和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

昭和20年の日本語。

2009-08-17 | 幸田文
幸田文を読みたいと思いながら、読んでいない私です(笑)。
ということで、幸田文の気になる箇所。
篠田一士の言葉に(kawade夢ムック・総特集幸田文)p158

「幸田文の作品を読んで、はじめにだれしも経験するのは、日本語がこんな美しいものだったかというおどろきである。美しいといっては多少そらぞらしくきこえる。言葉のひとつひとつが、しかとした玉のごとき物体となって、読者の掌中のなかでずっしりした重さを感じさせるといった方が、まだしも正確な表現になるだろう。玉のまどやかな触感―――それははじめ冷やかではあるが、しばらくすると、掌のあたたかみを吸収して、情感にもにたぬくもりを逆に放射する。」

「日本語がこんなに美しい」という手ごたえが面白いですね。
幸田文には、どうやら、それがあるらしい。
その美しさをどう、私なら読むか。
これが、幸田文を読むよろこび。
そこいらが、気になるなあ。

たとえば、徳岡孝夫著「妻の肖像」にこんな箇所がありました。

「バンコクで思い出すことがある。町の名は忘れたが、支局のオフィスのあるラジャダムリ街の先に、台湾人のオバサンの営む瀬戸物屋があった。食器を買いに何度も行った。そのオバサンが、実に綺麗な日本語を話した。正しい敬語、正しい言葉遣い。若い日本人の奥さん方は、相手の言葉の美しさに押され、客なのに『ハッ、ハッ』と恐縮していた。私は聞いて、『あ、これは昭和二十年の日本語だ』と、すぐに判った。オバサンが日本統治の終了時に話していた日本語、それは彼女の記憶の中で昭和二十年のまま固定した。われわれも、当時は同じように美しく折り目正しい日本語を喋っていたのである。和子は『あそこでお茶碗買うの気持ちいいわ』と言って贔屓にしていた。」

幸田文のは、その美しさもあるのですが、それだけじゃない。
それは何なのか。
ちょうど、8月13日にブックオフで買った幸田文著「雀の手帖」(新潮文庫)の解説・出久根達郎の文を読んで、こういうイキイキした箇所もあると思えたのでした。出久根さんの文は「幸田さんの言葉」。雀の手帖が新聞連載された年に、出久根さんは東京へ出てきた。と書かれております。昭和34年の3月。では引用。

「私は15歳、古本屋の店員になった。いなかの少年だったので、方言と訛があからさまである。早速、これの矯正をされた。商人になるためには当然の教育なのである。しかし言葉遣いの注意を受けるくらい、屈辱的なことはない。劣っているもののように指摘されるから、いじけてしまう。私は軽いノイローゼにおちいった。そして人の言葉に過敏になった。・・・・そんな状態の折りに、私は幸田文さんの文章に出くわしたのである。・・・たちまち雲と散り霧と消えるのを覚えた。それは、こういうことだった。気取ることはない。飾ることはない。ごく普通にしゃべれば、それでいい。恥じたり、卑下する必要はない。おかしな点は、何もない。幸田さんの口調が、良い手本ではないか。私は何を勘違いしたのだろう。幸田さんは東京の方言を遣っている、と思ったのである。幸田さんの独特の言葉遣いを錯覚したのだった。無理もない。私がそれまで読んできた作家の文章とは、全く異質だったのだから。・・・方言を小説でなく、エッセイの文章に用いていることに、驚いたのである。エッセイというものは、端正な標準語で書くものだ、と信じていたのだった。方言や訛を恥じることはない。と私が言葉の劣等感から解放されたのは、幸田文さんの文章を読んでの上だ、と言うと、おかしいだろうか。実際の話である。少なくとも幸田さんの文章が、一集団就職少年の鬱屈を払拭したことは間違いない。・・・・」「私は幸田さんによって方言コンプレックスを解かれただけでなく、文章の自由を教えられた。どのような俗語を用いても、用い方一つで、美しい文章をつづれる、という教訓であった。・・・」

ということで、昭和20年の日本語と、幸田家の言葉遣いと、その興味でもって、幸田文の文章を読み進めればよいのだろうという方向性が見えてきました。感謝。
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露伴のために

2009-08-09 | 幸田文
篠田一士著「幸田露伴のために」(岩波書店)という本があります。
以前、篠田一士への興味で読んだことがあったのですが、
読む方が未熟なので、理解が及ばないでおりました。
ということで、幸田文への興味から、
それではと、幸田露伴へと触手が伸びて、
どなたか、幸田露伴の水先案内役はいないかと思った時に、
そうだ篠田一士氏の文があると、思い出したりする、迂闊者が私です。

とりあえず。本の題名にもなっている「幸田露伴のために Ⅰ Ⅱ Ⅲ」を読んでみました。なにやら鉛筆で線がひいてある。私が引いた線なのに、すっかり内容を忘失している。さもありなん。というような箇所がありました。

「露伴の文学はむずかしい、という。・・・
昭和40年代の今日においてだけではない。露伴存命中、つまり、彼の作品が書かれた当時においても、事情はさほど変らなかったはずだ。読者が露伴をえらぶのではない。露伴が彼の読者をえらぶのである。読者と作者の出会いはもともとそういうものなのだ。」(p49)

