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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

歴史の教訓。

2011-11-06 | 他生の縁
新刊で、金子兜太・半藤一利対談「今、日本人に知ってもらいたいこと」(KKベストセラーズ)が出ておりました。
そこから、ちょっと。

半藤】 ・・では具体的に歴史の教訓とは何か。
実は、『後(のち)の人が歴史からは何も学ばない』ということが歴史の最高の教訓なんです。
金子】 (笑)。それは大きな教訓だわ。東日本大震災にもつながってくる。 (p206~207)

この前のページには、こんな箇所。

半藤】 ・・・・戦争当時、近衛文麿という総理大臣がいました。近衛文麿は『以後、国民政府を対手とせず』という重大声明を昭和13年の1月に発表します。なぜ近衛はこういう判断をしたのか。要するに、蒋介石との間に和平交渉が進んでいた。それなのに、日本側が出した条件に蒋介石の方が応えてこなかったから、もう許さんというので、その声明を出して交渉を打ち切った。ところが、これはものすごい大間違いだったんです。なぜ間違いであったのかというと、一番大事な情報を握りつぶしたやつがいたんですね。実はそのとき蒋介石は大病を患っていたんです。病床にあって判断ができないような大病をしていたので、返事が遅れていたんです。
日本側は蒋介石が病臥中であるという情報を知っていたんです。にもかかわらず、知っていたやつがなぜ当時の総理大臣にちゃんと伝えなかったのか、トップに教えないのかという大疑問が残るのですが。


総理大臣と情報というのは、東日本大震災で、何かリアルに繰り返されていた実感がありました。近衛文麿の重大声明も、今なら、疑問の糸口がほどけているような気がしますが、どうでしょう?
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とっかかり。

2011-10-29 | 他生の縁
中西輝政氏の著作は、読まなければなどと思っていたのですが、
案の定、いままで、読まずにすごしてまいりました。
最近、きっかけがあって、2冊を読み。
これは。と遅まきながら思ったというわけです。
「情報を読む技術」を、たのしく読んだので。
この7月にサンマーク文庫で出た
「本質を見抜く『考え方』」を注文。
昨日届きました。
これが、私にはおもしろい。
たとえば、丸谷才一著「思考のレッスン」を読んだときのような
そんなドキドキ感。おもしろいと、私の場合、次のページを読めなくなるのでした。
え~と、いつもは、それで読み進めずに、読まずに終わることも多々あったりします。
考えるヒントを教えてくれるものですが、こちらは、考える足場を踏み固めているような読み応えがあります。こういう基礎を固めなさいと、何げなさを装いながら、きちんと語りかけてくれております。ありがたい。

ということで、とりあえず。きっかけをふりかえってみます。
いままで月刊雑誌での中西輝政氏の文に惹かれていたのですが、
そこまででした。今回きっかけになったのが
VOICE2011年9月号の「【脱原発】総理の仮面を剥ぐ」という文。
うん。東日本大震災との関連で読んだわけです。
ちょうど、新刊で「国民の覚悟」というのが出てたので、それを読み。
つぎに、古本で「情報を読む技術」を読みました。
これで、中西輝政氏へのとっかかりが出来た感じ。
あとは、新刊と古本と、読まずにあった新書と。
昨日、古本が届きましたので、手にした本を
読む前に題名の列挙。

「本質を見抜く『考え方』」(サンマーク文庫)
「情報を読む技術」(サンマーク出版)
「国民の覚悟」(到知出版社)
「日本人が知らない世界と日本の見方」(PHP)
「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」(PHP新書)
「なぜ国家は衰亡するのか」(PHP新書)
「大英帝国衰亡史」(PHP)
「国まさに滅びんとす」(集英社)
「いま本当の危機が始まった」(集英社)

うん。私のことですから読まない。という可能性もあるわけですが、
とりあえず、題名とにらめっこ。

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片づけの魔法。

2011-10-27 | 他生の縁
昨日は、
イカロス出版の「ドキュメント東日本大震災」を読んでいたのですが、まだ読了せず。この前、中西輝政著「情報を読む技術」(サンマーク出版)を読んでいたら、気になった2冊を古本で注文。その高松宮秘録「情報天皇の達せず」(上下)と「敵国日本」(刀水書房)が昨日とどく。とどくけれども、開かずにそのまま。そういえば、サンマーク出版って、近藤麻里恵著「人生がときめく片づけの魔法」も、この出版社からでした。中西輝政と「片づけの魔法」のとりあわせ。何ごとも片づけ苦手な私は、この「片づけの魔法」も買いました。さあ冬物のカーペットとか、コタツ敷きとか、ゴタゴタとひろげて「片づけの魔法」をかけようとしてみるのでした。
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浜口梧陵小伝。

