和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

父母に宛てた手紙。

2024-12-17 | 手紙
途中で読みかけだった庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文芸文庫)を
手にとる。今回は『山芋』と題する箇所を読みました。

お母さんが、兄弟に手伝ってもらう箇所からはじまります。

「 ・・ある晩、台所で夕食の支度をしていた細君が安雄を呼んだ。
  『 なに? 』
  『 ちょっと手伝って 』
  『 はい 』
  安雄は部屋から出て来た。
  『 なにするの? 』
  『 あのね。とろろ、すって頂戴 』
  細君はすり鉢で山芋をすっていたのだが、忙しくなって来た。 」(p199)


はい。こうして弟も呼ばれて、主人公もでてきて・・・・
そうこうしているうちに、仙台地方とのとろろ汁談義になって、
そうしているうちに、橘南谿(たちばななんけい)の『 東遊記 』
の記述を思い浮かべるのですが、その『東遊記』を読んだのが

『 彼がこの一節を読んだ時は、戦争中であった。 』(p207)
と話題が、自然な流れとして転換してゆきます。
そこに、一冊の手帳が出てきます。

「これには、彼が海軍の予備学生隊にいた時、家族に出した便りの
 写しが全部入っている。ずぼらな性質の大浦が、どうしてこんな
 まめなことをしたのか、よく分からない。
 生きて帰ることが分かっていたら、おそらく自分の書いた便りの
 写しをいちいち取るというような、面倒なことはしなかっただろう。」
                             (p208)

こうして、その家族への手紙が引用されてゆくのでした。
そこには、体の具合の悪いことを書けなかったとあります。

「だが、そういうことは、父や母に宛てた手紙には書けない。
 ひとことも書けない。・・・・
 そこで、家へ出す手紙の文面は、次のようなものになった。

『 こちらは別に変ったことはありません。
  先日は僕の誕生日でしたが、次の日に思い出しました。
  学生隊の生活にも少しずつ馴れて来ました。
  それにこの頃は、来た頃にくらべてだいぶ気候がよくなりました。
  お昼すぎの暖い時には、もう春が近くなったと思うことがあります。
  そんな日には、富士がやわらかく霞んで、
  上の方だけ浮いたように見えます。
  風邪も引かずにいますから、御安心下さい 』

 嘘はちっともついていない。ただ、
 いうと心配するようなことは書かないだけのことであった。 」(p212)

この『山芋』の章は、最後に
『 とろろ汁をこしらえた次の日に植木屋の小沢さんが来た。 』(p214)
ということで、小沢さんの話し方を紹介してゆくのでした。

「 小沢は山紅葉の下に立って、枝を見上げていた。
  『 いい色に紅葉を 』と小沢はいった。

  この人の言葉を文字に写すのはむつかしい。
  決してひと息に全部いってしまわないで、
  何度も立ち止まる。そこへ『 あー 』でもないし、
  『 えー 』でもないが、字に書くとすればそう書くより
  ほかない声がはさまる。それも極く自然にはさまる。‥」(p214)

 こうして文庫本にして、12ページほどが植木屋の小沢さんとの
 話になって終るのでした。

 何だか次へと読みすすめるのが、もったいなくなるような
 『 山芋 』の章でした。ということで昨日はこの一章のみ読みました。

うん。ちょうど重ね読みしていた庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)の
なかに、兄庄野英二をとりあげた箇所がありました。忘れがたい箇所です。
それでも私は忘れっぽい。時が経過すると、探せないかもしれない。
そのロスを省くために、長くなりますが、ここに引用しておきたくなる。

「 或る日、思いがけず兄から電話がかかって来た。
  父が出た。いま、広島にいますといったから驚いた。
  次に、昨日、着いたところで、いま、陸軍病院からかけている
  という。どうした?
  腕に負傷したけど、大したことはない。近いうちに大阪の病院へ
  転送になるから、見舞いに来ないでほしい。
  わざわざ来てくれても行き違いになるといけないから。
  ああ、分った。お母さんにもそういっておいて。
  ああ、そんなら大事にせえといって父は電話を切った。

  電話のそばで父のやりとりを聞いているだけで全部分った。
  父と母に心配をかけるのをふだんから最も怖れていた兄は、
  先ず元気な声を父に聞かせて安心させておいてから、
  負傷して内地に送還されたことを小出しに報告したわけである。

  『 ロッテルダムの灯 』の中の『 母のこと 』には、
  来ないでとあれほどいっておいたのに、電話をかけた翌々日、
  父が広島へ面会にやって来て、上半身ギブスに包まれた兄に
  いろいろ質問するところが出て来る。ここで再び兄は
  母が来ないようにと父に頼むのだが、
  その数日後に母が病室へ現れる。

     母も看護婦に案内されて私の病室にくるなり、
     『 ごめんよ、かんにんしてよ、痛かったでしょう 』
     涙声で母の郷里の徳島なまりのアクセントでいいながら
     かけよってきた。
     ごめんよ、かんにんしてよ、と母が私になんで謝っているのか、
     とっさに私にはわからなかった。
     が、私の頭のなかで何秒か考えが回転してから、
     やっと判断することができた。
     それは私が戦場で重傷を負ってあやうく死にかけたことを、
     母はまるで自分の責任のように感じて、
     そんなもののいいかたをしたのであった。 ( 「母のこと」 )

  私たち兄弟にとって
  在りし日の父母の姿がありありと目の前に浮ぶ場面である。・・ 」
                   ( p399~400 新潮文庫 )


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