う~ん。篠田一士氏の縁で「露伴が彼の読者をえらぶのである」という微妙な世界へと参入できるかどうか。

篠田氏はこうも書いておりました。

「はっきり言おう。幸田露伴の作品を読み、そこに感動を経験するひとは、彼自身が好むと好まざるに関わらず、日本の近代文学あるいは現代文学に対峙することになる。いい作品はいい、わるい作品はわるいといった鑑賞家の余裕はこの際通用しない。・・・この富は実に潔癖で、他の富との共存をひどく嫌う。」(p78)

幸田文の父親・幸田露伴がいて、
幸田露伴の水先案内人に篠田一士がいる。
まあ、こうして露伴の本を前に、
開いてもみずに、うろうろしているのが私。

篠田氏は、こうも語っておりました。

「昭和20年代の終り頃だったと記憶するが、田中西二郎氏が現代小説の隘路を打破しようという底意をあらわにした大変戦闘的な露伴再評価の一文を書き、露伴に還ることを提唱した。・・・折角の提唱もこれといった実を結ばないまま立消えになってしまった。やはり露伴をつれだすことは大変なんだなあと、他人事とは思えず、陰ながらぼくは嘆息をついた記憶をもっているが、事態は現在悪化こそすれ、決して好転してはいない。」

「それにしても露伴を読むたびに、ぼくの胸はつねに高鳴る。いま、ここに実現されているものを文学以外のどんな名前でよべばいいというのか。」(p64)
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夏中は。

2009-08-07 | 幸田文
森まゆみ著「読書休日」(晶文社)に、
幸田露伴を取り上げた文がありました。
ちくま日本文学全集の「幸田露伴」(文庫)を取り上げておりました。
そこに、こんな言葉があります。

「夏中は『観画談』『幻談』『雪たたき』の頁をめくれば涼しくしていられた。」

うん。うん。夏の涼しい読書。

今年の夏は豪雨のニュースに、館林市の竜巻と続きました。
まだまだ、つづくのでしょうか。
さて、テレビのニュースを見ていて、印象に残ったのは、山口県の防府市の老人ホーム「ライフケア高砂」の土石流災害でした。真新しい老人ホームの一階を土石流が通り、まるで土石流の真ん中にホームが建てられてあったような新聞写真でした。

ところで、「観画談」は、寺を訪ねる主人公の話です。
ちょうど、雨が降ってくる。

「 頼む、
と余り大きくはない声でいったのだが、がらんとした広土間に響いた。
しかしそのために塵一ツ動きもせず、何の音もなく静かであった。
外にはサアッと雨が降っている。
  頼む、
と再び呼んだ。声は響いた。答はない。サアッと雨が降っている。
  頼む、
と三たび呼んだ。声は呼んだその人の耳へ反(かえ)って響いた。
しかし答は何処からも起らなかった。外はただサアッと雨が降っている。」


とにかく、お寺に泊めてもらえることになります。
すると、

「御やすみになっているところを御起しして済みませんが、夜前からの雨があの通りひどくなりまして、谷がにわかに膨れてまいりました。御承知でしょうが奥山の出水は馬鹿にはやいものでして、もう境内にさえ水が見え出して参りました。・・・・すでに当寺の仏殿は最初の洪水の時、流下して来た巨材の衝突によって一角が破れたため遂に破壊してしまったのです。・・・水はどの位で止まるか予想はできません。しかし私どもは慣れてもおりますし、ここを守る身ですから逃げる気もありませんが・・・」

こうして雨具に身をつつみ、安全な場所に移動することになります。

「何処へ行くのだか分からない真黒暗(まっくらやみ)の雨の中を、若僧にしたがって出た。外へ出ると驚いた。雨は横振りになっている、風も出ている。川鳴の音だろう、何だか物凄い不明の音がしている。庭の方へ廻ったようだと思ったが、建物を少し離れると、なるほどもう水が来ている。足の裏が馬鹿に冷たい。親指が没する、踝(くるぶし)が没する、足首が全部没する、ふくらはぎあたりまで没すると、もうなかなか谷の方から流れる水の流れ勢が分明にこたえる。空気も大層冷たくなって、夜雨(やう)の威がひしひしと身に浸みる。足は恐ろしく冷い。足の裏は痛い。胴ぶるいが出て来て止まらない。・・・・風の音、雨の音、川鳴の音、樹木の音、ただもう大地はザーッと、黒漆のように黒い闇の中に音を立てているばかりだ。・・・泣きたくなった。」


ちょっと、雨の箇所だけを引用しました。
あとは、読んでのお楽しみ。では、涼しい夏の読書を。
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言葉の近所明治。

2009-07-29 | 幸田文
田中冬二の3巻本全集を、読むともなくひらいておりまして、
和田利夫著「郷愁の詩人 田中冬二」(筑摩書房)へと手が伸びました。
ああ、田中冬二から、堀口大學とつながるなあ。とか。
幸田文から田中冬二へと補助線をひいてみたいなあ。とか。
思いました(思うだけなのですけれど)。

ちなみに、
堀口大學は、1892年生まれ(明治25年)。
田中冬二は、1894年生まれ(明治27年)。
幸田文は、 1904年生まれ(明治37年)。

遠くなった明治が、がぜん、つながってくるような、
そんな身近な手ごたえ。

ということで、言葉の近所明治。といった塩梅。
降る雨や明治は近くありにけり。

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田中冬二随筆。

2009-07-06 | 幸田文
田中冬二の詩をパラパラめくっていたら、
読んだことのない氏の随筆に及びました。
これが面白そうなんですね。
なんだか、たのしみ。
そういえば「サングラスの蕪村」というのも、
詩というよりは、箴言とか随筆に近い楽しみがありました。
ということで、これから読むのですが、
楽しみ。楽しみ。
ということで、田中冬二全集の
一巻をめくってから、
二巻目をパラパラやっていたら、
三巻目の随筆に興味がうつりました。
なにやら楽しそうでありますが、
あれこれと思う楽しみがつながって、
書くのはめんどうだったりします。
梅雨時だからかなあ。
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鰯の話。