2011-09-20 | 他生の縁
出久根達郎著「日本人の美風」(新潮新書)のはじめに登場するのは
浜口梧陵でした。そこに、

 楚人冠・杉村廣太郎著「濱口梧陵伝」

というのが、引用されております。
あれ、どこかで?
と思ってゴソゴソさがすと、
和歌山県広川町教育委員会に送って頂いた冊子に
そんなのがありました。
平成17年に注文したのですが、
調べると、いまでも買えるようです。

 稲むら燃ゆ
 濱口梧陵小伝

この2冊で500円でした。
読んでみたいという、
興味ある方は、安く楽しめますよ。

今回は、お知らせでした(笑)。
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発句と目次。

2011-08-27 | 他生の縁
 新聞にほつくの熱さ見る日哉  子規

井上泰至著「子規の内なる江戸」(角川学芸出版)のp30に、この句が引用してありました。その前のほうも引用したいのですが、ここでは、関係ないので次いきます。

新聞と発句という取り合わせで、私に思い浮かぶのは、齋藤十一。
ということで、本棚から取り出してきた、
「編集者 齋藤十一」(冬花社)に、こんな箇所。

「美和夫人の話によると、齋藤さんは亡くなり方も凡庸ではない。また亡くなる直前の夢に、御自身が造った新しい雑誌を見たという。目次の内容も明瞭に現れて、夢の中で感動されたらしい。それを書き留めて置かれなかったのが実に残念である。」(p40)

この本の、たとえば石井昴氏の回想文「タイトルがすべて」には

「『売れる本じゃないんだよ、買わせる本を作るんだ』『編集者ほど素晴らしい商売はないじゃないか、いくら金になるからって下等な事はやってくれるなよ』『俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ』次から次に熱い思いを我々若輩に語りかけられた。
齋藤さんの一言一言が編集者としての私には血となり肉となった。我田引水になるが、新潮新書の成功は新書に齋藤イズムを取り入れた事によるといっても過言ではない。
『自分の読みたい本を作れ』『タイトルがすべてだ』私はいま呪文のようにそれを唱えている。」(p182)
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色付・仰臥漫録。

2011-08-25 | 他生の縁
井上泰至著「子規の内なる江戸」(角川学芸出版)が、印象に残っております。
といって、再読しているわけでもなく。ただ、そこに紹介されている本を、ついつい注文してしまうのでした。たとえば山下一海著「白の詩人 蕪村新論」(ふらんす堂)を買いました。うん、でも井上泰至の本の方がよいと思いました。さてっと、正岡子規著「仰臥漫録」を、とりあえず、岩波ワイド版で読んだのですが、井上氏が紹介していた角川ソフィア文庫の「仰臥漫録」を注文し、今日届きました。カバー絵は飯野和好。それよりも何よりも、岩波文庫では白黒の絵が、角川ソフィア文庫には、キチンとカラー絵で最初の16ページ、楽しめるのでした。これはまいったなあ。「仰臥漫録」はただ読むだけじゃ、味わったことにならない。ということを気づかされたのでした。うん。いながらにして、今日の驚き。
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祝祭「海の幸」。

2011-08-08 | 他生の縁
ブリヂストン美術館で9月4日まで、青木繁展が開催されていて、行ってみたいなあ。なんて思っておりました。じつは、そんなことも忘れていたのです(笑)。
今日8月8日の「編集手帳」は、その青木繁のことからはじまっておりました。

「明治の洋画家、青木繁は東京美術学校を卒業した1904年の夏、房総半島・布良の海岸に滞在した。ここで描き上げたのが代表作『海の幸』だった。裸の男たちが、サメを背負って砂浜を2列で行軍する謎めいた絵だ。地元、安房神社の夏の例祭の神輿に着想を得たのではないか。青木没後100年の今年、そんな新説も注目を集めている。青木は息子を幸彦と名付けるほど、古事記の海幸彦・山幸彦の物語に深い関心を寄せていた。人間と海との関わりを描いた『海の幸』には、祝祭的エネルギーが満ちあふれている。東北の太平洋岸でも、大漁などを祝う夏祭りのシーズンを迎えている。だが、今年は津波で漁船や漁具が流され、養殖場や水産加工場も大きな被害を受けた。中止となった祭りもある。『これだけ海に蹂躙されながら、海に怨みをもつ人はいない』。宮城県気仙沼市で養殖を営むエッセイストの畠山重篤さんは、本紙への寄稿の中でこう述べている。・・・がれきで汚れた海も早く甦り、海の幸で満たされることを祈る。」

うん。芸術新潮7月号は特集「青木繁」。そのp68には、
布良崎神社の大神輿が写真入りで紹介されており、
布良漁協組合長の島田吉廣さんの説を、とりあげておりました。

「『海の幸』の構図は、神輿を担いでいる男衆そのものですよ。ほら、前の男は前傾姿勢、後ろは直立しているでしょ。しかも明治の頃だと、神輿を担ぐ男衆はふんどし姿だったはず。ちょうど青木が滞在した小谷家のすぐ隣には、布良崎神社がある。夏祭りは8月1日だったから、まず間違いなく見ているはずだね。小谷喜録は地元の世話役だから、若い青木らに神輿を担がせたんじゃないかな。・・・・」(p69)

