
同じ言葉を見つけると、単純にうれしくなったりします。
ということで、「平信」。

外山滋比古著「日本語の作法」(日経BP社)に

「ところで、用があっても手紙は書かないで電話ですますのが現代である。用のない手紙【平信】のたのしさを知る人は少なくなった。用件などない手紙をやりとりする相手があるのは人生の幸福だと言ってよい。」(p43)

というのが印象に残っておりました。
昨日、外山滋比古著「ことわざの論理」(ちくま学芸文庫)を読んでいたら
「便りのないのはよい便り」という諺をテーマにした文のなかで

「貧乏神のような人があるものだ。電話がかかってくると、本能的に身構える。何だろう。出てみると、案の定、ろくでもないことだ。そういう人が手紙をよこすと、一瞬、心を暗くする。こういう便りなら、ない方が平安である。
昔の人はよく封筒の上に【平信】と書いた。これは、別に用件があってのことではありません。時候のあいさつ、あるいは近況を知らせる便りです、という意味である。貰う側からすれば、こういう手紙はありがたい。手紙らしい手紙は来ない方が安全だ。」(p159)


こうしてちらっと書かれて出されると、かえって気になるなあ。

ところで【平信】というのは、封筒のどこいらに書かれるものなのでしょう。
切手の下あたりに書くのだろうか? と思ってみるのですが、わかりません。
さしあたり、このブログなどは、平信のあつまりみたいなものでしょうか?
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手書き。

2009-11-07 | 手紙
ネットで本を注文すると、たいていは古本。最近、すこし部屋の片付けをしようと思ったりする。すると、すぐに片付ける手がとまるものですね。こういうときに限って、気がついたりします。
最近気づいたことは、何か?
封筒のあて名書きでした。古本屋さんが手書きで宛名を書いて送ってくれているところがあります。安くて欲しい本を注文するので、いろいろはじめての古本屋さんだったりします。居ながらにして、手書きの私の住所・名前を、いろいろと見ることが出来る。

最近は古本で、加藤秀俊著「メディアの発生」を、港区の「小川書店」さんへと注文しました。ちなみに送料とも2340円。あと振込料。この宛名書きは達筆でした。几帳面で達筆。う~ん。女性かもしれない。いやいや年輩の方かなあ。と思い直したりする。自分がきたない字を書くので、ゾンザイな手書きも違和感なし。達筆だとかえって不思議な気持ちになったりします。丁寧に書いてある達筆の方もおられるし、ゾンザイな達筆の方もいる。自分の住所氏名を、いろいろな方の字で見るというのも、オツなものですね。なにやらホッとしたりする。おかしなものです。それに、ちょっと自分でも真似したい手書き文字があったりすることもある。う~ん。小学生みたいな、あたり憚らぬ書きぶりだったりするのは、笑えません。私の手書きがダブって思い浮かぶ。というので、ちょっと片付けながら、探してみると6~7枚、宛名の封筒がみつかります。そういえば、手書きの宛名封筒というのは、案外捨てづらいものですね。ちょっと脇に置いておいたりしていたことに気づきます。これからは意識して採っておこうと思ったりします。

う~ん。このくらいにして、
清水義範著「大人のための文章教室」(講談社現代新書)のはじまりの方の文章を思い浮かべたりします。


「・・そんなわけで、この文章教室で最初に導き出される文章のコツは、心をこめたい文章は手書きにすべし、である。」(p19)


え~と。ああそうそう。
私は部屋の片づけをしようとしていたのでした。
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日本語作法。

2008-12-11 | 手紙
外山滋比古著「日本語の作法」(日経BP)を読みました。
わかりやすいエッセイ。なんでも、「日経ビジネスアソシエ」に2005年~2008年7月まで連載されたコラムから抜粋したとあります。
詩集の余白を丁寧に埋めたような、ゆったりとした活字の置き方が読みやすく。どこから読んでも入りやすく感じます。私は、失礼ながら、後ろから読んでいきました。

すこし気になる箇所を箇条書きに引用してみます。

「目上の人には友達ことばは失礼になるというのは、理屈ではなく感覚の問題である。口で教えてもわからない、経験で身につける知恵のようなものだ。」(p80)

このような、感覚の問題をていねいにエッセイとして取り上げておられます。ここはひとつ、貴重なご意見として拝聴できる幸運を、ともに喜びたいと思います。
ちょうど今は、暮れの12月ですね。
たとえば、年賀状をとりあげた場面。
近親に不幸があった人は年賀状を欠礼するというあいさつをするのが習わし。その習わしに触れたエッセイの最後でした。
「すでに書いてしまったあとから、その欠礼のあいさつが届くのにも当惑する。出せなかったハガキをどうするか。気が重くなる。先年、ある人から、おそくなって欠礼のあいさつが来た。『・・・当方の賀状は控えますが、いただくのはありがたくお受けします。にぎやかなことの好きだった故人も喜ぶでしょう』には感心した。・・・」(p129)

手紙について触れた箇所も忘れがたい。

「とくにこれといった用事のない手紙を書く人はほとんどなくなってしまったが、もらってうれしいのはこういう手紙である。・・・」(p92)

「ところで、用があっても手紙を書かないで電話ですますのが現代である。用のない手紙【平信】のたのしさを知る人は少なくなった。用件などない手紙をやりとりする相手があるのは人生の幸福だと言ってよい。」(p43)

ちょいと、いつも引用がダラダラと連なるので、もう一箇所ぐらいにしておきましょう。

「NHK新会長がテレビで就任のあいさつをするというから聴いた。話し始めたと思ったら【コンプライアンス】という語が飛び出したから、これはいけないと、スイッチを切る。
コンプライアンス(法令遵守)はいまのところ業界用語である。企業出身でことばの教養が欠けていて、なにかと行き届かないところがあってもいたしかたもないが、せめて就任のあいさつくらいは言論機関の長らしく、もっと考えてほしかった。あんなことば遣いをするのは視聴者をないがしろにするものだ。その昔、日本放送協会は標準日本語普及を使命としていたはずである。会長が半分わけのわからぬカタカナをふりまわしてはいけない。」(p58)
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