2009-07-03 | 幸田文
昭和18年に出た田中冬二の詩集「橡の黄葉」に「焼津の海」という詩がありました。

  焼津の海

沖には白い雲の峯がくづれかけてゐた
鰯の群がおしよせてゐた

漁家や粗末な町家のすぐ裏を
暑さに煤煙の窓をあけた列車が地響をさせて走つた
その窓に海は見えかくれした



うん。そうそう。思い出したのですが、
幸田文に「鰯の話」というのがありました。
それは昭和2年の1月。
幸田文が23歳の時に、父と伊豆へ出かけた時のことでした。
ちょっと、その鰯の話の前に、その頃の幸田文の年譜を振り返ってみます。

1923年(大正12年)19歳
向島の自宅で関東大震災に遇い、千葉県四街道へ避難する。

1924年(大正13年)20歳
六月、小石川区表町66番地へ転居。

1926年(大正15年・昭和元年)22歳
11月、弟・成豊が死去。享年19歳。
12月、チフスに感染するが、翌月には全快。

1927年(昭和2年)23歳
1月、父と伊豆を旅する。
5月、小石川区表町79番地へ転居。

うん。これについては、松村友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)に年譜が掲載されております(p109~)

さて、松村氏の著作を読めばよいのでしょうが、ここはそれ、
「幸田文対話」へとあたってみました。
瀬沼茂樹氏との対談に、その箇所はありました。
ちょっと煩雑ですが、その前の箇所も棄て難いので、長い引用をしてみます。


【瀬沼】こうして文さんのお話をうかがっていますと、ことばがなにか古語的ですね。そういうのも先生に訓練されたためでしょうか。
【幸田】ええ。お客さまのお取次ぎでも、とにかくはじめが、『するか、せんか、どっちかだ』と、『後生だからはっきり言ってくれ。それでなければ取次ぎはつとまらない』って。大人がするみたいに、真っ直ぐ相手を見て、むこうの言うことをまずよく聞くんだ、それを覚えてきて親父のところへ行って、親父の言うことをむこうへちゃんと伝える。その間に自分が勝手にこしらえてはいけないっていうんです。だから、『いまはいやだと言いました』というような返事になってしまうわけ(笑)。
【瀬沼】いちいち復唱するわけですね。
・ ・・・・・・・・・・
【瀬沼】先生のこわいところばかりですが、やさしいところはどこですか。
【幸田】いまどきのお父さん方よりも遊んでくれたと思います。
縄跳びでも、綱渡りでもしてくれました。それから、いっしょに鮒も釣ってくれたし、メダカをとったり。私が二十何歳かになったときでしたかしら。鰯の泳いでいるのを見たことがないっていいましたら、『これはいけない』といって、伊豆の三津浜(みとはま)へつれていってくれました。囲った鰯ではないんです。畳一枚くらいの小さなグループになって泳いでいるんですね、鰯って。『見ろよ、これだ。これが鰯なんだ』と。鰯というのは、どんなに群れたがって、傷つきやすくって、そして弱い魚かということを、わざわざ見せてくれました。


うん。いつぞやの新聞で、水族館の大型スクリーンのようなガラスの水槽に群れる鰯の写真が載っていたことがありました。いまでは、そこへ連れて行くことが出来る(笑)。
もう少し書き加えます。
鰯ということで、最初に思いうかべた詩がありました。
それについて

衣更着信著「孤独な泳ぎ手」書肆季節社という詩集のはじまりは、
題名の「孤独な泳ぎ手」でした。
それを引用してみます。
では、はじまりから引用してみましょう。

 いわしの集団のなかで泳いだことがあります
 夏の真さかりの、まだ五センチくらいの小いわしの群れが
 浜辺まで近寄って来ることがあるでしょう

 近寄っては離れ、固まっては小さく散る
 その辺は、小さな雲の影みたいに濃紺色が走るんです
 うす緑の、勢いを誇っている海の水に―――

 いたずら心を起して、魚の群れのほうへ泳いでみました
 かれらがせいいっぱい陸に近づいたときに
 なにしろ、そんな時刻(ちょうど十二時、わたしは昼食前)に

 この浜で泳いでいるのは、わたしだけでしたから
 人家を出ればすぐ浜辺ですが、危険だとか
 水が汚れているとかいって、子どもたちを泳がせないんですよ

・ ・・・・・・
泳いで近寄っても、魚は逃げませんでした

意外にも左右にさっと開いて、わたしを群れに
はいらせてくれた、そしてそのあとを閉じるんです
つまりわたしは小いわしの集団の真ん中にいる

・ ・・・・・・・
しかし、さすがです、魚は絶対に人間にさわらせませんよ
わたしの泳ぐスペースを最小限に許しているのに

・ ・・・・・・・  
泳いでいると妙なことを考える

その真ん中にいるのにさわれないんですよ、lifeは―――
至近距離にあるのに、道を開いて迎え入れ
ときにむこうから近づいて来るのに、さわれないんです、lifeは―――