東北に満ちる祝祭的エネルギーを、思い描きながら。
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我が国のこのたびの実例。

2011-07-12 | 他生の縁
産経新聞7月12日を読むと、菅直人を知るためのレッスンとなっておりました。総合欄「単刀直言」で鳩山由紀夫前首相は、こう語っております。

「菅直人さんは、私が首相のときに副総理として、何度も『厳しい局面に立たされたら、別の大きなテーマを示せば、そちらに国民の目が向いて局面を打開できるんだ』と進言してきました。・・・今も同じなのか、思い付きのように別の話をすっと作るのは上手です。・・・」


さて、「正論」欄は古田博司氏が書いておりました。
題して「民主主義なき市民運動の果てに」。

ところどころ、はしょって引用していきます。

「・・・2010年3月16日、参議院内閣委員会で、政治的指導力に関する自民党の古川俊治氏の質問に、当時、鳩山由紀夫政権の財務相だった菅氏は、あまりにも途中で政権が代わりすぎるのはよくない、よほどのことがなければ4年間任せるべきだとし、語弊があるかもしれないが、と前置きしながら、『議会制民主主義というのは、期限を切った、あるレベルの独裁を認めることだ』と述べていた。」

「・・・根本問題は、左派知識人たちが読み替え続けたイデオロギーに、そもそも民主主義が欠如していたことではなかったか。菅政権の支持率急落の契機は、2010年9月7日の尖閣諸島沖中国漁船衝突事件だ。国民の知る権利を途絶して『地球市民の平和社会』を守るべくビデオを隠匿、外務省を無視して中国当局と個別折衝に入るという驚くべき専横は彼らの言葉では『政治主導』だった。菅首相の場合は、『政治主導』は『独裁』の域に達してはいないか。東日本大震災で10万人もの自衛隊員に出動を命ずるのに安全保障会議を開かずに法律を無視、閣議決定を経ず関係省庁・電力会社にも通告せず突如、浜岡原発の停止を要請、被災地の国民支援に遅滞して訪問先の避難所で『もう帰るんですか』の怒声を背に浴びた。公論衆議を途絶する行為をわが国では独裁というのである。」

最後も、引用させてください。

「もちろん・・・市民運動派は今日の国民の権利意識を育んできた。
だが、運動が目的である運動家たちがひとたび国家権力を掌握したときに、民主主義から最も乖離した独裁を行うようになってしまうという我が国のこのたびの実例を思うにつけ、我が国の市民運動の基底にそもそも民主主義の概念があったのか、という疑念をどうしても払拭できないのである。」



ついでに、新聞一面「歴史の交差点」での山内昌之氏の文のこの箇所も引用。

「・・カリスマは、大衆を動員するのに慣習や手続きを無視し、あるいは合理的判断を必要としない政治的力量に恵まれているので、迅速な対応を必要とする危機的状況には有効な指導者とされてきた。
震災や原発事故を収拾できない菅氏は、人を魅了する資質に欠けるだけでなく、内政や外交の懸案に切り込むほどの豪胆さや政治的力量を持ち合わせていないため、顔をいくらこわばらせても滑稽な印象しか人に与えない。そもそも民主党内さえまとめられず、信服する党や国対の幹部もいない・・首相ひとりがカリスマであるはずもない。」

山内氏の文の最後は、

「カリスマ的人物は秩序を創造する感情の独裁者にもなれば、渾沌状態をいっそう悪くすることもある。ひょっとして菅氏のことだから、日本政治を無政府状態に追いこんだ【自己過信のカリスマ性】に酔って、独善的な脱原発解散に打って出ないともかぎらない。民主党の閣僚や党幹部も、そろそろ連袂(れんぺい)辞職など腹をくくるときが来たのではないか。」

うん。「連袂辞職」か。
ちなみに、「連袂」を辞書でひくと「(たもとを連ねる意)何人かの人がそろって同じ・進退(行動)をすること。・・」

そういう「民主党の閣僚や党幹部」がいるかどうか。
固唾をのんで待つ。
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鬼の目に涙だよ。

2011-06-27 | 他生の縁
東日本大震災で、あらためて、読んだ津波の本2冊。

 吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)
 山下文男著「津波てんでんこ」(新日本出版社)

というのが、私の気になった2冊。
2冊目の山下文男氏は1924年岩手県三陸海岸生まれ。
「津波てんでんこ」での著者紹介には
「現在、大船渡市綾里地区在住」となっておりました。
新聞・雑誌の記事では、入院中の山下氏も津波に遭遇したとあったのです。
新刊の佐野眞一著「津波と原発」(講談社)にその山下氏との会話がでてくる。佐野眞一氏が山下文男氏と直接会って、聞き書きしております。

