途中で読みかけだった庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文芸文庫)を
手にとる。今回は『山芋』と題する箇所を読みました。
お母さんが、兄弟に手伝ってもらう箇所からはじまります。
「 ・・ある晩、台所で夕食の支度をしていた細君が安雄を呼んだ。
『 なに? 』
『 ちょっと手伝って 』
『 はい 』
安雄は部屋から出て来た。
『 なにするの? 』
『 あのね。とろろ、すって頂戴 』
細君はすり鉢で山芋をすっていたのだが、忙しくなって来た。 」(p199)
はい。こうして弟も呼ばれて、主人公もでてきて・・・・
そうこうしているうちに、仙台地方とのとろろ汁談義になって、
そうしているうちに、橘南谿(たちばななんけい)の『 東遊記 』
の記述を思い浮かべるのですが、その『東遊記』を読んだのが
『 彼がこの一節を読んだ時は、戦争中であった。 』(p207)
と話題が、自然な流れとして転換してゆきます。
そこに、一冊の手帳が出てきます。
「これには、彼が海軍の予備学生隊にいた時、家族に出した便りの
写しが全部入っている。ずぼらな性質の大浦が、どうしてこんな
まめなことをしたのか、よく分からない。
生きて帰ることが分かっていたら、おそらく自分の書いた便りの
写しをいちいち取るというような、面倒なことはしなかっただろう。」
(p208)
こうして、その家族への手紙が引用されてゆくのでした。
そこには、体の具合の悪いことを書けなかったとあります。
「だが、そういうことは、父や母に宛てた手紙には書けない。
ひとことも書けない。・・・・
そこで、家へ出す手紙の文面は、次のようなものになった。
『 こちらは別に変ったことはありません。
先日は僕の誕生日でしたが、次の日に思い出しました。
学生隊の生活にも少しずつ馴れて来ました。
それにこの頃は、来た頃にくらべてだいぶ気候がよくなりました。
お昼すぎの暖い時には、もう春が近くなったと思うことがあります。
そんな日には、富士がやわらかく霞んで、
上の方だけ浮いたように見えます。
風邪も引かずにいますから、御安心下さい 』
嘘はちっともついていない。ただ、
いうと心配するようなことは書かないだけのことであった。 」(p212)
この『山芋』の章は、最後に
『 とろろ汁をこしらえた次の日に植木屋の小沢さんが来た。 』(p214)
ということで、小沢さんの話し方を紹介してゆくのでした。
「 小沢は山紅葉の下に立って、枝を見上げていた。
『 いい色に紅葉を 』と小沢はいった。
この人の言葉を文字に写すのはむつかしい。
決してひと息に全部いってしまわないで、
何度も立ち止まる。そこへ『 あー 』でもないし、
『 えー 』でもないが、字に書くとすればそう書くより
ほかない声がはさまる。それも極く自然にはさまる。‥」(p214)
こうして文庫本にして、12ページほどが植木屋の小沢さんとの
話になって終るのでした。
何だか次へと読みすすめるのが、もったいなくなるような
『 山芋 』の章でした。ということで昨日はこの一章のみ読みました。
うん。ちょうど重ね読みしていた庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)の
なかに、兄庄野英二をとりあげた箇所がありました。忘れがたい箇所です。
それでも私は忘れっぽい。時が経過すると、探せないかもしれない。
そのロスを省くために、長くなりますが、ここに引用しておきたくなる。
「 或る日、思いがけず兄から電話がかかって来た。
父が出た。いま、広島にいますといったから驚いた。
次に、昨日、着いたところで、いま、陸軍病院からかけている
という。どうした?
腕に負傷したけど、大したことはない。近いうちに大阪の病院へ
転送になるから、見舞いに来ないでほしい。
わざわざ来てくれても行き違いになるといけないから。
ああ、分った。お母さんにもそういっておいて。
ああ、そんなら大事にせえといって父は電話を切った。
電話のそばで父のやりとりを聞いているだけで全部分った。
父と母に心配をかけるのをふだんから最も怖れていた兄は、
先ず元気な声を父に聞かせて安心させておいてから、
負傷して内地に送還されたことを小出しに報告したわけである。
『 ロッテルダムの灯 』の中の『 母のこと 』には、
来ないでとあれほどいっておいたのに、電話をかけた翌々日、
父が広島へ面会にやって来て、上半身ギブスに包まれた兄に
いろいろ質問するところが出て来る。ここで再び兄は
母が来ないようにと父に頼むのだが、
その数日後に母が病室へ現れる。
母も看護婦に案内されて私の病室にくるなり、
『 ごめんよ、かんにんしてよ、痛かったでしょう 』
涙声で母の郷里の徳島なまりのアクセントでいいながら
かけよってきた。
ごめんよ、かんにんしてよ、と母が私になんで謝っているのか、
とっさに私にはわからなかった。
が、私の頭のなかで何秒か考えが回転してから、
やっと判断することができた。
それは私が戦場で重傷を負ってあやうく死にかけたことを、
母はまるで自分の責任のように感じて、
そんなもののいいかたをしたのであった。 ( 「母のこと」 )
私たち兄弟にとって
在りし日の父母の姿がありありと目の前に浮ぶ場面である。・・ 」
( p399~400 新潮文庫 )