太陽が激しく輝いていても
潮風がさわやかに吹いていても、これだけ沖へ出て来ても、
沈下海岸に積まれたテトラポッドがかすんで見えるほどになっても

すぐそばを泳ぐ魚に手が届かないように
これだけ歳月を過ごして来ても
目がくらむほど暮しを続けて来ても

わたしはもどかしい、わたしはさわれなかった
あれがlifeなんだ、今こそ悟る
あれがlifeなんだ

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蝸牛(かたつむり)。

2009-06-16 | 幸田文
6月にはいって、道路に蛇のペシャンコに轢かれた様子が目につく地方におります(笑)。
今日の読売俳壇をみていたら、正木ゆう子選の最初は青大将でした。

  ひさびさに会ふ青大将元気元気   別府市 河野靖朗

【評】元気なのは青大将なのだろうが、作者のようでもある。
山歩きでもしているのか、リズムに乗って思わず口を衝いたような下五が楽しい。まさに俳句は勢いこそ大事。


あじさいの季節には、カタツムリをよく見かけます。
宇多喜代子選の俳句の3番目にありました。

 でで虫の今発心の歩速かな   静岡市 広瀬弘

【評】のろのろと進む蝸牛。その蝸牛にも『発心』というものがある。
その時が『今』だというのだ。



青木玉対談集「祖父のこと母のこと」(小沢書店)のはじめのほうにありました。


「小石川蝸牛庵は昭和二年に移ってきたんです。
祖父は『蝸牛庵というのは、家がないということさ。身一つでどこへでも行ってしまうということだ。昔も蝸牛庵、今もますます蝸牛庵だ』と言いましたが、要するに祖父は自分の背中に殻を背負って、ヌーヌーどこへでも出ていこうという思いがあったんですね(笑)。その前にとりあえず住んだ向島蝸牛庵は、今、犬山の明治村へ行ってます。」(p13)


うん。ついでに、新美南吉の「でんでんむしの かなしみ」も思い浮かんできたりします。
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『吾輩』と小学生。

2009-06-11 | 幸田文
朝日新聞の古新聞を読んでいたら、
日曜日の読書欄に筒井康隆氏が「漂流 本から本へ」と題して連載をしておりました。その5月31日は9回目。夏目漱石著「吾輩は猫である」が登場しておりました。ちょっと引用。

「小学生にはむずかしかったが、それだけに読み返すたび新たな発見があり、くり返して読む愉しさがあった。アンドレア・デル・サルトなどの固有名詞や、天璋院様の御祐筆の妹のお嫁に行った先のおっかさんの・・・などの名フレーズも記憶してしまった。・・・
漱石の文章は読む者に影響を与える。特にこの『猫』と『坊っちゃん』の断定的な語り口は、同時代の読者にずいぶん影響を与えたらしく、全集を全巻読んだと思える父の文章も漱石そっくりだった。
『猫』と『坊っちゃん』を読んだぼくは、次に『三四郎』や『虞美人草』にも手を出したが、これは面白くなかった。今でもそうなのだが、恋愛がからんでくるととたんに面白くなくなる。途中で投げ出さなかったのは心理的社会主義リアリズムとして今のぼくがわりと高く評価している『坑夫』くらいのものであろうか。落語的な語り口でユーモアがちりばめられていたから、なんとか読めたのだろうと思っている。・・・・」

ちょっと私に興味深かったのは、「断定的な語り口」という箇所でした。
そういえば、筒井康隆氏は、以前に断筆宣言をしておりました。
語り口をとかく干渉させられる。それを拒否する姿勢が、記憶に新しいところであります。
とりあえずは、語り口。筒井康隆氏は大阪出身なのですが、(何でも特技が大阪弁)
こりゃ、江戸言葉、端的な落語的な語り口とつながってくるのじゃないか。
そりゃ、幸田文の語り口とも地続きな、気安さがありそうだと、つながりをそんたくしてみたくなるじゃありませんか。

ということで、なんでつながるのか、アイマイなままですが、
ここから青木玉へとつなげます。

青木玉は1929年生まれ。
筒井康隆は1934年生まれ。
ちなみに、
漱石と露伴はともに慶応3年(1867年)の生まれ。

青木玉対談集「祖父のこと母のこと」(小沢書店)のなかの鼎談でした。
小田島雄志・村松友視・青木玉の三人での話の中でした。

【村松】お話の仕方、(幸田)文先生に似てるって言われませんか。
【青木】似てるんでしょうねぇ。
【村松】なつかしい感じしちゃいましたもの、いま。 (p117)

なんていう些細な話から、語られてゆくなかに『吾輩』が出てきたりするのでした。

【青木】祖父は若いころ『珍饌会』というへんな食べもののことばかり書いた本を出してるんです。いまで言うグルメを揶揄したものですね。夏目漱石の『吾輩は猫である』が天下一品楽しい本だと思って読んでたら、祖父が母に『玉子に、おれのものも読ませろ』と。『これはむずかしい本読ませられるんで、かなわないなあ』と思ってたら、読ませられたのが『珍饌会』でした。
【村松】おいくつぐらいのときですか。
【青木】小学校六年ぐらいだったと思います。


う~ん。露伴の孫が、家で漱石の本を読んでいるわけです。
ところで、『吾輩』は露伴の蔵書だったのでしょうか?
というのが、次の疑問。
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名残(なごり)。

2009-06-06 | 幸田文
幸田文晩年の作品に「木」「崩れ」があります。
たとえば、松山巌氏は、こう書きはじめておりました。

「瑞々しい眼、若々しい意欲。いかにも常套的な惹句だが、こう記せずにはいられない。幸田文が亡くなって早二年が経とうとしている。生前に発表しながらも、自身ではどこか不満があって、単行本としなかった文章が相次いで刊行された。『崩れ』と『木』である。・・・」(「手の孤独、手の力」中央公論新社。p99)

また、松村友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)の最後の方には、こんな箇所もありました。

「・・・『崩れ』は、生前には上梓を見なかったが、この作品が陽の目を見て本当によかったと思う。それは、『崩れ』という作品こそ、幸田文が作家として残した、幸田文自身への真の意味での鎮魂歌だと思うからである。」(p261)


どうして、これが単行本として生前に出版されなかったのか?
まずは、そんな疑問を素人は安易にも思うわけです。
そういえば、と思い浮かぶのは、
「おくのほそ道」についてでした。
芭蕉は、「おくのほそ道」を、どうしたか?