さて、佐野眞一著「津波と原発」は
第一部「日本人と大津波」が~p66。
第二部「原発街道を往く」が~p236。
と、後半の第二部に多くのページをさいておりますが、
第一部の人脈を通じての報告が、なかなかのものです。

ここに、山下文男氏が登場する箇所を引用してみます。

「山下はベッドに横たわったまま『やあ佐野さん、まさかこんなところであなたに会うなんて、思いもしなかったよ』と言った。」(p53)
これを以下引用しておきます。

――高田病院にも行ったんですが、メチャクチャでしたね。あんな状態の中でよく助かりましたね。
『僕はあの病院の四階に入院していたんです』
――えっ、津波は四階まできたんですか。
『津波が病院の窓から見えたとき、僕は津波災害を研究してきた者として、この津波を最後まで見届けようと決意したんです。・・・僕はインド洋津波(スマトラ沖地震津波)のビデオの解説をしていますが、あれとそっくり同じ光景でした。大木やいろいろなものが流されて、人が追いつかれて、人が巻き込まれるのは見ています』
――それを四階の病室から見ていたんですね。
『そう、それを最後まで見届けようと思った。と同時に、四階までは上がってこないだろうと思った。陸前高田は明治29年の大津波でも被害が少なかった。昭和大津波では二人しか死んでいない。だから、逃げなくてもいいという思い込みがあった。津波を甘く考えていたんだ、僕自身が』
――わが国津波研究の第一人者がね。
『・・・窓から津波を見ていた。ところが、四階建ての建物に津波がぶつかるドドーンという音がした。ドドーン、ドドーンという音が二発して、三発目に四階の窓から波しぶきがあがった。その水が窓をぶち破って、病室に入ってきた。そして津波を最後まで見届けようと思っていた僕もさらわれた。そのとき手に握っていたカギも流された。僕は津波がさらってなびいてきた病室のカーテンを必死でたぐり寄せ、それを腕にグルグル巻きにした』
――でも水はどんどん入ってくる。
『そう、水嵩は二メートルくらいあった。僕は顔だけ水面から出した。腕にカーテンを巻きつけたまま、十分以上そうしていた』
――もう死んでも放さないと。
『そうそう。そのうち今度は引き波になった。引き波というのはすさまじいもんだ。押し寄せる波の何倍も力がある』
・・・・・山下はずぶ濡れになった衣服を全部脱がされ、フルチンで屋上の真っ暗な部屋に雑魚寝させられた。自衛隊のヘリコプターが救援にきたのは、翌日の午後だった。
ヘリコプターは屋上ではなく、病院の裏の広場に降りた。ヘリから吊したバスケットに病人を数人ずつ乗せていたのでは時間がかかるし、年寄りには危険だと判断したためである。
『36人乗りの大型ヘリだった。中にはちゃんと医務室みたいなものまであった。僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった。国として、国土防衛隊のような組織が必要だということがしみじみわかった。とにかく、僕の孫のような若い隊員が、僕の冷え切った身体をこの毛布で包んでくれたんだ。その上、身体までさすってくれた。病院でフルチンにされたから、よけいにやさしさが身にしみた。僕は泣いちゃったな。鬼の目に涙だよ』
山下はそう言うと、自分がくるまった自衛隊配給の茶色い毛布を、大事そうに抱きしめた。山下はその毛布を移送された花巻の病院でも、ホテルでも子どものように握りしめて放さなかった。・・・・(~p57)
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「不完全法」

2011-05-28 | 他生の縁
「新潮45」5月号の「達人対談」ビートたけしvs鎌田浩毅。
これで、鎌田浩毅に興味をもちました。それまでは知りませんでした。
つぎに鎌田氏の名前を雑誌に見たのは文藝春秋6月号。
そこには「今そこにある富士山噴火・東海西日本大地震」と題した文でした。

さてっと、それはそれとして、
今年は、ブログを欠かさずに書くぞと、はじめたのですが、
5月まででもう数回書き込みを怠った日がでております(笑)。

まあ、それはそれ、まだ今年は長い。
なんて思っていたら、鎌田浩毅著「ラクして成果が上がる理系的仕事術」にこんな言葉がありました。

「大切なキーワードは、【不完全】と【断念】である。
不完全を許容するとは、目的達成のためにはやりかけの仕事であっても捨てる、ということである。完璧主義から逃れること、といってもよい。じつは、完璧主義とは自己満足の世界なのだ。もっとよくしよう、と思って必要以上のデータを集めたり思索したりすることにより、自分は満足し安心する。しかし同時に、来るべきアウトプットからは、だんだん遠ざかってゆくのである。いったん完璧主義に陥ると、それに気づかなくなってしまう。・・・」

うんうん。火山学者・鎌田浩毅氏の本のリストをみると、知的生産に関する本が何冊もでているのでした。とりあえず、自分に引きつけてブログを欠かさずに書くという完璧主義におさらばをする五月かな(笑)。