「元禄七年四月のことでした。清書にかかったであろう時間を考え合わせますと、おそらく元禄六年の冬か七年の春の早いころではなかったでしょうか。こうしてできあがった素竜本は、芭蕉みずから題簽(だいせん)をしたためた上、その年五月の芭蕉の最後の旅の際、その頭陀袋(ずだぶくろ)の中に入れられて・・郷里伊賀の実兄松尾半左衛門に贈られました。何回かの推敲の果てに、やっと完成した作品を、出版しようと計画するでもなく、また他の門人たちに見せたりもせずに、別に文人というわけでもない兄に贈った芭蕉の胸中は、今日の常識からはちょっと理解しがたいところですが、この年正月、郷里の門人意専(いせん)に宛てた書簡の中でも、『利の名残も近づき候にや』と漏らしていたように、あるいは芭蕉はすでに死のそれほど遠くないことを予感するとともに、この作品をひそかに自分の生涯の総決算と考え、死後の形見とするつもりだったのではなかったでしょうか。」

こう語るのは、尾形仂氏(「芭蕉の世界」講談社学術文庫 p252)
尾形氏は、こう語ったあとに、
郷里伊賀の門人土芳(どほう)の書いた『三冊子(さんぞうし)』を引用しておりました。その箇所も孫引きしてみましょう。


「ある年の旅行、道の記すこし書けるよし、物語りあり。
 これを乞ひて見むとすれば、
 師いはく、さのみ見るところなし。
 死してのち見はべらば、これとてもまたあはれにて、
 見るところあるべし、となり。
 感心なることばなり、見ざれどもあはれ深し。」


これを引用したあとに、尾形氏は語ります。


「とありますのは、この紀行文をさしての問答ではなかったか、と思われないではありません。兄に贈られた素竜本が、門人去来の手によって京都の井筒屋庄兵衛方から出版されたのは、芭蕉が亡くなってから八年を経た、元禄十五年のことでした。」
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俳諧評釈口述。

2009-06-04 | 幸田文
幸田文という入口から、いろいろな、繋がりの広がりを思い浮かべるのでした。
たとえば、俳諧。
たしか、松尾芭蕉は、おくの細道のはじまりに、深川から千住へと行くところからはじまっていました。幸田露伴の向島をすぐに思い浮かべます。

ちょっと話をかえて、
幸田文対話に、関口隆克氏との「おさななじみ」という対談が載っております。
それは、何と、幸田文の向島時代を知っている方が、二人で思い出を語っているものでした。まさか、こんな話を聞けるなんて。というのがでてくるのでした。

【関口】・・雷門のところで電車をおりて、吾妻橋で一銭蒸汽に乗ろうとしたら、あの舟板っていうのか、板があって、あれを渡ろうとしたときですよ、落ちた、落ちたって・・・・。
【幸田】あれ、あたくしよ。

それから、その時の様子が話されているのでした。
まあ、それはそれとして、
幸田露伴と幸田文と芭蕉との接点。
ということで、幸田文対話から、ひろってみます。


【幸田】私のところはね、何回も何回も新陳代謝しているものですから。貧乏になると売りますんで(笑)。もっとも大きかったのは大水が出たとき棚がひっくりかえって、書物が水びたしになりました。その時、父がいいました、『おれはもう頼らない、これからは腹の中に書いちゃうから」って。私、子供心に覚えておりますけれど、その濡れた本を、丁寧に一枚一枚、象牙のヘラではがしたものです。唐紙ですから破れやすいし、どっちの字か判らなくなりますしね、しかも早くしないとカビが出ますし、あれは大変な仕事でした。それから貧乏で売りますし、引越しの度に少くなりますし。この戦争の時には、自分の着るものや寝るものを疎開して父の本を焼いたといわれたのでは、ひとりっ子ですから相すまぬと思いましてね、一部をトラックで埼玉県に疎開しました。その時、父がしみじみしまして、あの残ったものが、・・・

【山縣】それは残っておりますか。
【幸田】はい。その時、父がしていたのは俳諧の仕事、評釈でしたが、その関係のものだけは、身のまわりにおき残しました。ですからこの関係のものは焼けました。
・・・・
【幸田】古い俳諧の注釈をすることは、書物がどっさり要ることです。俳諧ですから、生活百般にわたりますから、ずい分材料が要るわけです。人に物を調べさせるわけですが、あんな難しいことはありませんね。ちょっと知識が足らないと手が届かないんでございます。そのちょっと手が届かないところがくやしいのです。ですから寝ておりましてね、なぜお前はそこを一歩突っ込まないって怒っているんでざんすよ。しかもこの助手は人様の息子さんでしょ。・・・・
父が仰向けに寝ている、いっぱいにむくみながら文語体の口述をする。私もやりましたが、寝ながら文語体の口述というのは大変でざんすね。これを仰向けになったままするんです。そうしてこれで治定したから、これを明日清書して、もう一回読んで、文章の悪いところをなおして、これで決定だとなりますと、私も、私の娘も当時十六だったんですが、涙がこぼれましたね。一生懸命仕事しているのは男でございましょ。男の世界ですよ。感情はそこにないんですから。だけど襖一重のこっちでは女二人が感情がいぱいになってきているんでざんすよ。そこに空襲でございましょ。父も年とっておりましたし・・・・。

【幸田】あれをやるのを傍らで手伝いながら、感情を動かしながら聞いていたことが、やっぱり、こうして雑文を書くようになってから、大変為になったと思っています。何しろ季節が非常にあるものでございますから、それにたいする厳しい批判がある、おもしろうございました。しかしこうして何か書くようになるなら、もと一生懸命に聞いておけばよかったと思うのですけれど。


                      番茶清談(山縣勝見)

この対談もまだまだ面白い。それに、
他の人との対談でも、この場面の回想が出てきます。
もうすこし列挙してゆくと面白いのでしょうが、これくらいで。
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小石川植物園。

2009-06-02 | 幸田文
岩波書店の「幸田文対話」での、対談の最後は山中寅文氏でした。
題して「樹木と語る楽しさ」。

幸田文の文章・作文を読むと、「文化」という言葉を思い浮かべます。
カルチャー・culture。動詞のcultivateは、田畑を耕作する。(心や腕を)磨く。(精神を)修養する。(身を)修める。
とりあえず。英和辞典の列挙をならべてみましょ。そうしましょ。
(作物を)培養する、栽培する、養成する。(文藝など)修める、修練する。(武芸など)修行する、研く、練磨する、琢磨する。(善い習慣など)養ふ、修養する。(人と交際を)求める、(交情を)温める。

対話の山中氏とのはじまりに幸田文さんは、こう語っておりました。
それは小石川植物園へ出かけたことを語っております。

【幸田】・・・ふと思いついて植物園に出かけたのです。
ところが園の中は広いし、植物は何もしゃべらないし、まことにどうも、面白くない。ベンチに腰かけていたら、白衣を着た人が通りかかった。「植物園の方ですか」って声をかけると「そうだ」と言う。ベンチの後ろにスーツと何本かのもみじが並んで折柄実がなっていました。「あれ、幾つくらいなってるんでしょうね?」ってその人に聞いたら、言下に「まあ、五千だね」って。たまげました。おっかぶせて「どうしてわかるんですか?」そう聞いちまうと・・・「そりゃ、数えたことがあるからさ」といわれ・・されから、もう二十年になるのですね。

そのあとに、イイギリ(飯桐)の実には、どれくらいの種が入っているかという質問に山中氏は「六十から九十入っていますね」と答えたことから、その話題が膨らんでいくのでした。これ象徴的なので、この箇所も引用します。


【幸田】小さな実の袋の中にがむしゃらどっさり入っている植物の種子みると、私は主婦人間ですから、ピンと、タラコだとか魚の卵を連想して納得します。細かいものの力というのは、大へんなものだと思う。それから、「何でこんなに沢山子どもを産まなきゃならないのかしら」と考える。山中さんは「みんながみんな大きくなんねからだ」というわけ。
【山中】たとえばランの種子は、一果に十万ぐらい入っていますが、まれにしか生えてきません。種子の多い植物は弱いのです。一番強い種子は何かというとドングリですドングリは、一つしか実がなりませんが、どこに落ちても必ず芽が出る。種子の多い、一本に何十万も種子のなる木はまことに弱いけれども、神様がもしたくさんの実をつけて下されば、千に一つは生えるので、それで充分ということになるんですね。


これが、対談のはじまりでした
ああ、そうかと私が思ったのは、
どうも、本を読んだりすると、私はあれこれと関係ないことを思うのでした。
そうすると「種子の多い植物は弱いのです」という山中氏の言葉が、あらためて味わい深く思えるのでした。
そういえば、あれこれと思うなかに、ドングリということで、寺田寅彦に「団栗」をテーマにした随筆があったなあ。
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四十、五十になって。

2009-05-30 | 幸田文
文庫の新刊で、青木玉対談集「記憶の中の幸田一族」 講談社文庫 が出たようです。

これ、1997年に小沢書店から出版された
青木玉対談集「祖父のこと 母のこと」の文庫化。
いぜんの、小沢書店の単行本は、装画・堀文子でとてもステキな本です。
なかには、その堀文子氏との対談も載っております。
そこでは、堀さんは、青木玉さんへこう語っておりました。

「あなた様の書かれた『小石川の家』を拝読して、実は私、
一頁ごとに飛び上がりそうになりました。私自身の子供時代とオーパーラップして、叫びたくなるような思いでした。」

ちなみに、堀文子は1918年生まれ。
そうして、青木玉は1929年生まれ。
どちらも、東京に生まれてます。

いぜんの、小沢書店の本の装丁が、とても味わいがあったので、
ここでは、堀文子氏の話を、丁寧に取り上げておきます。

「私は父親に『わしの云うことはおまえが四十、五十になってわかることなのだから、黙って聞け』などと頭ごなしに言われて、なんて嫌な家だろうと思ったものです。それがだんだん齢を取ってくると、本当にわかってくるから不思議。」