とりあえず、
鎌田浩毅著「ラクして成果が上がる理系的仕事術」(PHP新書)
鎌田浩毅著「ブリッジマンの技術」(講談社現代新書)と2冊を読んでみました。
元気がでるなあ。
ちなみに、「ラクして・・」のはじまりに、こんな箇所が

「知的生産とはレポート、企画書、論文、書籍など、文章の集積ができあがることをいう。それに対して知的消費とは、本を濫読する、将棋を指す、教養ある会話をするなど、知的な活動ではあるが直接生産に結びつかない活動をいう。パソコンのネットサーフィンなどは、現代の知的消費の最たるものであろう。・・・乱暴にいえば、理系が得意なのが知的生産、文系が得意なのが知的消費と考えてもいいだろう。・・・知的生産と知的消費をきちんと分けることが、世の中に受け入れられるようになったきっかけをつくたのは、民俗学者の梅棹忠夫である。」(p18~19)

火山の話を読むはずが、鎌田浩毅の知的生産本を消費しております。

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書評の選択。

2011-03-25 | 他生の縁
今日は、亡くなった伯母さんの49日の法事。
今回は姉と二人で出かけました。
昼真から、ビールを飲んで、帰ってきてから、頭痛。
うん。帰りは姉の運転。

曹洞宗のお坊さんが、修証義の読本を配って、
皆さんいっしょに。といわれる。
ほかの法事でも読みに参加させていただいていたので、
今回も声だして、読んでおりました。
案外にスラスラと読めるものです。
というか、間違えても、気にせず、臆せず読むようになりました。

さてっと、夜になってパソコンを開くと、
BK1からのメール。
「書評の鉄人列伝」第270回へと登場とのこと。
ああ、今日だったのだ。
この列伝に選ばれると、以前私が書評したなかから、
10冊をBK1でピックアップして紹介くれるのでした。
どんなのを選んでくださるのか、楽しみにしてたんです(笑)。
まるで、自分の自動車免許写真みたいに、なんか、
そりゃ私じゃないでしょう。とついつっこみたくなるような。
あるいは、こういうふうに写っているのかなあと思うショット。
たのしく、拝見させていただきました。
ありがとうBK1さん。
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やれるのは。

2011-03-18 | 他生の縁
注文してあった池部良著「天丼はまぐり鮨ぎょうざ」(幻戯書房)が手に入りました。うん。そのあとがきを読んでよかった。最初をちらりと読んだら、もう3~4ページで満腹。それ以上は、まあ、ゆっくりと読むことにします。

ところで、
今年は、岡本太郎(1911~1996年)の誕生100年なのだそうです。
そういえば、池部良の母親・篁子(こうこ)は岡本一平の妹なのだそうでした。池部良著「そよ風ときにはつむじ風」(毎日新聞社・帯には「江戸っ子のおやじと僕の物語」)をひらいたら、こうあります。


「従兄(いとこ)の岡本太郎に言わせれば『お前のおふくろは俺のハンサムなおやじの妹だが似ても似つかぬ醜女だな。でも京橋小町なんて騒がれていたから俺のおやじと美校の同級生だったお前のおやじがおこうちゃんにすっかりその気になって嫁さんに、とせっついて貰ったんじゃないのか』、である。」(p11)


岡本太郎といえば、「太陽の塔」。
つぎのエピソードは、「梅棹忠夫に挑む」(中央公論新社)。
すこし前からの引用。

「東京オリンピックころ、当時、経済企画庁経済研究所長の林雄二郎、建築評論家の川添登、のちの学習院大学教授となった加藤秀俊、SF作家として売り出し中の小松左京との五人で『万国博をかんがえる会』を作りました。・・・日本の興隆期にあってわたしたちの関心は『未来』でした。空想ではなく合理的、論理的発想で『未来学』を盛んに議論しました。・・・・・」(p198)

つぎのページに大阪万博のことがでてきます。

「アメリカの『月の石』などパビリオンでは各国自慢のものを見せていて、はなやかな、文明のお祭りやったな。じつに衝撃的な体験でした。開会式では歌手の三波春夫が『コンニチハ、コンニチハ』と歌い、舞台には振り袖のお嬢さんが次から次に出てきた。お客さんが『夢みたいや』とつぶやいたのを覚えています。
万博開催には反対運動もありましたが、わたしは早くから、面白いことができるぞと小松左京ら五人で作った『万国博をかんがえる会』で議論をかさねていた。わたしはいくつも宣言文の草案を書き、佐藤栄作総理の演説と万国博協会の石坂泰三会長のあいさつ文も調子を変えて書きわけました。
テーマ館のチーフ・プロデューサーには岡本太郎さんを推薦した。破天荒なことがやれるのはこの人しかいないと。『太陽の塔』みたいな途方もない造形は、ちょっとほかの人ではできません。・・・」(p199~200)