「いざというときの強さにつながる。それこそが昔の厳しい躾が持つ、真の意味かも知れませんね。」

もう少し引用しましょ。幸田文を語っている箇所です。

【青木】ええ、周りにいる人間の面倒ばかり見続けた人です。そして祖父を見送って、見なければいけない人がいなくなったときに物書きになった。
【堀】それが、四十四歳。あの時代の女は、自分のためには中々生きれらませんでした。でも人に尽くし忍びながらも、全てが終わったら自分の好きなことをするという、残り時間を待っていたんです。どんなに自分を捧げても大丈夫なだけ自分を鍛えていたように思います。
【青木】母は自分自身、物書きになるなんて思ってもみなかったと思います。


その思ってもみなかった人の、書きものを私たちは読める幸せ。
そして、それにまつわる対談を読める幸せ。
というのが、あるんですね。
四十、五十になると。
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ブジブジブジブジッ。

2009-05-29 | 幸田文
村松友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)に
「『幸田文対話』に収められた対話には、いずれも興味深い語りの妙味がただよっている」(p106)とあります。たしかに、と私も思うのでした。
たとえば鯖の話はどうでしょう。

「今は、もう炭がなくなったでしょ。あたし、鯖が出て来る時期になると、しみじみ子供の時が懐しくなるんです。父がね、鯖って下魚(げうお)だけれど、旬には塩焼きにして、柚子の絞りしるをかけると旨いと言うんですね。焼く時には、庭とかお勝手の外へ、七輪を出すでしょ。あれ、トロトロした火で焼いてると旨くないんですよね。炭がうんとおこったところでやんなくちゃいけない。それで、パーッと粗塩をふって焼く。そして、ブジブジブジブジッてまだ脂がはじけているうちを、大いそぎで父のお膳にもっていく。庭に柑橘がいろいろあるでしょ。それを二つに切って添えて行く。そうすると父は書物を読んでいても、さっとやめて食べてくれた。鯖の塩焼きは焼きあげたそのいっときの熱いうちが勝負なんです。・・・」(「幸田文対話」p346)
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あれは何者だ。

2009-05-26 | 幸田文
山本夏彦対談集「浮き世のことは笑うよりほかなし」(講談社)での
藤原正彦氏との対談のなかで、山本氏はこう語っておりました。

「明治の末頃、長谷川如是閑さんがロンドンにいたころのこと、如是閑さんは大工の家(うち)の出なんです。その時ちょうど万国博覧会があって、長谷川家の出入りの大工が訪ねて来たんです。目に文字のない普通の大工なんですけれど、帰ったあと下宿屋のおかみさんが、あれは何者だって聞くんですって。大工だって言ったらびっくりして、お前の国の大工は皆あんな紳士なのかって。紳士に見えたんでしょうな、風采だっていいわけじゃない。ただ毅然としていたんじゃないですか。」(p244)

ちなみに、この対談は、山本夏彦主宰・工作社刊行の月刊誌『室内』に掲載された対談から選ばれておりました( 夏彦氏は2002年10月に87歳で死去 )。

掲載誌の関連で、対談内容は建築への言及がところどころにあったりします。
それで、大工とかが出てきてたりします。

ここから、私は木へと連想をひろげます。

鶴見俊輔・上坂冬子「対論異色昭和史」(PHP新書)に
ちょっと説明もなく、「樹木のように」と鶴見氏が語っている箇所がありました。

「私は樹木のように成長する思想を信用するんだ。大学出の知識人はだいたいケミカルコンビネーション。そういう人は人間力に支えられていないから駄目という考えです。私と接触がある人では、上坂(冬子)さんにしても佐藤(忠男)さんにしても、樹木のように成長しているものを感じるね。文章を見ればわかる。」(p152)

ここから、幸田文へとつなげたいのです(笑)。

「幸田文対話」(岩波書店)の最初の対談で、父幸田露伴の亡くなる場面を、高田保氏にこう語っておりました。

【幸田】あたくし、一生の中で一番よかったのは、死なれた後の二、三日でした。すうっとして、空っぽになって、宗教的とか何とかというよりも、自分が木とか草とか虫とかと同じものになって、その時にいくらか謙遜になれたかと思っているんですけれど・・・。死ぬ前後ですから、あの時ぐらいゴタゴタしてる時ってないんですけど、あの時ぐらい穏やかにいられた時はないんです。その時来ていた人たちに言わせれば、文子さんは凄い馬力だったって・・・。
【高田】木とか草とか虫とかと同じになったから、馬力が出たんですよ。 (p14)


こういう幸田文さんにとって、奈良・法輪寺の三重塔再建で宮大工と過ごした時間はどのようなものだったのだろうと、私は想像を逞しくするのです。

ところで、長谷川如是閑のロンドン下宿のおかみさん。
そのひとの言葉を、もう一度思いうかべるのです。
「あれは何者だって聞くんですって。大工だって言ったらびっくりして・・・」。
こういう驚きというのは、
文章にもあるものでしょうか。
それが文章にもあるとすると、いったいどのような時なのか?