どういうわけか、梅棹忠夫と岡本太郎と池部良とがつながりました(笑)。


 岡本太郎 1911(明治44)年2月26日 ~ 1996年1月7日
 池部良  1918(大正7)年2月11日 ~ 2010年10月8日
 梅棹忠夫 1920(大正9)年6月13日 ~ 2010年7月3日 

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谷沢先生。

2011-03-14 | 他生の縁
2011年3月14日産経新聞の文化欄に渡部昇一氏の「谷沢永一さんを偲ぶ」が掲載されております。
ここには、最後の箇所を引用。


「・・・・谷沢さんが私を信用してくれたのは、70年代に吹き荒れた解放運動の中の過激派の攻撃に対しての私や上智大学の対応だったと思う。谷沢さんもその体験者であった。大阪と東京とでは状況はうんと違うと思うが、言論糾弾という点では共通点があった。その後、私の関係する小さな研究会に運動の有力者を招待して、その話を聞く機会を作ってくれたのも谷沢さんであった。
松下幸之助さんが(世界を考える)京都座会を作り、その下にいろいろな研究会がPHP研究所内にできたとき、私は『人間観の研究』という部門をやるように言われた。その恒久的なメンバーの一人に谷沢さんをお願いした。
この集まりは今年で300回を超えたが、そのうち280回ぐらいは谷沢さんも大阪から出席してくださった。必ず行われた二次会は、赤坂のカラオケのできるクラブであった。谷沢さんは『昭和枯れすすき』とか『風の盆恋歌』とか、湿っぽい歌が好きだった。席での会話は談論風発、面白い世間話の宝庫のような谷沢さんは陽気で明るく、ホステスたちを感心させたり、喜ばせたりしておられたが、歌うとなると急に景気の悪い歌ばかりで、その対照の妙が本当に懐かしい。研究会のメンバーも毎回、『谷沢先生がいないと華がなくなったようでさびしいな』と言いながら、軍歌などを歌っている。 ご冥福を祈り合掌。」


この日の産経新聞一面は、大見出しが「福島3号機も廃炉へ」。
この日の産経「次代への名言」は、池部良著「風、凪んでまた吹いて」からの言葉。「世間にゃ偉い人だといわれている奴にでも、納得しなきゃ、俺は、先生なんてふざけた呼び方はしねぇんだ」
名言のあとの解説は「そう、父の洋画家、鈞(ひとし)さんは、池部良さんに言った。・・・・」とはじまっておりました。
それじゃ。というので私は「江戸っ子の倅」をひらき、この箇所を引用。
それは「程よい理性人」と題した3ページほどの文。はじまりは

「洋画家だったおやじに言わせると、『先生と呼んでもおかしくない人は、そう沢山はいない。俺なんか生涯たったお二人だった。後は先生と呼んだ方が相手も気分よく付き合ってくれるし、何かと便利だし得だからな。お前も俳優になって、少しは名前が出るようになったらしいが、せいぜい気をつけるんだな』と復員して三年目『青い山脈』が封切られた日、そう言われたのを覚えている。」

ちなみに、池部良氏の文は、このあと映画監督の小津安二郎が登場。
その監督の謦咳が拾われております。

「『良べえ(池部良のこと)、一言(ひとこと)言っておくがな、東宝じゃ台詞(せりふ)を覚えて来ないそうだが、ここはそうはいかないよ。この『早春』は野田(高梧さん)と二人、一年かけて書き上げたんだ。一字一句でも仇(あだ)疎かに削ったり忘れたりしてみろ、俺、ただじゃすまさないよ。と言うわけだが、ま、よろしく頼むよ、ウヒヒヒヒ』と前歯が一本抜けている間から、不思議な音を立てて高らかにお笑いになった。・・・」(p48)


以上、今日の産経新聞を読みながら。
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芭蕉直筆?

2011-02-20 | 他生の縁
探し物をしていて、当のものが見つからないのに、それ以前に探していたものが、ひょいと見つかる。このことをセレンディピティと教わったのでした(笑)。
さてっと、新聞の切抜きは、いざ探そうとしても見つからず。たいていは切り抜く自己満足で、時がたてば、捨てたと同然とあいなります。
でもね。それが出てくれば、うれしさ人一倍。
昨夜は、その人一倍をコタツであれこれ味わっておりました。
それは、「芭蕉直筆奥の細道」に関しての記事。

朝日新聞平成8(1996)年12月1日の「ひと」欄に
「奥の細道」自筆本を所蔵していた古書店主・中尾堅一郎氏のインタビュー記事。
朝日新聞の次の日夕刊には「芭蕉『真筆』貫く爽快さ」と題して
上野洋三氏の文。
毎日新聞の同じ日の夕刊には櫻井武次郎氏「出現した『おくの細道』」という文。

私は、この記事を切り抜いて、それから、つぎに出版された
岩波書店「芭蕉自筆奥の細道」(1997年)を購入したのでした。
ちなみに、新刊の値段は3296円。現在、ネットの古本屋で調べると
その半額ぐらいが相場のようです。その本の解説にも
櫻井武次郎・上野洋三のお二人が一人15~19ページをついやして経緯を説明しておりました。

さてっと、学者に対しては、学者同士では、あんまり名指しでの反論はご法度のようなのであります。というのも、谷沢永一氏の言葉に、こんな箇所があるのでした。

「僕の本には、僕の人生のドラマの登場人物が、全部、実名で出てきますが、それは他の人の本にはあんまり見ないことです。それは、軍隊で、『塹壕のなかでのことはいっさい、出てから言うな』というルールがある。同じように、学内のそういうことは、いっさい外に言わない。僕だけが、例外なんです。僕は、いわゆる学者街道から外れて、もの書きになりましたから、そこで自由に書けるわけです。いわゆる学者の世界にずっと僕がおれば、これは書けないですよ。いわんや、自分の学位が却下されたというようなことを書いた人は、明治以来、ひとりもありません。却下された例は、いくらでもあるはずですけれども、しかしそれはもう、絶対に表に出ません。・・・」(「運を引き寄せる十の心得」ベスト新書・p114)

なぜ、谷沢永一かといいますと、
谷沢永一著「完本 巻末御免」(PHP研究所)に
2回にわたって、この「芭蕉の自筆本」についてが取り上げられていたからなのでした。
ちなみに、巻末御免は月刊雑誌Voiceの連載で、その平成9年7月号と8月号につづけて取り上げられていたのでした。

さてっと、どこから引用していきましょう(笑)。
たとえば、谷沢氏のこんな箇所はどうでしょう。

「新出本を新聞が報じるに至る前夜、某紙から感想を求められた私は、全面否定の見解を語ったため、既に自筆本であると謳いあげる方向に走ると決めている編集方針に反するので、私の推論は握り潰された。ただ一紙『日本経済新聞』だけが原信夫による懐疑的論評(コメント)をも掲げた、その慎重な姿勢が記憶に残る。我が国の新聞はどうしてこれ程までに揃って軽率に一方的な速断に走るのであろうか。」(p182)

谷沢氏のコメントが新聞に載れば、新刊など買わなかったのに(プンプン)。
なんとも困った新聞社があるものです。

さてっと、つぎは、どこから引用しましょう。
上野洋三氏の夕刊の文にします。

「・・・筆者はこの一年余、もっぱら筆蹟(ひっせき)判定の上から本点の調査にあたり、最終的に99%の確率で芭蕉の真筆と結論を出した・・・」

途中を端折っていきます。

「とりわけ『芭蕉全図譜』は、作品、書簡、俳書につき、その時点で存在を確認できた476点を収載して、これを年代順に配列したものであり、その成果は、正確に現在の芭蕉研究の状況を示したものであった。・・・・現在、芭蕉の書いた文字を眺めるわたくしたちの眼力は、この数年間の以上のような急激なレベルアップの中にある。以前ならば、誰もが尻ごみして判定の場で口を濁していたようなものでも、ただちに意見が飛び交い、議論が始まり、結論に傾いてゆく。・・・・」

おいおい政治の議論みたいに語っている箇所です。
ここで、芭蕉の書き癖を、上野洋三氏はとりあげていくのですが、
ここで、また谷沢永一氏の文へともどりましょう。

「果せる哉その道の専門家によって、実証的な検討が開始された(『日本古書通信』5月)。口火を切った増田孝は『日本近世書跡成立史の研究』(文献出版)本文六百余頁別冊史料図録百三十余頁の著者である。書の黎明期から幕末維新期に至る書跡の真偽を永年にわたって凝視してきた綿密な吟味の結晶であり、その慎重と控え目な筆致は清爽の気が漲っている。」

「『芭蕉の書き癖』という、本来なら容易に断定できない筈の重要問題が、いとも安直に公理の如く振り廻されてきたが、この粗忽な態度は真贋の見分け方を知らぬ者の一方的な思い込みに過ぎない。そもそも『似せ物』を作ろうとする者が最も意識的に真似ようと努めるのが書き癖であるのだから、偽物は必ず書き癖が酷似する。故にもし芭蕉の書き癖なるものが明確に判明していると仮定しても、癖が同一であるからとて真物でるとは断定できない。鑑定に際しては、他人が真似ることのできる書き癖などという表層的な部分ではなく、書のかたちや線の質や筆脈などが書の上に看てとれる姿、つまり書風こそ吟味の核心となる。増田孝は新出本に用いられている草体の『は』を19箇所にわたって取り出し、比較検討を明示した結果、この本の筆者は自分本来の書を自然に書いているのではなく、何か別の書きものを写そうとしており、それが書体の一貫性を欠いた不安定な運筆の揺れとなって現われている実状を詳しく指摘した。そして権威あるかの如く利用されている『芭蕉全図譜』(岩波書店)は、実はどれが真物か判明しない擬似的な作品の無定見な寄せ蒐めに過ぎぬと見て、編者の無責任を嘆いている。」