あるいは、こんな表現になるのじゃないか。
と思える「解説」を篠田一士氏が書いておりました。
そのはじまりの箇所。

「幸田文の作品を読んで、はじめにだれしも経験するのは、日本語がこんな美しいものだったのかというおどろきである。美しいといっては多少そらぞらしくきこえる。言葉のひとつひとつが、しかとした玉のごとき物体となって、読者の掌中のなかでずっしりとした重さを感じさせるといった方が、まだしも正確な表現になるだろう。玉のまどやかな触感――それははじめ冷やかではあるが、しばらくすると、掌のあたたかみを吸収して、情感にもにたぬくもりを逆に放射する。
こうした日本語の怪しい肉感性をもつ文学を、誇張でなく、寡聞にしてぼくは外に知らないのである。・・・・・
幸田文の文学には自然主義→私小説の陰画はまったく認められない。ともかくこれは今日の日本の文学者の場合稀有なことであり、また、この作家にはじめて接した読者に襲いかかるおどろきの一端を説明する文学的事実でもあろう。」(p158.「KAWADE夢ムック 文藝別冊・幸田文 没後10年」)

うん。あらためて、
幸田文とは、あれは何者だ。
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履物屋。

2009-05-21 | 幸田文
林えり子著「東京っ子ことば抄」(講談社)には、
「東京っ子ことばの親玉は幸田文」と題する文が載っております。
そこに、「まじりっけなしの東京っ子といえば、すぐに思い浮かぶのが幸田文であった」とあります。ちなみに林えり子は、どんな方なのか。こうあります。「私自身、ふた親が東京っ子、その上の祖父祖母も東京生まれ、その先もたどってみると宝暦期の刊本にひょっこり顔をのぞかせている先祖がいたりする家に生まれ育ち、いうならば江戸語東京語しか知らずに成長してきた。」

そして、こう続けております。

「かく言う私にしてからが、東京語を忘れつつあるうえ、先輩の東京っ子ことばがわからないという不明をさらさなくてはならないのである。その恥をしのんで、以下の作業に取り組んだことをあらかじめお断りしておこう。東京語の探索は、いろいろな方法があると思うが、生粋の東京人が書き残したものに当たるというが順当であろう。まじりっけなしの東京っ子といえば、すぐに思い浮かぶのが幸田文であった。幸田露伴の次女である。露伴は『お城坊主』として江戸城に勤めていた幕臣の家の出、江戸っ子以外の何者でもない。文の母は、日本橋の材木商の娘で、まちがいのな江戸娘である。」

おもしろかったのは、
林えり子氏が幸田文の東京語を分類しているのでした。
その分類法がふるっておりまして、

1、私にはほとんど意味がわからないし、同時にそれを口にのぼせているのを聞いた経験がない語。
2、意味はわかるが聞いた経験は私にはないといった種類の語。
3、今は聞くこともないが、以前はたしかに私の周囲の年長者達が口にしていた語。
4、私自身も時として使うが、今の若い人達は使っていない語。

江戸語・東京語といっても、こんな分類が可能なのが楽しくなります。


まあ、それはそれとして、どこで読んだのか、ちょっとわからないのですが、
幸田文が職業を選ぼうとしたときに、履物屋になりたかったという回想がありました。何で履物屋なのだろうと疑問でした。どうやらその回答が林えり子氏の、この本にあったのです。


そこは、「馬場孤蝶の『明治の東京』は、私の大好きな本である。」とはじまる3ページの文にありました。その中頃にこうあります。

「多くの東京っ子が賛同してくれると思うが、着るものより先に、足許をピカピカにしたがる傾向が私たちにはある。私たち世代は下駄ならぬ靴だが、靴だけは流行の先端、銀座を歩いていてもすぐに靴屋に入り、とりあえず目新しいものに履きかえた。そういう東京っ子の、なんだかわからないけど、履物に執着する気分というものが、伝法や鉄火の延長線上にあるとは、孤蝶を読むまでは、知らなかった。・・・・」(p117~119)


ところで、どこに、履物屋になりたかったというのが出てきたかを探していたら、見つからなかったのですが、「幸田文対話」(岩波書店)にこんな箇所があるのでした。

最初の高田保氏との対話にこんな箇所。

【幸田】言葉では教えられたわけじゃないんですけれど、何も言わなくて通じるっていうのが、最も余韻のある楽しいことっていうふうにあたしは父から感じ取っていましたから・・・。
【高田】その以心伝心はあなたと先生と二人っきりの世界のものですよ。あなたは世界に二人とないその相手方に消えられておしまいになったんだ。



最後の方には沢村貞子氏との対話で、こんな箇所。


【幸田】今日はとても楽しかった。あなたとお話ししてると、とても言葉が通じるの。それでさっきから思っていたんだけど、私、ものなんか書かないで、あなたの付人になりゃよかったわね(笑)。私、あなたが教えてくれること、シャッと吸取紙でとるみたいに受けとったと思うしね。そして私のいうことも、あなたがシャッと分ってくれるだろうと思うし。あなたが家へ帰って着物をすうーとぬいで、さぼして、衿をふいてさっとたたむ。私、手つきまで分っちゃう(笑)。裾を折返して、シャッと戸棚へ入れる手つき、持ち方だってちゃんと分っちゃう(笑)。
【沢村】それでなければ、私が先生の秘書になればよかった。『あの』といったら、『はい』と向うの原稿用紙を持ってきて・・・(笑)。



そういえば、最近読んだ対談に日下公人・高山正之著「アメリカはどれほどひどい国か」(PHP研究所)があります。そのはじまりの日下氏の言葉に、こんな箇所がありました。


「アメリカ人や中国人が口がうまいというのも、アイデンティティのない証拠です。力がない人間が商売や戦争に勝つには、相手を騙すしかない。だから、嘘をつく技術も、世界最高に発達しています。すぐばれる嘘を平気でつくし、サブプライムローンのように、一見ばれそうにない高級な嘘もつくる(笑)。そして、相手には『自己責任』と言う。」
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