ここらで、ちょっと話題をかえます。
谷沢永一著「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書)では、中村幸彦と谷沢永一の関係が丁寧に書かれております。静かな大人という中村幸彦先生についての言及が心に残ります。
さて、また芭蕉の鑑定へともどって、その谷沢氏の文にもちらりと中村幸彦氏が登場しておりました。そこを引用。

「このような真偽の問題を判定する為には、単に俳諧の研究者というだけでは不十分であり、近世の書跡をよほど広く丹念に検討した経験豊富な人でなければならぬ。幸い打ってつけの候補者が少くとも二人いる。そのひとりは、嘗て小高敏郎が、博学宏識一世に鳴る中村博士、と賛嘆した中村幸彦である。もうひとりは、天理図書館の蒐書を司ること多年、真偽の鑑定に精魂を傾けた木村三四吾である。・・・」

「取材に訪れた記者に中村幸彦はこう答えた。いわく、私は芭蕉自筆の真偽を鑑定できるほどエライ学者ではありません。」

ちなみに、中村幸彦(1911~1988)
     谷沢永一(1929~ )
     櫻井武次郎(1939~2007)
     上野洋三(1943~ )


ついでに、中村幸彦氏がこう語ったのなら、
中村幸彦に、天理図書館で研究の際のコメントをいただいたという板坂元氏ならいったいどう語るのだろうと私は思うのでした。
その板坂氏のコメントと思しき箇所がありました。
ありました。

板坂元著「発想の智恵表現の智恵」(PHP研究所)は1998年に出たのでした。岩波書店の「芭蕉自筆奥の細道」は、その一年前の1997年に出ておりました。当然に板坂氏は、この経緯を御存知だったと思われます。
この「発想の智恵表現の智恵」の一番最後の文を引用しておきます。

「私たちが学生のころ、俳諧を勉強していて、芭蕉やら蕪村やらの真蹟というものを調べるとき、先輩から本物ばかりをたくさん見るようにとよくいわれた。芭蕉の書いたと称されるものは、おそらく99%はニセモノだろう。そのニセモノを見慣れるとカンが鈍ってしまう。絶対本物というのを、しょっちゅう見ていると、一目でパッと真偽がわかるようになる。骨董屋さんが小僧さんを訓練するとき、やはり本物ばかり見せて、目を肥えさせる、あれと同じことをやれねば、という注意だった。・・・・
多分に精神主義になるけれど、本物主義というものは、生活感覚として非常に大切なものだし、また、本来人間は、潔癖であるべきなのだ。」(p202)

この言葉で、板坂元氏は新書をしめくくっておられました。
あ。そうそう。 板坂元(1922~ )
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表出手段として。

2011-01-25 | 他生の縁
加藤秀俊著作集の内容見本を見てます。
そのご自身の挨拶に「わたしもことし50歳」。
つまり、著作集全12巻は、50歳までの集成ということなのでした。

ちなみに、桑原武夫・川喜田二郎・永井道雄・小松左京、W・シュラムの5人が、
著作集に寄せての推薦文を書いておりました。
桑原氏の文は以前引用したことがあるので、
ここでは、川喜田二郎氏の言葉から、
「・・加藤さんの文章はサラリと明快で、現代的だ。気負わず具体的である。文化や社会の事を論ずる日本の学者にありがちな権威主義的ゼスチャーはカケラもない。」


そういえば、加藤秀俊著「整理学」(中公新書)は昭和38(1963)年に出ており、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)は昭和44(1969)年に出ます。

梅棹忠夫氏は1920年京都市生まれ。
加藤秀俊氏は1930年東京生まれ。

梅棹忠夫著作集の第11巻は「知的生産の技術」が入っておりまして、その最後のコメントに加藤秀俊氏が書いておりました。
せっかくですから、そこから加藤秀俊氏による梅棹忠夫評を
端折って引用

「・・・かれの精神の奥深さには、言語というかぎられた表出手段にたいするもどかしさと、その限界についての諦観のようなものが沈潜しているようにわたしにはみえる。これだけ多作で、しかもその著作のひとつひとつが珠玉のごとき輝きをもちながら、そして、その文章がこれだけ明快でありながら、ほんとうの梅棹思想は他者のうかがい知ることのできない前言語段階でよどんでいるのではないか。・・・ひとりのめぐまれた後輩として梅棹さんとのながい交遊のなかで、わたしはかれのなかにある実存のかなしさとおそろしさをつねに感じつづけてきたのであった。表出手段としての言語の限界をしっているからこそ、梅棹さんはごじぶんのあらゆる著作に愛情と責任と、そして執着をもっておられる。・・・・」
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